「普通の家族やと思とったんやけどな。一緒に飯食って、遊びに行って、時々喧嘩して。何も変わったとこなんてないと信じとった」
わかば公園の夕暮れの東屋で、旭は言う。
「母親は、俺らを裏切ったんや。俺と父親を裏切って他の男の元に通った挙句、そいつを滅多刺しにして殺した」
信用してくれる人を裏切ってはいけない。かつて彼が言った台詞を思い出す。一度ひどい裏切りを受けた旭は、自分は絶対に他人を裏切らないよう自戒しているのだ。あの台詞にこんなにも重い意味が込められていただなんて、私は微塵も思わなかった。
「……もう、お母さんとは会ってないの。その、面会とか」
「会っとらん。一度面会したけど、もう来るなて言われて、周りにもやめとけ言われた。俺もまだガキやったから一人で行くわけにいかんかったし、今更会いに行くつもりも全くない。死んだも同然や」
「恨んでるんだ」
旭が吐き捨てる台詞に、私は単純にそう思った。だけど、「それは違うな」と彼は指でこめかみをかく。
「死んだんや、もうどうでもええんや。出所して立ち直っても構わんし、折れてもええ。ただ俺にはもう関わってほしくない。俺は俺で生きるから、向こうも好きにしたらええ。お互い死人なんやからな」
死人という旭の言葉は、私の胸に重い塊として沈み込んだ。生きているのに、血の繋がった母子なのに、二度と会えない死人として相手を扱う悲しさ。墓石も位牌もないから、その距離は死人より更に遠いように思う。
公園の芝生の東屋は強い西日に照らされて、子どもたちの遊ぶ声が遠くから微かに聞こえてくる。私たちは夏の生気に満ちた空間にいるはずなのに、旭の独白の言葉は周囲の景色から色彩を奪っていくようだった。色褪せて、隣にいるはずの人間も手の届かない遠くに感じられる世界。旭の台詞は、彼の過ごしてきたモノクロの世界を私に覗かせる。
「当然やが、親は離婚した。そのくせ俺の父親は俺からも逃げたんや。失踪して帰らんなったから、俺は母親の妹、つまり叔母さんの家に引き取られたんや」
淡々と語る旭の目を見られない。今日は暑いな。そんな台詞が続きそうなぐらいに何でもない声色で、却って私は表情を強張らせたまま、テーブルの木目に視線を落とす。
「そこには、もともと子どもが一人おってな。俺の一個下の男で、つまり従兄弟や。そいつは病気持ちで大人にはなれんて言われとったんやけど、去年ほんまに死んでしもうた。抗がん剤の影響で免疫が落ちとったとかで、肺炎で呆気なく逝った。ほんまに、人間死ぬときは容赦なく死んでしまうんやなと思った」
「仲、良かったの。その子とは……」
「いや、全然。そんでも、死んでくれとは思わんけどな。……俺はともかく一人息子が死んだんやから、叔母さんらはそりゃあ見てられんかった。そっからは針のむしろってやつや」
彼は苦笑するけど、私は釣られて笑うことなんてできない。旭が今の家族にちっとも愛情を持っていないことは話し方で察する。どんなに居心地の悪い家庭なんだろうか。
「俺は、返さんでええ奨学金貰って西ノ浦に行くのが決まっとったからな。遅くてもどっか寮付きの高校探せば良かったかもしれんて、今になって思うけど。……ほんまは、放課後はどっかでバイトして自分で金貯めようとも思とったんやが、西ノ浦がバイト禁止なんを入ってから知ったんや。これは俺の落ち度やけど。やから、中学ん頃から通ってた図書館にずるずる入り浸っとったんや」
旭が図書館に通う理由が、そんなに深刻なものだったなんて、予想だにしなかった。自分のように暇を持て余した高校生だと、私は信じていた。
「叔母さんたちとは、上手くやってるの」
「上手くはない。まして叔父さんからすれば、俺はまさに他人やからな。あいつの葬式ん時には、おまえが死ね言うて殴られたで。……まあ、自分の子どもだけ死んで、ようわからんガキだけ手元に残されたんや、たまったもんやないやろ」
「でもそんなの、旭のせいじゃないのに」
