それからしばらく、僕は月野のことを見守っていた。彼女は幸せそうな顔をして眠っている。命に別状は無さそうだし、吐く気配もない。そろそろ帰っていいだろう。

 僕は月野のリュックの中に余った酒を押し込み、胸の前にかけた。それから、眠ったままの彼女を背負う。ふわりとアルコールの匂いがした。

 この帰り道はきつい道のりになるぞ。そう思いながら、家を目指して一歩一歩進んでいく。

 その間、僕は月野が言っていた言葉の意味を考えていた。

『せめて、死ぬ前にもう一度彼に会いたかった』

 あんな言葉、これから死のうとしている人間は言わない。あれは死のうとしている人間の言葉じゃない。あの言葉は、これから死ぬ運命から逃げられない人間が発する言葉だ。

 そんなことを考えながら歩いていた時だ。僕は視界の端に灰色の紙切れを見つけた。それは倒れかけた家のポストの口から顔を覗かせている。こんな誰も住んでいない廃墟のような場所に、誰がこんなものを持ってきたのだろう。まさか、ずっと前からあのポストに挟まっているわけじゃあるまい。近づいてみると、その紙切れの正体が分かった。

 風にひらひらと揺れるその紙は、新聞の切り抜きだった。

 その時、僕は常田のことを思い出した。遊園地にあるヴァイキングについて書かれた新聞の切り抜きだ。

 あの時の会話が、僕の脳内で渦を巻いていた。嫌な予感がして、僕は月野を桜の木陰に座らせた。

「ここで少し待っていてくれ」

 眠り続ける月野に声をかけて、僕はそのポストの前まで向かった。そして恐る恐る、新聞を手に取る。

「ああ、やっぱり」

 それは確かに、新聞の切り抜きだった。そして常田の新聞と同じように、この新聞も所々黒く塗り潰されている。これも向こうの世界で発行された新聞だというのか? でも、いったいなぜここに?

 そう思い、僕は新聞記事に目を通していった。幸い、この記事も内容は掴めた。だが、やはり所々情報を消そうと塗り潰されている。

 内容はこうだ。

 ある日、直径約六十mの隕石がとある街に落下してきた。クレーターは二kmに達し、周辺の住宅は消し飛んだ。更には広範囲に渡り衝撃波が飛び、多くの建造物が破損。死者は五千人に及び、負傷者は更に多くいる。

 やはり、隕石衝突の日付が黒く塗り潰されていた。更に、落下した市町村にあたる所も黒く塗り潰されていた。

「やあ、また会ったね」

 背後からオルゴールの音色のような安らかな声がかけられる。ついさっきまで話していたかのようなその安心感が、余計に僕の心をかきむしった。振り返ると、そこには赤い瞳をした人物が立っていた。

「なんでお前がここにいるんだよ」

 僕がそう問いかけると、彼は信じられないとでも言いたげに顔をしかめた。

「それを言いたいのは僕の方だよ」

 星の骸はやれやれと肩をすくめて見せた。

「君こそ僕の住処で何を好き勝手にやってくれているんだ」

 ここが星の骸の住処だと? この隕石の跡地が?

「それはどういうことだよ」

「そのままの意味だよ。僕はここで産まれたんだ」

 星の骸は余裕のある笑みを浮かべている。

「もっと言えば、君と初めて会ったのもこの場所だ。と言っても、君は忘れているようだけどね」

 その時、ズキンッと脳が痛んだ。

「うっ」と呻き声を出して、僕は頭を押さえた。そうして、微かな記憶が脳裏を駆け抜ける。

 僕は絶望に近い感情に駆られながら、隕石が衝突した街へ向かっていた。警察や消防の静止を振り切り、燃え盛る街の中に向かって走り出していく。その時だ。赤黒く燃え続ける火炎の中から、誰かが現れた。その人物は確か、白髪で赤目をした――――あれは確かに、星の骸だった。

 僕はかつて、この場所に来たことがあるのかもしれない。あの時感じた絶望に似た思いというのは、まさか。最悪の想像が頭の中で暴れ回っていた。

「僕はそこで、君に何かを願ったのか?」 

 その隕石の衝突で、僕の理想の人は死んでしまったのだろうか。あの時の絶望は、焦りは、それに近いほど深いものだったはずだ。

 一度そう考えてしまうと、身体中の震えが止まらなかった。だって、そうしたら、この世界から抜け出す意味も無くなってしまう。

「色々と考えているようだけど、残念ながらそれは不正解だよ。君が僕に願ったのはその時じゃないな。もう少し後のことだ」

 星の骸は笑っていた。明らかに僕を嘲笑するように、腹すら抱えてしまいそうなくらいだった。

「少し落ち着いて冷静に考えてみなよ。その場所で君が願っていたら、理想の人は生き返ってるだろ? それか、隕石の衝突自体を無かったことにしてる」そこで星の骸は一度息をつき「まあ、隕石の衝突を無かったことにはしないけどね。僕が産まれなくなってしまうから」と語った。

 それは確かに、星の骸の言う通りだった。笑われたって仕方ないかもしれない。少し冷静さを取り戻した僕は、星の骸に向き直った。

 こいつに問いただしてやりたいことは沢山あった。月野のノートの作者、もといこの世界の考案者について、僕が願った内容について、新聞の切り抜について、そしてなぜ、月野ユキが死ななければならないのかについてだ。

