今すぐ時間を戻すべきだと思ったが、佑の母親に声を掛けられて留まった。明日、自宅まで来てほしいという。佑は遺書に、瑞希に部屋を訪ねてほしいと書いていたらしい。特別に宛てた手紙もあるそうだ。
 これまでの二回の経験を踏まえれば、戻せる時間はその都度短くなると考えるべきだ。それが何日分なのかはわからない。もしかすると、ぐずぐずしている間に手遅れになるかもしれない。だが無闇に戻るより、彼の伝えたかったことを一つでも知っておけば、彼の命を救える成功率は高まる気がする。どちらを取るべきか、焦りで気がおかしくなりそうだ。
 一刻も早く訪問したかったが、葬式当日に彼らの家に乗り込むわけにもいかない。帰ってからの夜は、十七年の人生で最も長い夜だった。
 朝一に電車に飛び乗った。ここからはおよそ四十分で最寄り駅につく。
 のどかに桜が咲く町並みを眺めつつも、頭では考え続けている。今日時間を戻して間に合うのか、佑はいったい自分に何を見せて、何を伝えようとしているのか。
 一年後に君はいない。昨年の今頃、本当にその通りになるだなんて思いもしなかった。
 窓の外を見たり本のページをめくってみるが、内容が上手く頭に入らない。少しでも気を落ち着かせようとスマートフォンをいじって閃く。お気に入りからひとまがいのページを開いた。既に全ての作品に目を通していたが、それらの作品は何度でも読み返したい面白さがあった。
「……更新されてる」
 独り言が口から零れる。唯一の未完結作品、「滂沱の時を超えて」の更新日時が新しくなっていた。日付は一昨日の四月二日。
 迷わずタイトルをタップし、更新された話を読み進める。ラストの約五千文字が追加されている。自分のクローンが現れた主人公の話だ。コピーにコピーを重ねた結果、オリジナルが誰かさえわからなくなった自分。たくさんの自分がいるのに、その中に本物がいるのかさえ判断ができない。
 自分だけはオリジナル、真の人間だと信じていた。しかし何がその根拠になりえるだろうか。どうして自分だけは本物だと豪語できようか。真の人間は、唯一無二の自分という存在は、どういう形と色と声と思考をしているのだろうか。そもそも本物の自分とは何なのか。
 気の狂いかけた視界の中で、大勢の自分がこちらを見ている。自分と同じ形と色と声と思考を持つたくさんの贋作は、自分と同時にこう言った。
「わたしは、ひとまがいだ」
 最後には、主人公がいなくなっても何一つ変わらない世間の描写が続いて物語は幕を閉じた。これで、ひとまがいの作品は全て完結したことになる。瑞希は深くため息をついた。ひとまがいという人物を、初めて人として捉えられたような気がする。本当に存在しているのかも危うい「ひとまがい」は、自身の悩みからこの名を付けたのだ。遠い霧のような誰にも掴めないその人物が、急激に近しい人間となった気がした。
 瑞希は慌てて電車を降りた。危ない。すっかり作品に入り込んで乗り過ごすところだった。緊急事態にも関わらず、完結の余韻にふけってぼうっとしてしまう。しっかりしろと首を振り、改札を抜けた。
 駅舎を抜けた先の住宅街は、訪れたことのない場所だった。スマートフォンの画面に釘付けになりながら、ようやく一戸のマンションに辿り着いた。七階建ての小奇麗な建物で、どことなく高級感が漂う。
 エントランスから壁のテンキーに部屋番号を入力して挨拶すると、佑の母親の声が「どうぞ」と言った。開いた自動ドアを抜けて、エレベーターに乗り五階の廊下に出る。503号室のチャイムを押した。
 昨日はきっちりと礼服を着ていたが、普段着の今も、佑の母親は若く見える人だった。三十代半ばほどだろう。色白の整った顔立ちで、背を越す髪を一つに束ねている。少し疲れた印象を受けるが、実の息子を亡くしたばかりの母親にしては落ち着いて見えた。
 勧められるままスリッパを履きリビングに入る。足音に振り向くと、廊下伝いにある部屋から出てきた青年が、こちらに背を向けて玄関で靴を履いていた。二十歳ぐらいか、線の細い佑と異なりがっちりした体格の彼が、義理の兄だろう。「いってらっしゃい」という母親の声に「ん」とだけ声を出すとさっさとドアを開けて出ていった。
 視線をリビングに戻すと、テレビの向かいのソファーに座っていた男が立ち上がった。昨日の葬式で見た佑の義父、母親の再婚相手だ。実の息子に似たがたいの良い体格で、実年齢はもう少し上かもしれないが四十前後の歳に見える。テレビを消しつつ、「茜さんだね」と声を掛けるのに瑞希は頷いて返事をする。居心地の悪さを感じつつ、母親に言われるがまま、ダイニングテーブルの椅子に浅く腰かけた。
 二人とも、悲しみに暮れた様子はなかった。母親に憔悴の気はあるが、葬式に来ていた佑の友人たちの誰よりも落ち着いた顔をしている。今はカウンターキッチンに立ってお茶を入れている。
「これなんだけどね」
 向かいに腰掛けた佑の父親が、一枚の封筒を天板に置いた。「茜瑞希様」と丁寧な文字で書かれている。
「あの子の遺書に、この手紙を渡すよう書かれていたんだ」
 壊れものを扱うように、瑞希はそっと封筒を手に取った。裏返してみると「〆」のマークできっちりと封がされている。
「佑と仲良くしてくれていたのね」
 氷の入ったアイスティーのグラスを置きながら、ありがとうと母親が言った。
「手紙って、私だけですか。他の人には……」
 彼女は首を振って否定する。「茜さんにだけ。それで、部屋に入れてほしいって」
「迷惑かけて申し訳ないけど、最後の頼みだから聞いてやってくれないかな」
「迷惑だなんて、そんな」
 封筒を両手で軽く握り、瑞希は視線を俯ける。佑は、先輩のことを家族に話さなかったのだろう。あんなに毎日顔を合わせた茜瑞希のことも、学校やサークルでのことも、家では語らなかった。二人とも、瑞希は佑のちょっと親しい程度の先輩だと思っているようだった。共に心霊スポット巡りをし、プレゼントを交換し、延山で過去を辿った相手だとは微塵も思っていないに違いない。今も厄介な手紙を処理することができて、安堵しているように見える。
 この家に、結城佑の味方はいない。
「あの、結城くんの部屋で読んでいいですか。もしかしたら、泣いちゃうかもしれないので」
 二人はどうぞどうぞと同意し、部屋に案内してくれた。ここに居る二人と一人は、噛み合わない感情を抱いている。そこから生じる居心地の悪さに、誰もが窒息しそうな空間だった。結局、出されたアイスティーに口をつける間もなかった。