駅への道をとんぼ返りしながら、「オカルトも難しいなあ」と佑が呟いた。「むしろ違うってことを暴いちゃった」
「そんなもんでしょ、噂なんて」
 胸中で安堵しつつ、あえて素っ気なく瑞希は言い渡す。実はビビっていただなんて、こいつには絶対知られたくない。「先輩怖いんだー」なんて笑われたらひっぱたいてしまう。
 次に向かった廃病院の最寄りは、瑞希には初めて下りる駅だった。それは佑も同じらしく、閑散とした駅舎を興味深そうに見渡している。夏休み目前の金曜日だからか、リュックサックを背負った子ども連れの家族が、駅を出て浮月橋の方に歩いていく姿を目にした。付近の宿にでも泊まるのだろう。
 それとは全く反対方向に歩きながら、佑は廃病院にまつわる怖い話とやらを語り出した。
「見たら呪われるっていう落書きがあるそうです」
「なんて書いてあんの」
「その人のね、名前が書いてあるんだって」
 なるほど、オカルトチックだ。だが、怖がる素振りは決して見せず、「ふーん」と瑞希は敢えて鼻を鳴らす。
「あとあと、病院のカルテを持ち帰ったら、夜に電話がかかってきて、返せって言ってくるらしいですよ」
「なんか聞いたことある」
「いやあ。怖いですね」微塵も恐怖を感じていない表情で、彼は嬉しそうに笑う。
 不気味なほど静かな住宅街を抜け、しばらく行くと山の麓に出た。舗装はされているが、これを上るのかとうんざりした気分になる。雲が晴れたおかげで、夏の陽射しに首筋がちりちりと焼けつくのを感じる。雑木林からは蝉の大合唱が聞こえてくる。
 それでも五分ほどで屋根が見え、やがてぽっかりと開けた空間に、三階建ての廃墟が現れた。夏の生気に満ちた山の中に、巨大な生き物の死骸を思わせる廃墟は、何故だか妙に馴染んで見える。賑やかな生と静かな死が混在した、不思議な場所に思えた。
 庭も駐車場も草がぼうぼうと生い茂っていて、道らしき道はない。腰まである夏草を踏み分けながら、前を歩く佑が玄関で立ち止まった。
「すごいですね」
 何がとは言わないが、瑞希も頷く。灰色の汚れた壁に、ガラスの一枚も残っていない窓枠。中から何かが覗いている気がして背筋が寒くなる。昼間に来て本当によかったと思う。
「んじゃ、入りますか。今日も夕立の可能性があるらしいし」
 こんなところで雨宿りはしたくない。「ホームレスとかいたら怖いんだけど」佑に続いて屋根の下に入りつつ、瑞希はぼやいた。
「あー、その方が怖いですね。生きた人間の方が!」
 がらんとした建物に、佑の声が反響する。待合室には破れたソファーが転がり、そこら中にガラスの破片が散乱している。外の暑さが嘘のように空気はひんやりとしていて、瑞希は自然と自分の腕を両手で抱く。
「なんか寒くない?」
「え、まあ、外よりは」
 全く怖がる素振りを見せず、彼はパキパキとガラスや瓦礫の破片を踏みながら、廊下をずんずん進んでいく。廃墟となる前、ここではどれだけの人が働いていたんだろう。病室にはたくさんの患者がいて、見舞客が来て、亡くなった人も大勢いたに違いない。想像して身震いした。
「……なに」
 いつの間にか、左手を佑の右手が握っていた。
「寒いって言ってたから。ほんとに手、冷たいですね」
 どさくさに紛れて、と言いかけた口を噤む。単純に、今は誰かの体温に触れていたい。寒いだけ、暖を取るだけだからと自分に言い聞かせて、瑞希も軽く佑の手を握った。
 うわあ、と佑が感嘆の声をあげ、「うわ」と瑞希も声を漏らした。
 リハビリに使っていた部屋のようだ。何も器具の残っていない広い部屋には、壁だけでなく床から天井に至るまで、一面に落書きが施されていた。これまでも少なからず目にしていたが、群を抜いてこの部屋はひどい。スプレーによる前衛的な落書きから、汚くて読み取れない文字もある。正面の「参上!」なんて主語がないから全く意味が分からない。
「名前が書かれてるっていうの、この部屋なんだけど」
「この中から探すの?」
「多分……」
 手を解き、二人はそれぞれ壁の落書きを一つずつ見ていった。瑞希は馬鹿馬鹿しくなってすぐにやめ、やがて佑も諦めて戻ってきた。もちろん、どちらの名前も見つからなかった。
「自分で自分の名前書いて呪われたんじゃない?」
「なるほど、そうかもしれない」
 佑はうんうんと頷き至極納得している。
 それから廊下に戻り診察室らしき部屋も覗いたが、荒れ果てたそこにカルテは見当たらなかった。
「二階かもしれないですね」
「いや、もういいって」
 そう言って階段を上がろうとする佑を、瑞希は内心慌てて引き止めた。「なんで」ときょとんとする彼に、怖いからだなんて言えるはずがない。
「大抵、カルテがあるような診察室って一階でしょ。二階は病室だろうし」
「見てみないとわからないじゃないですか。せっかくここまで来たんだし、噂が本当かどうか確かめて……」
 彼の台詞が途切れた理由を、瑞希もすぐに理解した。唐突に、耳に入る自然音が変化したのだ。
