「そんなに怒らんでもええやん」
イベント会場を出た時には、私は涙目になっていた。
「ばかばかばーか、旭のばか!」
「たかが虫やで。噛まれて死ぬわけやあらへんし」
「そういう問題じゃないの!」
文句を垂れながら彼の後に続く。「機嫌直してくれや」そう言う旭が入ったのは、一風変わったカフェ。店内で猫と触れ合える、いわゆる猫カフェだった。一見普通のカフェだけど、中ではあちこちに猫がうろついている。そういえば、猫カフェって入ったことがない。
「もしかして、本命ってここ?」
案内されて二人掛けのテーブルにつく。旭が頷いて、私は店内の様子をぐるりと見渡した。確かにここは、お客の半分以上をカップルが占めている。そうでなくても親子か、友人同士で連れ立っている。男子高校生が一人で来るのは気が引けるかもしれない。
店員さんに、私はミックスジュース、旭はカルピスを注文した。
「ぷちやそこらの野良猫しか、普段見てへんからな。飼われてる猫を観察してみたかったんや」
すぐそばの出窓にも、二匹の猫が丸くなっていた。黒猫が一匹と、もう一匹は垂れ耳のスコティッシュフォールド。仲が良いのか折り重なっている。
運ばれてきたジュースのグラスにストローをさす。猫たちは、こっちに顔は向けているけど、愛想を振りまくでもなく眠たそうな表情をしている。
「可愛いね。仲良しなのかな」
互いにもたれ合う猫たちを見ていると、微笑ましい気持ちになる。
「そうでもなさそうやで」
カルピスに口をつける旭が言って、黒猫がちらりと彼の方に目をやった。
「この黒猫の本命は、あの猫や」
そう言って、向こうの壁際に設置されたキャットタワーを指さした。グレーの毛皮を持つロシアンブルーが、女性客の振る猫じゃらしで遊んでいる。こっちは随分と愛想が良い。
「片想いやな」
「猫の世界にも片想いってあるの」
「そりゃあるよ。向こうの猫が振り向いてくれんて、こいつは拗ねとる」指先で猫の鼻をつついた。「猫やって辛いわな」黒猫は返事をするように、にゃーと小声で鳴いた。
猫の恋愛も大変なんだ。しみじみ思いながら、もう一匹のスコティッシュフォールドを撫でる。人慣れしている猫は、うとうとしたままじっと触られている。滑らかな手触りが心地よい。
しばらく猫と遊んで、話して。充実した一時間はあっという間に過ぎていった。
「割とわかるもんやな」
店を出ながら、旭は自分の力に感心していた。既に私たちは、このカフェの従業員同士の関係に誰よりも詳しくなっていた。
今日の予定はこれで終わり。だけどそれがもったいなくて、私はさりげなく猫カフェの向かいのお店に吸い込まれる。「あのお店、可愛い」そんなことを言って。
チェーン店の駄菓子屋は、店の奥から手前まで、ぎっしりとお菓子を並べていた。スーパーではあまり見かけない、百円未満の安い商品が多い。飴玉、グミ、チョコレートなんかがぎゅうぎゅうに詰まった透明な箱。お金を入れて綿菓子を作る機械。棚にはおまけ付きのガムが並んでいて、小さな子どもたちがわいわい群がっている。
「そうや、なんか欲しかったら買うたるよ」
思いついた顔で、旭が言う。
「いいよ、そんなの」
「ええって。せっかく来てもろたんやし。でも一つだけやで」
いたずらっぽい顔をするのに、私もその厚意に甘えることにした。どれにしようか。お菓子がぎっしり詰まった店内は、見ているだけでわくわくする。
「じゃあ、これ!」
その中で、私は小ビンを一つ手に取る。ぷっくり膨れた可愛らしいガラスビンの中には、色とりどりの星が詰まっている。金平糖だ。薄い黄色や緑、ピンク色をした甘い星たち。こんなに可愛いお菓子はそうそうない。
「ほんまに宇宙好きやな」苦笑しながらも、旭は私からビンを受け取った。
会計を終えた彼から手渡された小さな紙袋を抱えて、店を出る。小ビンが熱を持っているように、ぽかぽかと温もるような気分。なんだか嬉しくて仕方ない。
「ありがとう、旭」
フロアの真ん中には、ベンチの置かれた休憩スペースがあって、そこに座ってお礼を言う。旭は笑うけど、どこか困ったような顔を見せる。
「今日はすまんかったな。せっかくの日曜やのに」
思わぬ言葉に、慌てて首を横に振った。
