「もう死ぬかと思った」後に結々は口にした。「マジで死ぬかと思った!」繰り返すのに、大地くんと話しても死にはしないと諭して、私は彼女を美術部に送り出した。
 私の鞄は、大抵周りの子より少し重い。図書館で借りた本が入っていることが多いから。でも高校から図書館前のバス停まで十分、下りた先で五分歩けば家に帰れるから、重さはそれほど苦ではない。バスで座れなかった日なんかは、もう最悪の気分だけど。
 読み終わった本を返すため図書館に寄った。月曜の休館日で、足元にタイヤのついた返却ボックスが玄関先に出されているのに、文庫本を三冊滑り込ませた。
 見上げた青空には薄く雲がかかっている。けれど雨は降りそうにないので、少し中庭を散歩することにした。小さな庭だけど、イチョウの木が青々と葉っぱを茂らせていて、その下のベンチに座ると爽やかな風が吹いて気持ちがいい。木漏れ日が制服のスカートに零れ落ちていて、思わず見惚れてしまう。
 なんだか眠くなってきたので、眠ってしまう前に立ち上がって庭を奥に進んだ。二十メートルぐらい歩いて突き当たった先で、右に折れる道がある。そこは建物と塀に挟まれた駐輪場で、私には縁がない。
 だけど可愛い声が聞こえて、思わず足を止めた。「にゃあ」という猫の声。「なー」に近いかも。どっちにしても猫がいるなら是非とも姿を拝んでおきたい。
 そう思った私の耳に、ぼそぼそと違う声が聞こえてきた。こっちは明らかに人間で、何かを言っている。その内容が聞き取れなくて、相槌を打つように「なー」の声が被さって、私はそっと駐輪場を覗き込んだ。
「……せやから、あかんって言うとるやないか」
 自転車のない駐輪場には、ブレザーの制服を着た男の子がいた。ひと目でピンときた。先週、図書館の玄関先でずぶ濡れになっていた男子生徒だ。
 腕を組んで話す彼の視線の先、塀の上には一匹の猫がいる。白い毛皮に黒いぶち模様の、可愛らしい猫。塀の上に丸まって、ゆらゆら尻尾を振っている。
「そない言うたって、食い過ぎたら太るで。病気にもなる。おまえまだ一歳やのに、成人病なんかなりたないやろ。……いや、成猫病か?」
 やば。私は口の中で呟いた。
 猫はぱたぱたと尻尾で塀を叩く。
「駄目や。なんぼ言うても、あかんもんはあかん」彼は軽く靴先で地面をつついた。「おやつが欲しけりゃ、俺以外からなんとかして貰うんやな。まあ、気いつけや、下手に近づいたらあかんやつも……」
 猫の目が私を捉えて、その視線を追った彼がこっちを見た。その表情はみるみる私と似たものになる。ヤバい危険を感じた時の。
 慌てて、私は踵を返した。雨の日に傘もささず、おまけに野良猫相手に会話をする高校生なんて、下手に近づくべきじゃない。途端に、後ろから足音が追いかけてきた。
「ちょ、ちょっと待てえや!」
 待つわけないでしょ。私は絶対に振り返らないようにしながら足早に中庭を横切る。彼があんなヤバい人だとは思わなかった。
「おい、話を聞けって!」
 気配がすぐ後ろに迫って、私が駆け出しかけると同時に、一足早く前に出た男の子が立ち塞がった。びっくりしつつも横をすり抜けようとする私の腕を掴みかけて、彼は躊躇いながら手を引っ込める。どうやら、失礼な人ではないらしい。
 私もやっと足を止めて、怪しい男子学生を見上げた。私や結々より少し背が高いぐらいの彼は、気まずそうな顔をする。
「いや、俺は別に怪しくなんかないで」
「……猫と話してたのに?」
 私の言葉に口ごもりつつ、彼はなおも弁解を続ける。
「なんていうか、俺はな、動物と話せるんや。話せるっちゅうか、言いたいことが分かるって感じやけど。せやから別に、頭がおかしなっとるとか、そういう話やないで」
 十分頭がおかしいじゃないと、私は視線でツッコんだ。「信じられへんと思うけど」私の言いたいことを察して、彼はそう付け足す。
 にゃあと声がした。私たちが振り向くと、イチョウの木の下にあるベンチに、いつの間にかさっきの猫が乗っていた。右耳と背中、尻尾の先が黒い、小さな可愛らしい猫。それを見た彼はため息をついて猫のそばに寄ると、ベンチに腰掛けてその頭を指先でかく。私も動物は好きだから、猫をはさんでそっと座った。背中を撫でようと手を伸ばすけど、猫はするりと私の指をすり抜けて、彼の方に身体を寄せた。
