さよなら、真夏のメランコリー

「どうしたの?」


隣のクラスの千夏とは、体育の授業のたびに顔を合わせている。
うちの学校は、男女に別れて二クラス合同で体育をする。
そのため、週に三回は一緒に授業を受けることになるのだ。


だけど、私はもうずっと体育は見学しているし、彼女も以前のように話しかけてくることはなかった。
恐らく、気まずかったのだろう。


幸い、同じクラスに水泳部員がいないことはありがたかったけれど……。体育の授業だけは千夏や他の部員とも顔を合わせるせいで、逃げ出したくなるほど嫌だった。


廊下ですれ違うくらいならなんとか避けられても、授業となれば避け続けることは不可能だったから……。


「美波……?」

「退部届を出したから、コーチに挨拶に来たの」


競泳水着を着ている彼女を直視できなくて、曖昧に笑って小さく告げる。
思っていた以上に声がぶっきらぼうになって、自分でも驚いた。


「そう、なんだ……」

「私、もう行かなきゃ」

「えっ?」

「コーチ、失礼します」


コーチが「うん」と頷いたのを確認し、千夏を横切ろうとした時。

「えっ? 牧野先輩!?」

甲高い声が、鼓膜を突いた。

「わぁー! 牧野先輩ですよね! 私、今年入部した一年の大川(おおかわ)未恵って言います」


興奮した様子の未恵は、こちらに口を挟む隙も与えないように言葉を紡ぎ出す。


「私、中学の時からずっと牧野先輩に憧れてて、先輩みたいに泳ぎたいって――」


だけど、次の瞬間、彼女が放った言葉に顔が固まって……。

「未恵!」

千夏とコーチの慌てたような声が響いた。


「あっ……すみません……」


サッと顔色と変えた未恵に、どす黒い感情が渦巻く。


心臓がグリッとえぐられたかと思った。
それくらい、私には衝撃的な言葉だった。


きっと、私が今も選手としていられたのなら、嬉しい言葉だっただろう。


(でも……私はもう泳げない……)


心の中で唱えた言葉が、胸の奥をさらに深くえぐる。
鼻がツンと痛んで、喉がグッと絞まったように熱くなった。


「あの……私、そんなつもりじゃ……」


(だったら、どういうつもり……?)


この場に未恵とふたりきりだったら、殴りかかっていたかもしれない。
それくらい、私の中は怒りと憎しみに満ちていた。


「……ッ」


唇が痛くなるほど噛みしめ、涙をこらえてコーチに頭を下げる。
静まり返ったプールサイドから逃げるように、そのまま無言で立ち去った。

(なんで……なんであの子が……っ!)


昨日、部員たちの中心にいたのは、未恵だった。
よりにもよって、どうしてあの子なんだろう。


どうしてあの子が、水泳部の次期エースなんだろう。
千夏でも他の子でもいいのに、なぜ無邪気な笑顔であんなことを言える子なんかが私がいた場所に立っているんだろう。
考えても仕方がないのに、思考も心も黒いもので覆われていく。


(誰か……誰か助けて……)


逃げ道も、逃げ場所もない。
学校にいれば、大半の人が私のことを知っている。


私が逃げたくても、周囲が現実から目を背けさせてくれない。
今は陸にいるのに、息が上手くできない。
選手として練習に励んでいた時にはあんなにも苦しかった水の中の方が、きっとずっとラクだった。