「そんなことないよ。私も楽しかったもん」
「もし知り合いとかに見られとったら、またいらんこと言われるやろ」
無意識のうちに、紙袋を持つ指に力が入ってしまう。
「気にしないでよ。だって……」旭は気にしていたんだ。私が誰かに変な噂をされないかってこと。「私たち、ただの友だちでしょ」
散々繰り返した言葉、ただの友だち。だけど、彼の前で口にすると、何故だか辛い気持ちになる。
私たちは隣にいる。こうして一緒に遊びにも来ている。
それなのに、埋められない溝がある。この頃には私も薄く察していた。彼は常に距離を置いている。いろんなことを教えてくれながら、最後のひとかけらをきっと隠して見せないようにしている。
悲しくて、胸の奥がぎゅっと窄まった。受け身のくせに、私はなんてわがままなんだろう。
「あのね」迷う前に、私は言葉を絞り出した。「私、クラスの子に、告白されたんだ」
彼は、はっと息を呑む。「……なんて返事したん」
「いきなりで、私もびっくりしちゃって……。返事は待ってもらってる」
「ほうか……」
私はどうしたいんだろう。旭になんて言ってもらいたいんだろう。
「……よかったやん」
わからないけど、彼の返事は聞きたい言葉じゃなかった。心臓が縮こまって、私は皺が寄るまで紙袋を握る。
あっという間に、どうしようもなく深く冷たい沈黙が、私たちを包み込んだ。辛くて辛くて、唇をぎゅっと噛む。嫉妬してほしい、焼きもちを焼いてほしい。そうした汚い感情が自分にあったのもショックだった。
「旭は、本当にそう思うの」やっとの思いで震わせた喉からは、そんなか細い声が漏れた。
「七瀬はどうなん」
返事をせず問いかけを返してくるのに、大地くんの顔を思い出す。器用で明るい、人気者のクラスメイト。
「わからない。……いい人なのは、わかるけど」
私はなんて嫌なやつなんだろう。全員にいい顔をしようとして、その上旭を試そうとまでしている。自己嫌悪で潰れて消えたくなる。
「俺は、正直言うと……」彼は低く呻くように囁いた。「……嫌やな」
顔をあげて、彼の横顔を見つめる。目を合わせない旭は、自分の足元に視線を落としている。
「もし七瀬がそいつと付き合うたら、もう俺とは図書館でも会われへんやろ。少なくとも、今日みたいなんは無理や」
「会えないことは、ないと思うけど」
「いや、あかん。そんな中途半端なんは駄目や」
きっぱりと言って、旭ははっきり私の目を見た。
「そんなん、いつか相手を裏切ってしまう。信用してくれる人を裏切るんだけは、絶対にやったらいかん」
真剣な瞳に、大袈裟だとは言えなかった。そうだねって、頷くしかなかった。
「俺は今のままがええけど、七瀬を引き止める権利なんかない。俺は七瀬とは付き合えんのやから、わがままは言えへん。それに俺なんかと一緒におっても、一つもええことないんや」
付き合えない。旭と付き合うことは考えていなかったのに、きっぱり言い切られると悲しくなる。
でも、旭といると時間を忘れる。楽しくて、いつまでだって話していたくなる。
「そんなこと言わないでよ、いいことないなんて。私は一緒にいて楽しいよ」
一瞬驚いた顔を見せて、彼はありがとうと呟いた。ほんのり浮かんだ笑顔が、強張った私の心を緩く溶かす。
「きっと七瀬が思うてくれてるより、俺はええやつやない。やから、これ以上なんも出来ん。同じ学校のクラスの男と付き合うた方が、何倍もええんや」
私を宥めるように、説得するように言葉を繋いで、「でも」と続ける。
「本心を言うてええなら……嬉しくはない」
何があるんだろう。一体何が、彼をここまで卑下させているんだろう。
わからないけど、一つだけわかったことがある。
俯く彼に、私は笑いかけた。
「じゃあ、また一緒に出かけてくれる?」
「言うたやろ、それは裏切りやって」
「私を裏切り者にさせたくなかったら、名前で呼んでよ」
決めた。決まっていたのかもしれないけど、私は気が付いた。付き合えなくても、これからも旭と会いたい。もっと同じ時間を過ごして、たくさんのことを教えて欲しい。
「そんな……」言いかける彼の瞳を、今度は私が真剣に見つめる。丸くなった目でやっと理解した旭は、徐々に融解する表情でやっと笑った。梓という私の名前を、初めて口にした。
