時折木枯らしが吹くようになり、そう遠くない冬の到来を感じる季節になった。
 しばらく、美澄さんから連絡はなかった。よかった、本当は何ごともなかったのかもしれない。
 月曜日の夜、私は冷蔵庫を開けて愕然とした。楽しみにとっておいたケーキがない! 昨日買ったはずのコンビニスイーツが、跡形もなく姿を消している。
「おかあさん! 私のケーキどこにやったの!」
「何言ってるの、触ってないわよ。ケーキなんてあった?」
 洗い物をしながら、母は面倒そうに返事をする。「冷蔵庫にあったでしょ」私が食い下がると、「お父さんが食べたんじゃない?」とのこと。母でも私でもないなら、父に違いない。まさか茶太郎が冷蔵庫を開けてケーキを食べるはずがないし。
「もー、せっかく大事にとってたのに」
 すっかり口はケーキの味を求めている。このために課題を終わらせたばっかりなんだ。我慢できず、私はジャケットを羽織ってポケットに小銭入れを突っ込んだ。
「そんなに食べたいの」母の呆れた声が追いかける。「太るよー」
「いってきます!」
 非情な言葉は無視して、家を飛び出した。コンビニまでは歩いて十分程度だ。だけどすっかり暗い道が少し怖くて、私は気を紛らわせるためにスマホを手にした。通知が一件、美澄さんだ。昨晩の何気ないメッセージへのたわいの無い返事。ほっとしながら、ケーキ紛失事件への憤りを語り、コンビニへ買いに行く途中だと送る。

 ――こっちも、もうすぐ駅に着くところ!

 コンビニは、美澄さんが使う駅からマンションへの途中にある。会えるかもしれないと打ち込むと、それならコンビニに寄ると返事がある。嬉しくなって、待ち合わせの約束をすぐさま取り付ける。
 これで帰りは寂しくない。嬉しさに足が軽くなるのを感じながら、コンビニの駐車場に入った。

 しばらく雑誌コーナーで立ち読みをしていると、会社帰りの美澄さんが入店した。私を見つけると、途端に笑顔になって駆け寄ってくる。
「お待たせ! ごめんね、遅くなって」
「ううん。それより、美澄さんのスーツ姿初めて見たかも。かっこいいね!」
 ピシッとスーツを着こなした美澄さんはいつにも増してかっこいい。私もこんな大人になりたいと改めて思う。
 目当てのコンビニスイーツを買って、イートインで食べながらお喋りをして、一口ずつ交換する。今日の終わりにこんな楽しい時間が訪れるとは思わなかったから、ケーキを盗み食いした父に少しだけ感謝する。
 それでも話し込んでしまう前に、帰ることにした。明日も学校と会社が待っている。
 私の家と美澄さんのマンションは同じ方角にあるから、話しながら並んで帰路に着いていた。
 ふと、美澄さんの表情から笑顔が消えた。黙ってしまった彼女は神妙な顔つきをしている。
「どうしたの……?」
 唇に人差し指を当てて「静かに」のポーズを取りながら、立ち止まりかけた私を促して美澄さんは歩き続ける。足音、と彼女が私だけに聞き取れる声量で囁いた。
 耳を澄ませて、私も気が付く。私たち二人の他に、もう一人分の足音が聞こえる。小さくて、神経を張らないと聞き取れないぐらいだけど、確かに誰かが後方を歩いている。
 ぞくっと、私の背筋に寒気が走った。ここに来て、美澄さんの不安な気持ちを痛いほど知る。夜道で誰かに尾けられるというのは、想像以上に恐ろしい。相手の意図が分からないから、下手をすれば刺されるかもしれないという恐怖が、背中をチクチクと刺激する。
 駅やコンビニのある大通りからすっかり外れた、ひと気のない暗い住宅街。もうじき午後九時に至る道は、ぽつぽつと街灯に照らされるだけで、ひどく心細い。すぐ隣に美澄さんがいる、だから一人で歩いてるわけじゃないのに、怖くてたまらない。
 明らかに、気のせいなんかじゃない。私たちが足を速めると、向こうの足音も速くなる。角を曲がるとついてくる。ふりむいて確かめるなんてもっての外だ。もし目が合えば何をされるかわからない。
 私の家の前は、辿り着いても素通りした。帰る家を知られるわけにはいかない。
 どうしよう。
 口の形で訴えつつ、私は角のカーブミラーをちらりと見上げた。だけど相手は距離を計算しているのか、ミラーの円の中には決して入ってこない。姿が分からない幽霊みたいだ。いっそのこと幽霊だったらどれだけいいか。
「撒こう」
 美澄さんが耳打ちした。
 必死に怯えを殺しながら、私は頷く。大丈夫、美澄さんがいるならきっと大丈夫だ。
 そして、頼れるお姉さんの合図で、同時に駆け出した。
 がむしゃらに走って、角を曲がってを繰り返して。体育なんか比じゃない必死さで私は走った。美澄さんが手を引いてくれる道を走り続けた。
 足音は少し追いかけてすぐに諦めた。
 それでもしばらく走って走って、息が上がってきた頃、私たちはようやく足を止めた。
 激しい呼吸をしながら恐る恐る振り返ったけど、道の向こうには誰もいなかった。街灯と月明かりがぼんやりとアスファルトを照らしているだけだった。
 随分遠回りをして美澄さんのマンションに帰る。憔悴した私たちを見て、既に帰宅していた兄は目を丸くした。何度か美澄さんのスマホに連絡したけど、返事がないから残業をしているのだと思っていたらしい。それでも、普段なら一報入るはずだから、心配になってきたところだと言った。
「巻き込んでごめんね、梓ちゃん。勝手にもう大丈夫だと思ってたの」
 謝る美澄さんに、私は折れそうなほど首を振って否定する。靴のヒールが途中で折れてしまい、彼女はそれを脱ぎ捨てて走っていた。ストッキングが破れて、薄く血の滲んだ足は痛々しくて、なんだか泣きたくなってきた。
 その足を洗って手当てして、私も水を貰って落ち着いた頃、兄に全てを白状した。
 なんで黙ってたと、兄は怒らなかった。
「俺、そんなに頼りないかなあ」
 肩を落としている姿が、怒られるよりも却って申し訳なくて、私たちは黙っていてごめんなさいと謝った。
「美人だから、狙われたんだな」
 真剣な表情で言う兄に、私たちは笑うことなどできなかった。