 それは雨音だった。
 急いで玄関へ戻ると、大粒の雨が緑の草やコンクリートを叩く光景が目に入った。ざあざあと音を立てて大雨が降っており、いつの間にか蝉の鳴き声も止んでいた。「嘘でしょ……」瑞希はげんなりした声を零した。
「あー、降っちゃいましたね」
「なにこれ、夕立ち?」
「みたいです。多分、すぐに止みますよ」
 佑は変わらずのほほんと雨空を見上げ、呑気なことを言う。彼の言うように、恐らくすぐに止む夏の雨だろう。無理に濡れて帰るよりは、雨宿りをして様子を見た方が賢明だ。
 だが、薄暗い廃病院はいっそう暗い空気をまとう。陰気が具現化しているようだ。流石に佑も上階へ行こうとは言わなくなり、どちらからともなく玄関の上がり框に腰掛けた。
 ごろごろと遠雷の音まで聞こえてくる。随分と激しい雨だ。
 膝に頬杖をついてつまらない顔をする瑞希の隣で、彼は無念そうに肩を落とした。
「名前もカルテも、見つからなかったなあ」
「そんなの本当なわけないじゃない。死んだ人から電話がかかってくるなんてのも、あるわけないし」
「でも、夢があるじゃないですか、そういうの」
 心霊に対して怖いという感情とは無縁なようだ。万が一、廃病院から電話がかかってきても、嬉々として質問攻めにする様子が容易に想像できる。こいつには、きっと幽霊もびっくりだ。
「じゃあ書いてきたら。自分の名前」
「落書きはだめですよ!」
 佑が身を乗り出すのに、不法侵入のくせにと瑞希は呟いた。警報装置がないので穴場らしいですよ、と言っていたのはそもそもこいつだ。
 とんだ夏休みの始まりだ。廃墟と化した病院で雨宿りだなんて。
「ていうか、あんたは呪われてもいいの? 別に呪いだとか信じてるわけじゃないけど、仮の話」
 むしろ積極的に呪われに行こうとするきらいさえある。
「もしかして、呪われたいの」
 しかし瑞希の台詞に「そういうわけじゃないけど」と佑は指先で頬をかいた。
「せっかくだし、試してみたいっていうだけで。それで呪われたらそれでもいいかなって」
「ふーん。自棄じゃん」
「自棄なのかなあ」
「それって、来年死ぬから?」
 彼がやたらと引っ張るエイプリルフールネタを引き出して笑ってみせたが、彼は笑わなかった。神妙な顔をして考え、「そうかも」と呟くのに、瑞希はばつが悪くなる。なんでこんな時は笑わないんだ。気分がむずむずしてしまう。
「……すいませんでした」
 唐突に佑が言った。
「なにが」
「先輩、乗り気じゃないのに連れ回しちゃって」
 まさか、彼の口からそんな台詞が出てくるとは思わなかった。返す言葉が思い浮かばない。
「これなら先輩に協力できるって思ったんです。全部つっこさんのおかげだけど……。先輩と一緒にいられるのも嬉しくて。でも、結局何も収穫なかったですね」
 瑞希が初めて見る佑の反省する姿だった。伏せた眼差しは本当に悲しげで、後悔に暮れていた。まるでいつもの結城佑らしくない。
「いや、何もないってわけじゃないけど……」
 うんざりはしているが、こうも悲しい表情をされると、責める気持ちはしゅるしゅると音を立てて萎んでしまう。一緒にいたいという気持ちはあれど、そもそも佑の行動の発端は瑞希の作品のためなのだ。だから月子や周囲も巻き込んで調べてくれた。
「……空気感はわかったし」
「ほんとですか?」
 頷きながら、確かに作品には活かせそうだと思う。何も起こらなくとも、訪れるまでの緊張感、実際に廃墟をうろつく恐怖や不安は十二分に体験できた。
「一人じゃ、こういうとこ来ないし……」
 だから、ありがとう。
 その言葉がもう喉まで込み上げているのに、出てこない。見得かプライドか恥じらいか、はたまた別の感情か。言わなければと思うのに、言葉は腕を伸ばして喉の奥を掴んで離さない。可愛げなく、外に出てくることを拒んでいる。
 ちらりと横目で覗うと、彼の表情がみるみる明るくなるのが見えた。心底ほっとしているらしく、その顔は安堵に満ちていた。
 ほんとに掴めないやつだ。勝手に待ち合わせたり、勝手に呼び出したり。マイペースなくせに、ふと落ち込んで反省の姿勢を見せる。百パーセントの素直だから、こっちとしても憎み嫌うわけにいかない。それに彼の勝手に振り回されても、憎むような悪意は不思議と芽生えない。
「じゃあ、次も行きましょう!」
「調子に乗るな、馬鹿」
「えー。それなら、次で最後にするから」
 ほんのちょっとだけ心配して損した。彼から視線を剥がし、瑞希は「あっ」と声をあげた。
 いつの間にか、激しく降っていた雨は嘘のように止んでいた。やはり通り雨だったようだ。たちまち佑が腰を上げて外に飛び出した。
「先輩、見て見て!」
 彼は跳ねるようにして、右手で空を指さし、左手を振って手招きをする。何があるのかと建物から出た瑞希も、彼を同じ方角を見上げ、七色の虹を目にした。
 青く晴れた空の下で、早くも蝉たちが鳴き始めていた。