イベント会場を出た時には、私は涙目になっていた。
「ばかばかばーか、旭のばか!」
「たかが虫やで。噛まれて死ぬわけやあらへんし」
「そういう問題じゃないの!」
文句を垂れながら彼の後に続く。「機嫌直してくれや」そう言う旭が入ったのは、一風変わったカフェ。店内で猫と触れ合える、いわゆる猫カフェだった。一見普通のカフェだけど、中ではあちこちに猫がうろついている。そういえば、猫カフェって入ったことがない。
「もしかして、本命ってここ?」
案内されて二人掛けのテーブルにつく。旭が頷いて、私は店内の様子をぐるりと見渡した。確かにここは、お客の半分以上をカップルが占めている。そうでなくても親子か、友人同士で連れ立っている。男子高校生が一人で来るのは気が引けるかもしれない。
店員さんに、私はミックスジュース、旭はカルピスを注文した。
「ぷちやそこらの野良猫しか、普段見てへんからな。飼われてる猫を観察してみたかったんや」
すぐそばの出窓にも、二匹の猫が丸くなっていた。黒猫が一匹と、もう一匹は垂れ耳のスコティッシュフォールド。仲が良いのか折り重なっている。
運ばれてきたジュースのグラスにストローをさす。猫たちは、こっちに顔は向けているけど、愛想を振りまくでもなく眠たそうな表情をしている。
「可愛いね。仲良しなのかな」
互いにもたれ合う猫たちを見ていると、微笑ましい気持ちになる。
「そうでもなさそうやで」
カルピスに口をつける旭が言って、黒猫がちらりと彼の方に目をやった。
「この黒猫の本命は、あの猫や」
そう言って、向こうの壁際に設置されたキャットタワーを指さした。グレーの毛皮を持つロシアンブルーが、女性客の振る猫じゃらしで遊んでいる。こっちは随分と愛想が良い。
「片想いやな」
「猫の世界にも片想いってあるの」
「そりゃあるよ。向こうの猫が振り向いてくれんて、こいつは拗ねとる」指先で猫の鼻をつついた。「猫やって辛いわな」黒猫は返事をするように、にゃーと小声で鳴いた。
猫の恋愛も大変なんだ。しみじみ思いながら、もう一匹のスコティッシュフォールドを撫でる。人慣れしている猫は、うとうとしたままじっと触られている。滑らかな手触りが心地よい。
しばらく猫と遊んで、話して。充実した一時間はあっという間に過ぎていった。
「割とわかるもんやな」
店を出ながら、旭は自分の力に感心していた。既に私たちは、このカフェの従業員同士の関係に誰よりも詳しくなっていた。
今日の予定はこれで終わり。だけどそれがもったいなくて、私はさりげなく猫カフェの向かいのお店に吸い込まれる。「あのお店、可愛い」そんなことを言って。
チェーン店の駄菓子屋は、店の奥から手前まで、ぎっしりとお菓子を並べていた。スーパーではあまり見かけない、百円未満の安い商品が多い。飴玉、グミ、チョコレートなんかがぎゅうぎゅうに詰まった透明な箱。お金を入れて綿菓子を作る機械。棚にはおまけ付きのガムが並んでいて、小さな子どもたちがわいわい群がっている。
「そうや、なんか欲しかったら買うたるよ」
思いついた顔で、旭が言う。
「いいよ、そんなの」
「ええって。せっかく来てもろたんやし。でも一つだけやで」
いたずらっぽい顔をするのに、私もその厚意に甘えることにした。どれにしようか。お菓子がぎっしり詰まった店内は、見ているだけでわくわくする。
「じゃあ、これ!」
その中で、私は小ビンを一つ手に取る。ぷっくり膨れた可愛らしいガラスビンの中には、色とりどりの星が詰まっている。金平糖だ。薄い黄色や緑、ピンク色をした甘い星たち。こんなに可愛いお菓子はそうそうない。
「ほんまに宇宙好きやな」苦笑しながらも、旭は私からビンを受け取った。
会計を終えた彼から手渡された小さな紙袋を抱えて、店を出る。小ビンが熱を持っているように、ぽかぽかと温もるような気分。なんだか嬉しくて仕方ない。
「ありがとう、旭」
フロアの真ん中には、ベンチの置かれた休憩スペースがあって、そこに座ってお礼を言う。旭は笑うけど、どこか困ったような顔を見せる。
「今日はすまんかったな。せっかくの日曜やのに」
思わぬ言葉に、慌てて首を横に振った。
「そんなことないよ。私も楽しかったもん」
