元の楠駅に戻ってきた頃には、空は茜色に染まっていた。
 幸いなことに、旭と追っていたあの人の怪我は大したことはなかった。気絶こそしていたけど、運び込まれた病院で目を覚まして、意識もしっかりしているらしい。片腕の骨折だけで済んだのだそうだ。
 そして、警察には忘れ物をして急いで取りに戻る途中だったと説明したらしい。なぜ裸足なのかというと、靴が途中で脱げたのだという。そんな嘘を到底警察が信じるわけがなかったけど、目撃者として呼ばれた私たちも、何も知らないと答えた。あくまで通りかかっただけだと主張して、飛び出した男の人が車に轢かれたから救急車を呼んだのだと言った。いちいち事故を怪しんで時間を割くほど、警察も暇じゃないみたいだった。
 あの人が保身のために嘘を吐いたんだってことはわかってるし、腹も立つ。本当のことを話せば、高校生にストーカー紛いの行為を行っていたことがバレてしまうから、下手な言い訳をしたんだ。怪我をしてもまだ誤魔化そうとする姿勢には腹が立つ。
 だけど私は、もう関わりたくなかった。今だって、自分のスマホを触るのも気持ち悪いぐらい、げんなりしていた。きっとあの人は、もう私たちにちょっかいをかけてこない。それなら二度と近づきたくないと思った。
 打ち合わせてはいなかったけど、私に合わせて旭も同じ説明をして、解放されてからコンビニのおにぎりだけを食べた。やっと駅まで戻ってきた頃には、既に夕刻が迫っていた。
 駅前のベンチにどちらからともなく腰掛ける。長い一日が、ようやく終わろうとしていた。
 ぐるぐると思いを巡らせる心のわだかまりを、旭がつつく。
「骨折なんてすぐ治る。運転手には申し訳ないけどな」
 そう、どれだけ気持ち悪くて関わりたくなくても、事故の発端は私たちにある。追いかけなければ事故は起きなかった。追い詰めなければ、あの人は骨を折らなかった。やり過ぎたという思いが固まって、胸の奥に深く沈んでいた。
「気にすんな、梓は悪くない。被害者や」
「そうは言っても……」
「もう止めようて、何度も俺に言うたやろ。それを強行したんは俺や。ほんで、梓はついて来ただけや。せやから、なんも気にせんでええ」
 唇を軽く噛んで私は項垂れる。「だけど……」絞り出す言葉は潰えてしまう。旭に何もかもを任せっきりにして、罪悪感まで押し付けるなんて、そんなの嫌だ。その気持ちをどう説明すればいいんだろう。
「大丈夫や。これでなんもかも片付いた」
「あの人が言ってた動機、ほんとのことだったのかな」
「……わからん。九割九分嘘やろうけど、そういうことにしとこうや。なんかあれば、またそん時に考えたらええ。とりあえず、今日は帰ろう」
 彼が腰を上げて、私も頷いて立ち上がる。旭は強いな、と思う。と同時に、怖くもなる。調子に乗ってどこまでも自分が寄りかかってしまわないか。本当は彼も無理をしてるんじゃないだろうか。いつか心の芯がぽっきり折れて、治らなくなったらどうしよう。強くて儚いという言葉が表すものを、私は初めて理解した。
 励ますように、旭は笑う。
「もう帰って寝ときや、顔が疲れとるで。明後日からまた学校やし」
 私も笑って応える。
「うん。……それにしても、旭ってあんな乱暴なことできたんだ。びっくりした」
「俺やって初めてや。こないだの登校日に崎本に会うてな、あいつがただのヒョロガリやって聞いとったから、強気に出られたんや」
「じゃあ、実はビビってたの?」
「ちょっとはな。しゃあないやん」
 なんだか安心して、自然と笑い声が溢れ出た。彼にも私のような怯えがあったことを知って、安堵する。樹旭は特別な男の子じゃない。私と同じ年月しか生きていない、普通の高校生だ。
「まあ俺も腹立っとったしな。最初で最後のチャンスやと思たら、意外と……」
 ふと顔を上げた彼の笑顔が引きつった。初めて見る表情に、私も彼の視線を追って振り返る。
「なにがチャンスなんだ?」
 そこにいたのは、スーツ姿の見知らぬ男の人だった。見た目は四十代半ば、私の父親と同じぐらい。旭より少し背が高くて、髪には白いものが混じっている。どことなく疲れた雰囲気に、口角の下がった表情が気難しさを感じさせる。旭が「叔父さん」と呟いたから、この人が彼の家族なんだと私も理解した。
「いや、その……」
「どうせろくなことじゃないんだろう」
 歯切れ悪く目を逸らす旭に言い捨てる。
「それにまだそんな汚い言葉を使ってたのか。何年こっちで過ごしてるんだ」
 急速に顔を曇らせて、ごめんなさいと彼は呟いた。
「やっと抜けたと思っていたのに、やっぱり誤魔化してたんだな」
「誤魔化してるつもりじゃ、なかったんですけど……」
 汚い言葉というのが、旭の訛りだということにやっと気が付いた。この人は、彼が標準語で話さないことを嫌っているらしい。そして旭は家では家族に合わせて喋り方を変えていたんだ。電話をかけた時にあっさり話し方を変えられた理由が、今になって判明した。