心にも体にも酸素が足りなくて、嗚咽が漏れそうだった瞬間。

「うわっ……!」

校舎の角を曲がった私は、人とぶつかった。


思わず顔を上げると、太陽に透けるような金色が視界に入ってきた。
目を見開いた金髪の男子が、困ったように微笑む。


「また泣きそうだな。……おいで」


彼はそう言うと、声も出せない私の返事も聞かずに私の手を力強く引っ張った。

手を引かれるがまま歩くだけだった私は、しばらくしてハッとした。


「あのっ……!」

「誰にも見られたくないならここ。第三倉庫は廃材置き場みたいなもんだからさ」

「え……?」


連れて行かれたのは、昨日いた場所よりもさらに奥。
校舎の裏側ではなく、第三体育倉庫の裏だった。


「昨日の場所は、よくたむろってる連中がいるからやめておいた方がいい。第一第二倉庫は部活で使う奴が多いからダメ。でも、ここなら基本的には人が来ない」


にっこりと笑われて、唖然としてしまう。
毒気のない柔らかい笑顔を前に、ようやく自然と呼吸ができた気がした。


夏川輝(なつかわひかる)……?」


金色の髪が、そよ風で小さく揺れる。
太陽の光を浴びた金髪は、まるで自由だと言いたげに輝いていた。


「俺のこと、知ってるんだ。東緑が丘の人魚姫に知ってもらえてたなんて光栄だな」

「その呼び方はしないで!」


今一番、呼ばれたくない言い方に、反射的に食ってかかってしまう。


「……ごめん。無神経だった」


途端、彼は申し訳なさそうに眉を寄せ、頭を下げた。


あまりに素直に謝られて面食らってしまう。
これだと、私の方が悪いことをしたみたいに思えた。

「わかってくれたなら……いいです」

「うん。もう呼ばない」


ホッとしたように微笑まれて、なんだか身の置き場がないような気持ちになる。


「じゃあ、美波でいい?」

「え?」

「名前、牧野美波だろ?」


私が彼のフルネームを知っていたように、彼も知っているようだった。
だけど、私たちはお互いに校内ではそれなりに有名だから、名前くらい知っていてもおかしくはない。


「俺のことは輝でいいよ」

「輝、先輩……?」

「ちゃんと先輩ってつけてくれるんだ」


輝先輩がハハッと笑う。
八重歯が覗いて、ヤンキーみたいな金髪に反して人懐っこくも見えた。


(あれ……?)


あんなに苦しかったのに、ちゃんと息ができる。
空気を吸って吐いて、普通に呼吸ができている。


そのことに気づいた時、不思議な気持ちとともに安堵感が芽生えた。


「涙は引っ込んだ?」

「たぶん……」


私が小さく頷くと、彼はおもむろに地面に腰を下ろした。
下から私を見上げて、少し迷ったような素振りを見せたかと思うと、控えめな笑みを浮かべた。

「話、聞く?」


決して強引ではなく、どこか私の心を慮るような言い方に聞こえた。
一瞬ためらいながらも、首を小さく横に振る。


輝先輩は苦笑したあとで、真剣な眼差しを寄越した。


「でもたぶん、俺には美波の気持ちがわかると思うよ」


確信めいた言い方だった。
そして、その理由はすぐにわかった。


夏川輝――私より一学年先輩の彼は、中学時代から将来を期待されていた陸上選手だった。
うちの学校には私と同じでスポーツ推薦入学し、短距離走者だったはずだ。


一年生の時に、インターハイで優勝したと聞いたことがある。
それが過去形なのは、輝先輩はもう選手として走っていないから。


右膝を傷めて選手生命を絶たれた……という噂だった。
この話が本当なら、彼は私と同じような状況の中にいるのかもしれない。


「でも、別に無理強いはしない。聞いてほしくても言えないことはあるし、聞いてほしいタイミングが今じゃないってこともあるだろ」


きっと、しつこくされていたらこの場から逃げていた。
だけど、輝先輩はあくまで私に判断を委ねてくれた。
 

それ以外にも、昨日すでに泣いているところを見られていたとか、彼はもしかしたら私と同じなのかもしれない……とか。
色々な気持ちや事情が重なったのもあったとは思う。


私は、静かに輝先輩の隣に腰を下ろした。

「美波はさー」

「美波って……呼び捨てですか?」

「いいだろ、さっきも呼んだし。美波も敬語じゃなくていいからさ」


ニカッと笑われて、拍子抜けしてしまう。
人懐っこい人だと思った。


屈託のない笑顔と、毒気のない話し方で、人を寄せつけやすい。
そんな風に感じた。


二重瞼の瞳と、意志の強そうな眉。
女子に囲まれていたところを見たことがあるけれど、綺麗な顔立ちを間近で見れば納得したような気持ちになった。
黒かった髪は金色になっているのに、それもよく似合っている。