「仕方ないわ、二人も死ぬほど悔しいやろうからな。今は叔母さんがなんとか間に立ってくれとるけど。俺はほんま、なんて言うたらええんかな……やるせないわ」
旭の叔母さんたちの気持ちも理解できる。大切な一人息子が亡くなった悲しみは、途方もないものだと思う。
だけど、だからって旭が責められていいはずがない。旭だって辛いんだ。苦しいんだ。たった一人とり残されて、それなのにまだ嫌な噂を流されて、他所の学校の知らない人にまで嘲笑されて。想像を絶する孤独に、私は俯いて軽く唇を噛んだ。
いつの間にか、陽は随分と陰り始めていた。「……すまんかったな」色濃くなる影の中に、旭がぽつりと言葉を落とした。
「すまんて、何が……?」
「騙しとるつもりはなかった。けど、もっとはように言うとったらよかったな」
「それは……」
私は思わず言葉を呑んだ。旭が隠して見せなかったのは、このことだった。出来れば、もう少し早くに教えて欲しかった気もした。
「俺は別に、もう誰に何て言われようとも構わん。慣れとる。……けど、そっちはそうやないやろ。嫌な思いしとるやろ」
「平気だよ、全然」私は慌てて首を振る。「気にしないで」
「あかん、俺のせいで悪口言われとるなんて、俺が嫌や。……今までありがとな。楽しかった」
唐突な台詞に、私はきょとんと目を見開く。今までだなんて、そんなの、これからがないような言葉。
「全部言えてよかった。じゃあ、さよなら」
呆然としている間に、旭は脇の鞄に手をかける。通学鞄の持ち手を肩にかけて、立ち上がろうとする。
「待って!」
思わず立って身を乗り出した。大声にぎょっとした顔の旭を正面から見下ろす。
「さよならって、どういうこと」
「どういうことって、そのままやけど」
「明日も来るよね、図書館」
腰を落としたまま、彼は私を見上げる視線を気まずそうに逸らした。その様子で理解する。旭はもう、私とは会わないつもりだ。だから自分のことを、最後に全て語ったのだ。
「なんでそうなるの! 平気だって言ったじゃん!」
「そんなわけないやろ。仮にそっちが平気やったとしても、俺は嫌なんや」
「だからって、こんなのないよ!」
胸が苦しくなってくる。旭にもう会えないだなんて、その方が私はずっと嫌だ。これからもたくさん話したいし、勉強も教えてほしいし、ぷちの言葉も聞かせてほしい。言いたいことが津波のように押し寄せて、上手に言葉にできない。
「……旭はもう、私に会いたくないの」
「そんなわけあらへん」小さな声で呻いて、彼は弱々しく首を横に振った。「やけど……」
私もゆっくりとベンチに座り直して、じっと旭を見つめる。聞かせたい想いが山ほどある。どれを選んで組み立てて言葉にすれば、きちんと彼に伝わるんだろう。こんなにもどかしい気持ちは、人生で初めてだ。
「……なあ、俺は、裏切ってしもたんかな」
囁くような声があまりに悲痛で、私の胸にも悲しみが押し寄せる。
「梓は俺を信じてくれとったのに、俺はこんなやつやった。許されへん人間やった。やのに軽率に近づいて、仲良うなろうとした。……結局は、裏切ったんやないやろうか」
「違うよ。旭はなんにも悪くない」
こんな形で自分の事情を教える羽目になったことを、彼は悔いている。私を傷つけてしまったと苦しんでいる。自分の大嫌いな裏切り行為だったんじゃないかと落ち込んでいる。
なんて真っ直ぐな男の子なんだろう。
「大丈夫だよ、私は裏切りだなんて思ってない。誰かと一緒にいるのに、事情を全部説明しないといけない決まりなんてないでしょ。それに私は旭がいい人だって知ってるもん、周りの悪口なんてどうってことないよ」
私は机の上に右手を乗せる。その腕を彼の方に伸ばしてみせる。
「それより、私は明日も旭は図書館に来るって信じてる。来ない方が裏切りだよ」
薄闇の中でも、彼が目を見開いて、やがて苦しそうに笑うのが見えた。「……かなわんな」微かな笑い声に、私も笑う。
旭が伸ばす右手が、私の右手を握りしめた。繋いだ手に左手を添えて、私も強く握り返す。温かくて、私より少し大きな彼の手を、大切に両手で包んだ。絶対にこの手は離さないと誓った。