「おい。少し良いか」

 そんな僕の発言を、星の骸は手を使って妨げた。

「いや、ダメだな。今回僕が君の前に現れたのには理由がある」

 そうして、星の骸はニヤリと口角を上げた。

「今回はね、罰について話すために君達を探していたんだ」

「罰?」

「ああ、罰だ。君達さあ、この前僕の世界を荒らしただろ?」

 世界を荒らした? 何のことだろうかと考えて、すぐに思い出した。

「七日くらい前かな、君達、商店街の窓ガラスを壊したよね」

 背筋が震えた。完全に、僕達の行動が星の骸に筒抜けになっている。

「だから残念だけど君達には罰を与えないといけないな。この世界の平穏を乱した罪だ」

 何をされるのだろうか。星の骸のことだ。本当に何らかの罰を下すだろう。それをできるだけの力が、こいつにはある。すぐに逃げないと。月野を背負って、今すぐにこの場から立ち去るべきだ。彼女を背負って、逃げ切れるだろうか? 一人でも逃げ切れる自信がない。いや、逃げ切るしかないんだよ。

「そんなに焦らなくていいよ。そんなに身構えることはない。むしろ、これは返って君達の道標になるかもしれないな」 

「道標?」

「そう。道標だ。これは君達の願いでもある」

 僕達の願い? そんなのが罰と呼べるのだろうか。そんな僕の思考を見透かしたように、星の骸は話した。

「ただ、これはあくまでも罰だ。君達は嘆き悲しむことになるだろう。そして、結果として行動を起こす。その結果に当たるところが、君達の願いに繋がっているというわけだ」 

 星の骸は楽しそうに両手を広げた。

「ここはユートピア・ワンダーワールドだ。罰を与えるといっても、救いの一つや二つくらいないとつまらないだろう」

 彼は指を一つ立てる。 

「ヒントは、そうだな。八尾比丘尼(やおびくに)だ」

「八尾比丘尼?」

 どこかで聞いたことのある言葉だ。だが、何のことかは忘れてしまった。僕の反応を見た星の骸は、少し寂しそうに目尻をさすった。

「もちろん忘れているよね。それは仕方ないことかもしれない。でも僕はね、君達の力を信じていたんだ。もう、時間は思ったよりも少ないんだよ」

 彼は心底失望したように、据わった目でこちらを見ている。

「伝えることはもうないよ。じゃあね」

 そう言い残し、星の骸は背を向けた。

 ダメだ、今こいつを逃してはならない。聞かなくちゃいけないことは沢山あるのだ。

「おい! 待てよ!」

 その叫びに星の骸は足を止め、こちらに振り返る。

 彼は思い出したように「ああ、そうだ」と顎に指を当てた。

「一つ言い忘れてたよ。君にこの世界の総人口を教えてあげよう」

 なぜそんなことを教えるんだという質問をする間も無く、彼は告げた。

「約七千人。この世界には約七千の人が住んでる」

「だからなんだって言うんだよ」

「話はまだ途中だよ。約七千人のうち、二千人が労働を義務付けられているんだ。この意味が、分かるかい?」

 僕は何も答えられなかった。色々なことが頭の中で渋滞していて、思考が追いついていない。

「仕方ないな。もう少しだけヒントをあげようか。この二千人の労働者は、僕が作った架空の人間だ。残った五千人の人間がこの世界で何不自由なく暮らせるように、労働を強いられることのないようにするために、僕がちょっとだけ願いに手を加えたんだ」

「五千人のために、手を加えた?」

「そうそう。五千人のために、というより誰もが幸せな、という願いを叶えるために手を加えたという感じだね。ユートピア・ワンダーワールドの作者は、労働のことまで頭が回らなかったみたいだよ。まあでも、仕方ないことのような気もするけどね」

 その時、真っ白な部屋が脳内にフラッシュバックした。でも、それ以上は何も思い出すことができず、その記憶は霧のように霞んで消えた。

「そうしてできたのがユートピア・ワンダーワールドなんだよ」

 そう言い残して、今度こそ星の骸は僕に背を向けた。そのまま、奴は桜の森の中へと消えていった。

 それからいくら頭を振り絞っても、真っ白な部屋についての記憶を思い出すことができなかった。

 そのかわり、はっと閃いた。僕はようやくそれに思い当たりむしるように新聞を開いた。食い入るように記事を読み、その一文を見つけた。

[今回の隕石による死者数は、約五千人に登ります]

「やっぱり」 

 その文章を読み、思わず声が出た。なんで忘れていたんだ。先程、新聞を読んだばかりじゃないか。

 五千人の人間が何不自由なく暮らせるように生み出したのが、二千人の労働者。

 あの機械的な労働者達は、星の骸が作った偽物の人間。じゃあ、逆に考えたらどうなるだろう。残りの五千人の人達は、本物の人間だ。

 この世界の本当の人口は約五千人。そして、隕石による死者数も約五千人。これは関係しているのだろうか。それとも、ただの偶然の一致だというのだろうか。

 わざわざ星の骸が言ってきたんだ。何か意味があるに決まってる。

 じゃあ、この世界に住んでいる住民というのは――

 ということは、僕も……月野も……

 そこまで考えて、頭を振った。それはあり得ない話だ。だって僕は、星の骸にまだ願う権利があると言われている。僕にはまだ、寿命が残っている。ということは、少なくとも僕はその被害を受けていない。

 じゃあ月野はどうなるのだろう。

 そこで、考えるのを辞めた。どうせ、月野はその命を終わらせるのだから。終わらせる必要があるのだから。

 それなら後の人間はどうなったっていい。

 そう思った時、乾いた笑いが込み上げてきた。それはあまりにも自己中心的な思想だったからだ。でも、世界を壊したいというのは究極的に自己中な願いなのだ。僕達がやろうとしていることはそういうことだ。

 ただ問題なのが、月野の死について考えている時に、胸の中で燻っている感情の正体に気づいてしまいそうなことだった。