「で、美波はさ……もう泳げないの?」

「っ……」


いきなり傷口をえぐられるような問いに、胸の奥がひどく痛む。
ただ、未恵に無邪気に話しかけられた時のような感情は芽生えなかった。


だから、一瞬だけためらいながらも口を開いていた。


「泳げません……」


私はインターハイから程なく、事故で左足のアキレス腱を断裂した。
練習のあと、さらに自主練をした帰りのこと。


自宅の最寄り駅に着いて階段を下りる時、対面から走ってきた人とぶつかって階段から転げ落ちた。
その際、真っ先に左足を地面に着いてしまったのだ。


激痛が走って只事じゃないと思った時には、その場に倒れ込んでいた。
救急搬送された病院に母が駆けつけてくれ、母とふたりで医師から聞かされたのはアキレス腱断裂という診断だった。

保存療法か手術療法か。
水泳のことしか頭になかった私は、すぐさま手術を選んだ。


通常、術後二ヶ月程度で普通に歩けるようになり、半年から八ヶ月ほどでスポーツでも元のパフォーマンスができると聞いた時は、目の前が真っ暗になった。


だけど、リハビリ次第では早期復帰も可能だと言われ、それを希望に手術を受けることにした。
ところが、術後間もなく、細菌感染症にかかってしまったのだ。


アキレス腱断裂自体は珍しいことじゃない。
スポーツ選手では、バレーやサッカー、テニスをしている人が経験しやすく、基本的にはみんな復帰できているのだとか。


ただ、細菌感染症という合併症を起こしたとなれば、話は大きく変わってくる。
手術が成功したはずの私の左足は、細菌によって神経に異常を来し、八ヶ月に及ぶリハビリを終えても元通りに動くことはなかった。


『一年以内に復帰できる』と言われていたのに……。
わずかな望みを頼りに、痛みに耐えながらリハビリに励んだのに……。


私の世界の中心だった水泳が、私の日常からなくなったのだ。


今は歩くくらいでは痛まないし、見た目は普通だけれど……。わずかに麻痺が残り、ほんの少しだけ左足を引きずっている。
走ることも足を使う運動も、普通にはできなくなった。

ただ、正式に言えば、泳げないことはない。
小学校の低学年で本格的に選手育成コースに入り、中学からは部活でも力を入れるようになって、水泳歴は十年を超えている。


選手として復帰はできなくても、たとえば体育の授業くらいならこなせるだろう。
足に後遺症が残っていたって、学校の授業なんて水泳選手にとっては朝飯前だ。


足を使わずに泳ぐ『プル』という練習のように手だけで泳ぐことも、足にあまり力を入れずに泳ぐこともできる。
そういう泳法だとしても、学校でしか水泳をしない子たちよりも速く泳げる自信はあるし、私の事情を知っている先生だって咎めることはないはず。


だけど……選手生命を絶たれたということは、私にとっては泳げなくなったのも同然だった。


授業で困らない程度に泳げても、きっと虚しくなるだけ。
水泳選手としての未来を絶たれた今、選手として戻れないのなら泳げなくなったのとなんら変わりはない。


「俺も」

「え?」

「まったく走れないって言えばうそになるけど、選手生命は完全に絶たれた」


明るく言いながらも、その横顔はとても悲しそうだった。


(同じだ……)


輝先輩は、私と同じだった。
まったく泳げないって言えばうそになるけれど、私も選手生命を完全に絶たれたから……。