「背中は嫌なんやと」
「じゃあ、どこならいいの」
 質問してみると、彼は猫の顔を見下ろした。猫はベンチに伏せて彼を見上げる。水の膜が張っているような、エメラルドグリーンの澄んだ美しい瞳。この子はとても可愛くて綺麗な猫だ。
「耳の裏をかいてくれって」
「……ほんとに?」
「こいつはそう言っとるな」
 怪しいと思いつつ、私は右手の人差し指で、猫の黒い右耳の裏をかいた。すると猫は気持ちよさそうに綺麗な目を細める。どうやらお気に召したみたい。
 それでも半信半疑だった。猫飼いや猫好きなら、触れられて喜ぶポイントをもともと知っていてもおかしくない。彼もその一人なのではと思う一方で、そうして私を騙す必要がないのにも気が付く。試しに訊いてみた。
「この子、さっきは何て言ってたの」
「ああ、たまーに俺がおやつやっとんやけど、毎日寄越せって言いだしてな。そんなんしたら太るからあかんって叱っとったんや。こいつわがままやから、なかなか言うこと聞かへんけど」
 悪口を言われているのに、猫はころんと横になって大あくびをしてみせた。まるでうちで飼ってるコーギー犬みたいで、思わず抱きしめて頭に顔をうずめて深呼吸したくなるのを我慢して、猫の頭や顎の下を恭しくかかせていただく。
「信じてもらわんでもええけど、ヤバいやつやって思われたままやと、今後会った時に気まずいやろ。やから弁解せなあかんって思たんや」
「私のこと、気付いてたの?」
「そりゃあ、他人でもよう見かけるやつは覚えとるよ。おまけに制服やと目立つしな」
 私が彼に見覚えがあったのと同じく、彼も私を認識していたらしい。私が図書館に入り浸るようになった頃から、彼のことは自習室でよく見かけていた。本を読んだりノートを広げるブレザー姿の男子高校生の顔は、いつの間にか覚えていた。
 今後も同じように自習室で鉢合わせるなら、確かに何の弁明もないままだとお互い気まずい。怪しいところはあるけど、取り合えず私の中で、彼はヤバい男の子から会話のできる高校生へ昇格した。
「ブレザーってことは、西ノ浦(にしのうら)高校?」
 市内で唯一、学ランではなくブレザーを男子の制服としている高校の名前を出すと、彼は頷いた。
「こないだ高等部に編入したばっかやけどな。(いつき)(あさひ)や」
「えっと……樹くん」
「旭でええよ。くんもいらん」
「でも」
「俺にくん付けするやつおらへんし。なんか気味悪いわ」
 躊躇しながら、私は「わかった」って呟いた。男の子を呼び捨てるのはやりにくいけど、本人が嫌だというなら仕方ない。彼、旭は猫の尻尾の先を指先でくるくると弄んでいる。
「やっぱり西ノ浦だったんだ。頭いいんだね」
 県内の公立校の中でトップの偏差値を誇るのが、中高一貫校の西ノ浦だ。私には縁のない学校で、彼は市外の知らない高校の生徒だっていう可能性も考えていた。本当に西ノ浦だったとは、ちょっと尊敬。
 でも、「別にそんなことあらへん」と彼は笑った。「運が良かったんやろ」運で編入できる学校だとは思えないけど。
「そっちはあれか……この辺やと、桜浜か」
「うん。私も入学したばっかりだけど。七瀬梓」旭が教えてくれたので、私も同じだけ自己紹介をする。
 それから少し話をして、彼も帰宅部で暇を潰すために図書館に通っていることを知った。そこで一歳になる猫と知り合ったんだって。この子とは気が合って、しょっちゅう話をしているらしい。
「そういえば、この前は傘忘れてたの?」
「なんのことや」
「先週の火曜日、いきなり大雨が降ったでしょ。その時、傘ささないで出入口のベンチに座ってるの見た。正直怖かった」
「……そういえばそうやったな」
 あの大雨を、旭はすっかり忘れていたらしい。少なくとも自分がずぶ濡れになったら、しばらくは忘れられない気もするけど。
「雨なんかしょっちゅうやからな。いちいち傘なんかさされへん」
「なにそれ」私は冗談かと思って笑った。けれど彼は当然な顔をして、「別に濡れるんなんか平気や。とっくに慣れた」そんなことを言った。
 そして、私にとって忘れられない言葉を口にしたんだ。
「俺は、世界一の雨男なんや」