十五分も歩けば、小学校の正門に辿り着いた。グラウンドで遊ぶ子どもたちの姿が見える。
「塀沿いに曲がった路地で見かけるそうです」
学校の敷地から塀一枚隔てた道に、堂々と不審者がいる。姿かたちよりも、その事実が恐怖をあおる。
角まで辿り着き、塀に沿って左に折れた。塀の反対側には、古い住宅が静かに並ぶ。数軒先に、古き良き風情の駄菓子屋がぽつんと建っている。小さな平屋の軒先には「かき氷」の暖簾がぶら下がっていた。
「……誰もいないじゃん」
見通しの良い真っ直ぐな細道には、赤い女どころか猫の子一匹いない。
「どこかの家の間に隠れてるかも」
佑はそう言うが、瑞希には唐突に馬鹿馬鹿しさが湧き上がってきた。半日を潰して何をしているんだろうという気持ちになった。
「わかるでしょ、いないって」
「探しましょーよ」
「いや」
「ちょっとだけ!」
帰ると無碍なく言いかけ、瑞希は言葉を呑み込んだ。情けない彼の表情を目にすると、無慈悲な台詞は流石になりを潜めた。元はと言えば全て瑞希の作品のために彼は協力してくれているのだ。頼んだ覚えはなく、余計なお世話だとも思えるが、せっかくここまで来てすぐさま駅に戻るのも癪な気がする。
「……じゃあ、あそこで二十分だけ待つ。端から端まで見えるから、いたらわかるし」
駄菓子屋前の木のベンチを指さし、妥協案を提示する。すると子どものように表情を明るくし、彼は同意した。
引き戸を大きく開けた駄菓子屋は小ぶりな店舗だが、大量の商品を所狭しと並べていた。壁際の棚では、個包装の飴やチョコレートやガムの詰まった透明な箱が口を開けている。一つ十円の値札を見て、瑞希は驚愕した。近所のスーパーでは決して見ることのない値段だ。この価格設定で店が成り立つのか、他人事ながら心配になってしまう。
「すっごく安いね、お店大丈夫?」
隅のケースから取り出したアイスキャンデー入りの袋をレジカウンターに置き、佑がいつも通り馴れ馴れしく話しかけた。奥からのそりと出てきた腰の曲がった老婆は、「百円」と彼に素っ気なく告げる。他の従業員の姿はないから、店主だろう。店の奥からは細くテレビの音が聞こえてくる。
「あんたらも、安い方がええやろ」
「うん。お金ないから助かる」
「学校のすぐそばやからね。今日はおらんけど、いつもは子どもらでいっぱいよ」
「いいなあ。こういうお店が近くにあるって」財布から出した百円玉をトレーに置き、彼は心底羨ましそうな声音で言う。「帰り道だったら毎日通うのに」
彼の能天気さに呆れこそすれ、感心するのは初めてかもしれない。あっという間に初対面の店主と気さくな雑談を交わす彼を見ながら、瑞希はアイスクリーム入りのカップを買った。これも百円だった。
噂をすれば、騒がしい子どもの声が店先から聞こえてくる。自転車のスタンドを立てる音とほぼ同時に、五人の男の子たちがわらわらと店になだれ込んできた。「おばあちゃん、こんちは」各々口にしながら棚の駄菓子を手にし、吟味している。「今日こそ当たれよー」とくじ付きのガムを手に、一人の子が祈りを捧げている。
狭い店はあっという間にいっぱいになった。押し出されるように佑と瑞希は店先に出て、ベンチに座る。「おまえほんとそれ好きだなー」囃し立てる声と無邪気な笑い声が聞こえてくる。
佑は袋からアイスを出し、瑞希はカップの蓋を開け、もらった木のスプーンで中をつついた。かちこちに冷えたアイスクリームは、一口分もすくえない。
「いたたたた」
隣を見ると、アイスキャンデーの冷たさに、佑が頭を抱えていた。
夏の空気に、手と口から広がる冷たさは心地よい。青空に浮く雲を見上げながら、しばらく二人はもくもくとアイスを食べる。
「先輩、一口交換しません?」
「しない」
黙っているのに飽きた佑の提案を却下し、ようやくほどよく溶けてきたアイスを半分程食べた頃、子どもたちがわいわいと店から出てきた。ズボンのポケットを駄菓子で膨らませた彼らは店先の二人に目もくれず、先を争うように自転車に飛び乗り、路地を走り抜けていった。