「もし知り合いとかに見られとったら、またいらんこと言われるやろ」
無意識のうちに、紙袋を持つ指に力が入ってしまう。
「気にしないでよ。だって……」旭は気にしていたんだ。私が誰かに変な噂をされないかってこと。「私たち、ただの友だちでしょ」
散々繰り返した言葉、ただの友だち。だけど、彼の前で口にすると、何故だか辛い気持ちになる。
私たちは隣にいる。こうして一緒に遊びにも来ている。
それなのに、埋められない溝がある。この頃には私も薄く察していた。彼は常に距離を置いている。いろんなことを教えてくれながら、最後のひとかけらをきっと隠して見せないようにしている。
悲しくて、胸の奥がぎゅっと窄まった。受け身のくせに、私はなんてわがままなんだろう。
「あのね」迷う前に、私は言葉を絞り出した。「私、クラスの子に、告白されたんだ」
彼は、はっと息を呑む。「……なんて返事したん」
「いきなりで、私もびっくりしちゃって……。返事は待ってもらってる」
「ほうか……」
私はどうしたいんだろう。旭になんて言ってもらいたいんだろう。
「……よかったやん」
わからないけど、彼の返事は聞きたい言葉じゃなかった。心臓が縮こまって、私は皺が寄るまで紙袋を握る。
あっという間に、どうしようもなく深く冷たい沈黙が、私たちを包み込んだ。辛くて辛くて、唇をぎゅっと噛む。嫉妬してほしい、焼きもちを焼いてほしい。そうした汚い感情が自分にあったのもショックだった。
「旭は、本当にそう思うの」やっとの思いで震わせた喉からは、そんなか細い声が漏れた。
「七瀬はどうなん」
返事をせず問いかけを返してくるのに、大地くんの顔を思い出す。器用で明るい、人気者のクラスメイト。
「わからない。……いい人なのは、わかるけど」
私はなんて嫌なやつなんだろう。全員にいい顔をしようとして、その上旭を試そうとまでしている。自己嫌悪で潰れて消えたくなる。
「俺は、正直言うと……」彼は低く呻くように囁いた。「……嫌やな」
顔をあげて、彼の横顔を見つめる。目を合わせない旭は、自分の足元に視線を落としている。
「もし七瀬がそいつと付き合うたら、もう俺とは図書館でも会われへんやろ。少なくとも、今日みたいなんは無理や」
「会えないことは、ないと思うけど」
「いや、あかん。そんな中途半端なんは駄目や」
きっぱりと言って、旭ははっきり私の目を見た。
「そんなん、いつか相手を裏切ってしまう。信用してくれる人を裏切るんだけは、絶対にやったらいかん」
真剣な瞳に、大袈裟だとは言えなかった。そうだねって、頷くしかなかった。
「俺は今のままがええけど、七瀬を引き止める権利なんかない。俺は七瀬とは付き合えんのやから、わがままは言えへん。それに俺なんかと一緒におっても、一つもええことないんや」
付き合えない。旭と付き合うことは考えていなかったのに、きっぱり言い切られると悲しくなる。
でも、旭といると時間を忘れる。楽しくて、いつまでだって話していたくなる。
「そんなこと言わないでよ、いいことないなんて。私は一緒にいて楽しいよ」
一瞬驚いた顔を見せて、彼はありがとうと呟いた。ほんのり浮かんだ笑顔が、強張った私の心を緩く溶かす。
「きっと七瀬が思うてくれてるより、俺はええやつやない。やから、これ以上なんも出来ん。同じ学校のクラスの男と付き合うた方が、何倍もええんや」
私を宥めるように、説得するように言葉を繋いで、「でも」と続ける。
「本心を言うてええなら……嬉しくはない」
何があるんだろう。一体何が、彼をここまで卑下させているんだろう。
わからないけど、一つだけわかったことがある。
俯く彼に、私は笑いかけた。
「じゃあ、また一緒に出かけてくれる?」
「言うたやろ、それは裏切りやって」
「私を裏切り者にさせたくなかったら、名前で呼んでよ」
決めた。決まっていたのかもしれないけど、私は気が付いた。付き合えなくても、これからも旭と会いたい。もっと同じ時間を過ごして、たくさんのことを教えて欲しい。
「そんな……」言いかける彼の瞳を、今度は私が真剣に見つめる。丸くなった目でやっと理解した旭は、徐々に融解する表情でやっと笑った。梓という私の名前を、初めて口にした。