「おまえが全うな人間になるようせっかく矯正してやってるのに、これじゃ元の木阿弥じゃないか。夏休みだからってこんなところで遊び呆けて、随分な身分だな」
 まるで旭が全うではないという言い方に、私は腹が立った。彼に矯正されるべき悪いところなんてないし、今日だって遊び呆けていたわけじゃない。何も事情を知らないくせに、なんでこんな暴言が吐けるんだろう。
 だけど、旭は黙って項垂れている。伏せている目は暗く、もはや表情に明るさは微塵もない。雨のように降り注ぐ小言に、時々謝罪の言葉を口にするだけ。
「人が汗水たらして働いてる間に、へらへらしながら遊び歩いて、おまえはどれだけ不孝者なんだ。バイトの一つもしようとは思わないのか」
「西ノ浦は、バイト禁止なんじゃないですか」
 思わず口を挟むと、旭がはっとしてこっちを見た。彼の叔父さんも眉間に皺を寄せて私を睨む。
「なんだ君は、人の家のことに口を挟むんじゃない」
「旭は、もともとバイトしようと思ってたらしいから……でも、高校が禁止してて出来ないんだって」
「本当に育ての親を大事にしようと思っていれば、高校なんか辞めてさっさと働くのが道理だろ」忌々しげに旭を一瞥する。「高校ぐらい出させてやろうなんて、うちの家内が甘やかすから、こいつが調子に乗るんだ。奨学金がなけりゃ、今日中にでも辞めさせてやるっていうのに」
「西ノ浦なんて、すごいじゃないですか。高等部の編入なんて、そう簡単にできないですよ」
「梓、もういい……」
「あんた、なんなんだ」喋りかけた旭の声を無視して、彼の叔父は私をじろりと見る。「知らないのか、こいつの親は人殺しだぞ」
「知ってますけど、旭には関係ないし……」
「母親なんだ、関係ないわけがあるか。こいつもいつ気が触れるかわからん……殺人鬼が同じ屋根の下にいるようなものだぞ、安心して眠れやしない」
 ひどすぎる。これこそ汚い言葉じゃないか!
 だけど私は、ぐっと台詞を飲み込んだ。旭がやめてくれと眼差しで訴えていたから、乗り出しかけた身を制す。私はここでお別れできるけど、旭はこの人と同じ場所に帰るしかない。少しでも怒りを静めてもらわないといけない。
「やっぱり、おまえはろくな人間と付き合わないな」
 彼の叔父が最後にそう言い捨てて駅の構内に消えていくのを、私は無言で見送った。
 雑踏の中に背中が見えなくなった頃、「ごめんな」と旭が呟いた。「嫌な思い、させてしもた」
「いいよ、そんなの」
「叔父さんの言う通りや。こんな喋り方、さっさとやめた方がええに決まっとる」
 けどな、と彼は力なく項垂れる。
「……死人でも、忘れられんのや。もうこれしか、残ってない」
 彼の言葉を理解して、私の胸はぎゅうっと締めつけられる。服役中の母親と、蒸発した父親。二度と会うことのない彼らとの最後の繋がりが、その話し方だったんだ。三人で暮らしていた頃の言葉をせめて使い続けることで、彼は忘れてしまうことを拒んでいたんだ。
 旭は頬を上げて弱々しく笑う。
「俺にとって、家族なんてのは呪いや。一生ついてまわる、最悪の足枷や。いつまでも憑りついて離れん、質の悪い悪霊や」
 だけど、例え悪霊を祓う方法が分かったとしても、旭はそれを試さないだろう。悪霊と同じ言葉を使い続けて、呪われたままなんだ。
「あさひ……」思わず私はその名を口にする。彼を覆う真っ暗な孤独の姿が目に見えて、彼がその中へ完全に消えてしまわないよう、呼ばずにはいられなかった。ともすれば、泣きたくなるような気分だった。
「大丈夫」それでも、一番辛いはずの彼は笑ってくれる。「今まで全部耐えてこれたんやし、俺は大丈夫や。それに、前に言うたやろ、何て言われても慣れとるって」
 ぽんぽんと、彼は私の背中を優しく叩いた。
「遅くなってすまんかったな。もう帰り。日も暮れてきたから危ないで」
「一緒に帰ろう」
「悪い、俺はちょっと用がある。あの猫たちのお礼、用意せんとあかん」
 それならついて行くと言いかけて、自分の両親の顔が浮かんだ。兄や美澄さん、茶太郎まで。あまり遅くなればみんなに心配をかけてしまう。
 何より、どんなに大丈夫だと言っても、旭はきっと一人になりたいんだろう。そばにいたくてたまらないけど、私がいる限りは無理にでも笑顔を作り続ける。それは彼にとって辛いことだ。だから私は、ゆっくりと頷いた。
「あ、そうや」私が帰る素振りを見せると、旭は突然妙なことを言いだす。「梓の部屋って、ベランダはあるか?」
「あるけど、どうして……」
「なら、寝る前に入れ物出しとき。皿でもコップでもええ。屋根がないとこにな」
「なんで?」
「ええから」変なことを言って、右手を振る。「じゃあ、気い付けて帰れよ」
 躊躇いながら、私も手を振り返した。またねを言い合って、雑踏に足を踏み出した。
 何度も何度も振り返ると、その度に旭は向こうで手を振ってくれた。見えなくなっても構わないように、私は彼の姿を幾度も見つめて、瞼の裏に焼き付けた。