わかば公園の夕暮れの東屋で、旭は言う。
「母親は、俺らを裏切ったんや。俺と父親を裏切って他の男の元に通った挙句、そいつを滅多刺しにして殺した」
信用してくれる人を裏切ってはいけない。かつて彼が言った台詞を思い出す。一度ひどい裏切りを受けた旭は、自分は絶対に他人を裏切らないよう自戒しているのだ。あの台詞にこんなにも重い意味が込められていただなんて、私は微塵も思わなかった。
「……もう、お母さんとは会ってないの。その、面会とか」
「会っとらん。一度面会したけど、もう来るなて言われて、周りにもやめとけ言われた。俺もまだガキやったから一人で行くわけにいかんかったし、今更会いに行くつもりも全くない。死んだも同然や」
「恨んでるんだ」
旭が吐き捨てる台詞に、私は単純にそう思った。だけど、「それは違うな」と彼は指でこめかみをかく。
「死んだんや、もうどうでもええんや。出所して立ち直っても構わんし、折れてもええ。ただ俺にはもう関わってほしくない。俺は俺で生きるから、向こうも好きにしたらええ。お互い死人なんやからな」
死人という旭の言葉は、私の胸に重い塊として沈み込んだ。生きているのに、血の繋がった母子なのに、二度と会えない死人として相手を扱う悲しさ。墓石も位牌もないから、その距離は死人より更に遠いように思う。
公園の芝生の東屋は強い西日に照らされて、子どもたちの遊ぶ声が遠くから微かに聞こえてくる。私たちは夏の生気に満ちた空間にいるはずなのに、旭の独白の言葉は周囲の景色から色彩を奪っていくようだった。色褪せて、隣にいるはずの人間も手の届かない遠くに感じられる世界。旭の台詞は、彼の過ごしてきたモノクロの世界を私に覗かせる。
「当然やが、親は離婚した。そのくせ俺の父親は俺からも逃げたんや。失踪して帰らんなったから、俺は母親の妹、つまり叔母さんの家に引き取られたんや」
淡々と語る旭の目を見られない。今日は暑いな。そんな台詞が続きそうなぐらいに何でもない声色で、却って私は表情を強張らせたまま、テーブルの木目に視線を落とす。
「そこには、もともと子どもが一人おってな。俺の一個下の男で、つまり従兄弟や。そいつは病気持ちで大人にはなれんて言われとったんやけど、去年ほんまに死んでしもうた。抗がん剤の影響で免疫が落ちとったとかで、肺炎で呆気なく逝った。ほんまに、人間死ぬときは容赦なく死んでしまうんやなと思った」
「仲、良かったの。その子とは……」
「いや、全然。そんでも、死んでくれとは思わんけどな。……俺はともかく一人息子が死んだんやから、叔母さんらはそりゃあ見てられんかった。そっからは針のむしろってやつや」
彼は苦笑するけど、私は釣られて笑うことなんてできない。旭が今の家族にちっとも愛情を持っていないことは話し方で察する。どんなに居心地の悪い家庭なんだろうか。
「俺は、返さんでええ奨学金貰って西ノ浦に行くのが決まっとったからな。遅くてもどっか寮付きの高校探せば良かったかもしれんて、今になって思うけど。……ほんまは、放課後はどっかでバイトして自分で金貯めようとも思とったんやが、西ノ浦がバイト禁止なんを入ってから知ったんや。これは俺の落ち度やけど。やから、中学ん頃から通ってた図書館にずるずる入り浸っとったんや」
旭が図書館に通う理由が、そんなに深刻なものだったなんて、予想だにしなかった。自分のように暇を持て余した高校生だと、私は信じていた。
「叔母さんたちとは、上手くやってるの」
「上手くはない。まして叔父さんからすれば、俺はまさに他人やからな。あいつの葬式ん時には、おまえが死ね言うて殴られたで。……まあ、自分の子どもだけ死んで、ようわからんガキだけ手元に残されたんや、たまったもんやないやろ」
「でもそんなの、旭のせいじゃないのに」
「仕方ないわ、二人も死ぬほど悔しいやろうからな。今は叔母さんがなんとか間に立ってくれとるけど。俺はほんま、なんて言うたらええんかな……やるせないわ」