喧騒が遠く消えると、店から店主の老婆が出てきた。空を見上げ、「今日は、気温が下がらんのやと」とひとりごつ。熱中症を心配してくれているのだと瑞希は思った。
「ねえ、おばあちゃん」先にアイスキャンデーを食べ終えた佑が声を掛ける。「赤い女って知ってる?」
「なんのことや」
「この道に、赤い女が出るって聞いたんだよ。服も靴も髪も、ぜーんぶ赤色の人。目が合ったら追いかけてくるんだって」
思い当たらないのか目を細めて黙ってしまった店主は、やがて「そんなこともあったわな」と僅かに顎を引いた。頷いたのかもしれない。「過去形?」と思わず瑞希が呟くと、老婆はもう少しはっきりと頷いた。
「五年位前かの。ここらの道に、妙なやつがうろついとった。まあ、そんだけやったんやが、面白がった子どもらが囃し立ててな。追いかけられた子もおったわ」
「今はいないの」佑が問いかけると、店主は「ああ」と首肯した。
「その子らの親が、学校に怒鳴りこんだっちゅう話や。学校のそばの不審者を放置して、どういうつもりやってな。今度は警察がその女を捕まえたんや」
「その人、なんだったの」
「近くに、演劇やる学校があるんやが、そこの生徒やったんや。劇の衣装やら化粧やら使うて、練習がてら幽霊になり切ってみたら、えろう子どもらから怖がられてな。面白なったんやと」
「じゃあ、普通の人だったんですか」
老婆が肯定するのに、瑞希は安堵した。いくら探してもここで不審者と鉢合わせることはない。そもそもが五年も前の出来事なのだ。
佑が「そっかあ」と嘆息した。
「あんたら、変なこと探しとらんと、帰って勉強せえよ」
踵を返そうとする老婆の台詞に、ぐうの音も出ない。
「赤い女って、もういないんだね」
残念そうに言った佑を一瞥し、「初めっからおらんよ」と店主が言う。きょとんとする二人に、続けて言った。
「あれは、男やったんや」
瑞希の手元のカップの中で、アイスクリームはすっかり溶けてしまっていた。
「塀沿いに曲がった路地で見かけるそうです」
学校の敷地から塀一枚隔てた道に、堂々と不審者がいる。姿かたちよりも、その事実が恐怖をあおる。
角まで辿り着き、塀に沿って左に折れた。塀の反対側には、古い住宅が静かに並ぶ。数軒先に、古き良き風情の駄菓子屋がぽつんと建っている。小さな平屋の軒先には「かき氷」の暖簾がぶら下がっていた。
「……誰もいないじゃん」
見通しの良い真っ直ぐな細道には、赤い女どころか猫の子一匹いない。
「どこかの家の間に隠れてるかも」
佑はそう言うが、瑞希には唐突に馬鹿馬鹿しさが湧き上がってきた。半日を潰して何をしているんだろうという気持ちになった。
「わかるでしょ、いないって」
「探しましょーよ」
「いや」
「ちょっとだけ!」
帰ると無碍なく言いかけ、瑞希は言葉を呑み込んだ。情けない彼の表情を目にすると、無慈悲な台詞は流石になりを潜めた。元はと言えば全て瑞希の作品のために彼は協力してくれているのだ。頼んだ覚えはなく、余計なお世話だとも思えるが、せっかくここまで来てすぐさま駅に戻るのも癪な気がする。
「……じゃあ、あそこで二十分だけ待つ。端から端まで見えるから、いたらわかるし」
駄菓子屋前の木のベンチを指さし、妥協案を提示する。すると子どものように表情を明るくし、彼は同意した。
引き戸を大きく開けた駄菓子屋は小ぶりな店舗だが、大量の商品を所狭しと並べていた。壁際の棚では、個包装の飴やチョコレートやガムの詰まった透明な箱が口を開けている。一つ十円の値札を見て、瑞希は驚愕した。近所のスーパーでは決して見ることのない値段だ。この価格設定で店が成り立つのか、他人事ながら心配になってしまう。
「すっごく安いね、お店大丈夫?」
隅のケースから取り出したアイスキャンデー入りの袋をレジカウンターに置き、佑がいつも通り馴れ馴れしく話しかけた。奥からのそりと出てきた腰の曲がった老婆は、「百円」と彼に素っ気なく告げる。他の従業員の姿はないから、店主だろう。店の奥からは細くテレビの音が聞こえてくる。