旭の叔母さんたちの気持ちも理解できる。大切な一人息子が亡くなった悲しみは、途方もないものだと思う。
だけど、だからって旭が責められていいはずがない。旭だって辛いんだ。苦しいんだ。たった一人とり残されて、それなのにまだ嫌な噂を流されて、他所の学校の知らない人にまで嘲笑されて。想像を絶する孤独に、私は俯いて軽く唇を噛んだ。
いつの間にか、陽は随分と陰り始めていた。「……すまんかったな」色濃くなる影の中に、旭がぽつりと言葉を落とした。
「すまんて、何が……?」
「騙しとるつもりはなかった。けど、もっとはように言うとったらよかったな」
「それは……」
私は思わず言葉を呑んだ。旭が隠して見せなかったのは、このことだった。出来れば、もう少し早くに教えて欲しかった気もした。
「俺は別に、もう誰に何て言われようとも構わん。慣れとる。……けど、そっちはそうやないやろ。嫌な思いしとるやろ」
「平気だよ、全然」私は慌てて首を振る。「気にしないで」
「あかん、俺のせいで悪口言われとるなんて、俺が嫌や。……今までありがとな。楽しかった」
唐突な台詞に、私はきょとんと目を見開く。今までだなんて、そんなの、これからがないような言葉。
「全部言えてよかった。じゃあ、さよなら」
呆然としている間に、旭は脇の鞄に手をかける。通学鞄の持ち手を肩にかけて、立ち上がろうとする。
「待って!」
思わず立って身を乗り出した。大声にぎょっとした顔の旭を正面から見下ろす。
「さよならって、どういうこと」
「どういうことって、そのままやけど」
「明日も来るよね、図書館」
腰を落としたまま、彼は私を見上げる視線を気まずそうに逸らした。その様子で理解する。旭はもう、私とは会わないつもりだ。だから自分のことを、最後に全て語ったのだ。
「なんでそうなるの! 平気だって言ったじゃん!」
「そんなわけないやろ。仮にそっちが平気やったとしても、俺は嫌なんや」
「だからって、こんなのないよ!」
胸が苦しくなってくる。旭にもう会えないだなんて、その方が私はずっと嫌だ。これからもたくさん話したいし、勉強も教えてほしいし、ぷちの言葉も聞かせてほしい。言いたいことが津波のように押し寄せて、上手に言葉にできない。
「……旭はもう、私に会いたくないの」
「そんなわけあらへん」小さな声で呻いて、彼は弱々しく首を横に振った。「やけど……」
私もゆっくりとベンチに座り直して、じっと旭を見つめる。聞かせたい想いが山ほどある。どれを選んで組み立てて言葉にすれば、きちんと彼に伝わるんだろう。こんなにもどかしい気持ちは、人生で初めてだ。
「……なあ、俺は、裏切ってしもたんかな」
囁くような声があまりに悲痛で、私の胸にも悲しみが押し寄せる。
「梓は俺を信じてくれとったのに、俺はこんなやつやった。許されへん人間やった。やのに軽率に近づいて、仲良うなろうとした。……結局は、裏切ったんやないやろうか」
「違うよ。旭はなんにも悪くない」
こんな形で自分の事情を教える羽目になったことを、彼は悔いている。私を傷つけてしまったと苦しんでいる。自分の大嫌いな裏切り行為だったんじゃないかと落ち込んでいる。
なんて真っ直ぐな男の子なんだろう。
「大丈夫だよ、私は裏切りだなんて思ってない。誰かと一緒にいるのに、事情を全部説明しないといけない決まりなんてないでしょ。それに私は旭がいい人だって知ってるもん、周りの悪口なんてどうってことないよ」
私は机の上に右手を乗せる。その腕を彼の方に伸ばしてみせる。
「それより、私は明日も旭は図書館に来るって信じてる。来ない方が裏切りだよ」
薄闇の中でも、彼が目を見開いて、やがて苦しそうに笑うのが見えた。「……かなわんな」微かな笑い声に、私も笑う。
旭が伸ばす右手が、私の右手を握りしめた。繋いだ手に左手を添えて、私も強く握り返す。温かくて、私より少し大きな彼の手を、大切に両手で包んだ。絶対にこの手は離さないと誓った。