「あんたらも、安い方がええやろ」
「うん。お金ないから助かる」
「学校のすぐそばやからね。今日はおらんけど、いつもは子どもらでいっぱいよ」
「いいなあ。こういうお店が近くにあるって」財布から出した百円玉をトレーに置き、彼は心底羨ましそうな声音で言う。「帰り道だったら毎日通うのに」
彼の能天気さに呆れこそすれ、感心するのは初めてかもしれない。あっという間に初対面の店主と気さくな雑談を交わす彼を見ながら、瑞希はアイスクリーム入りのカップを買った。これも百円だった。
噂をすれば、騒がしい子どもの声が店先から聞こえてくる。自転車のスタンドを立てる音とほぼ同時に、五人の男の子たちがわらわらと店になだれ込んできた。「おばあちゃん、こんちは」各々口にしながら棚の駄菓子を手にし、吟味している。「今日こそ当たれよー」とくじ付きのガムを手に、一人の子が祈りを捧げている。
狭い店はあっという間にいっぱいになった。押し出されるように佑と瑞希は店先に出て、ベンチに座る。「おまえほんとそれ好きだなー」囃し立てる声と無邪気な笑い声が聞こえてくる。
佑は袋からアイスを出し、瑞希はカップの蓋を開け、もらった木のスプーンで中をつついた。かちこちに冷えたアイスクリームは、一口分もすくえない。
「いたたたた」
隣を見ると、アイスキャンデーの冷たさに、佑が頭を抱えていた。
夏の空気に、手と口から広がる冷たさは心地よい。青空に浮く雲を見上げながら、しばらく二人はもくもくとアイスを食べる。
「先輩、一口交換しません?」
「しない」
黙っているのに飽きた佑の提案を却下し、ようやくほどよく溶けてきたアイスを半分程食べた頃、子どもたちがわいわいと店から出てきた。ズボンのポケットを駄菓子で膨らませた彼らは店先の二人に目もくれず、先を争うように自転車に飛び乗り、路地を走り抜けていった。
喧騒が遠く消えると、店から店主の老婆が出てきた。空を見上げ、「今日は、気温が下がらんのやと」とひとりごつ。熱中症を心配してくれているのだと瑞希は思った。
「ねえ、おばあちゃん」先にアイスキャンデーを食べ終えた佑が声を掛ける。「赤い女って知ってる?」
「なんのことや」
「この道に、赤い女が出るって聞いたんだよ。服も靴も髪も、ぜーんぶ赤色の人。目が合ったら追いかけてくるんだって」
思い当たらないのか目を細めて黙ってしまった店主は、やがて「そんなこともあったわな」と僅かに顎を引いた。頷いたのかもしれない。「過去形?」と思わず瑞希が呟くと、老婆はもう少しはっきりと頷いた。
「五年位前かの。ここらの道に、妙なやつがうろついとった。まあ、そんだけやったんやが、面白がった子どもらが囃し立ててな。追いかけられた子もおったわ」
「今はいないの」佑が問いかけると、店主は「ああ」と首肯した。
「その子らの親が、学校に怒鳴りこんだっちゅう話や。学校のそばの不審者を放置して、どういうつもりやってな。今度は警察がその女を捕まえたんや」
「その人、なんだったの」
「近くに、演劇やる学校があるんやが、そこの生徒やったんや。劇の衣装やら化粧やら使うて、練習がてら幽霊になり切ってみたら、えろう子どもらから怖がられてな。面白なったんやと」
「じゃあ、普通の人だったんですか」
老婆が肯定するのに、瑞希は安堵した。いくら探してもここで不審者と鉢合わせることはない。そもそもが五年も前の出来事なのだ。
佑が「そっかあ」と嘆息した。
「あんたら、変なこと探しとらんと、帰って勉強せえよ」
踵を返そうとする老婆の台詞に、ぐうの音も出ない。
「赤い女って、もういないんだね」
残念そうに言った佑を一瞥し、「初めっからおらんよ」と店主が言う。きょとんとする二人に、続けて言った。
「あれは、男やったんや」
瑞希の手元のカップの中で、アイスクリームはすっかり溶けてしまっていた。