「はぁ、はぁ、はぁ……」
 ラベンダー色の髪の少女は、泣きながら走っていた。
 飲み込むような鬱蒼(うっそう)とした森の中を。
 柔らかな生地で出来たドレスはあちこち破れ、靴は片方どこかに落していた。
 ドラゴンミルクで磨き上げた自慢の肌も、今や傷つき血が滲んでいた。
「いやいや……! 私は死にたくない、殺されるのはいや……!」
 だが、その願いも虚しく、少女の行く手に村人が現れる。全身に殺気を漲らせ、黒光りする農具を構えて。
「いたぞ! 幼き毒婦、ラニだ!!」
「ひっ!」
 身を翻し、ラニは今来た道を戻る。
「逃げるな!! 自分のしでかしたことを思い知れ!!」
「きゃあああっ!!」
 自分の何倍も年を重ねた、体の大きい大人たちが、少女を(ほふ)るべき敵と認識し追ってくる。ついこの間まで、足元にかしずくことすら許されなかった下賤の者ども。怒号や罵声が雨あられと頭上へ降り注ぐ。
 恐怖で強張る足を懸命に動かし、涙で滲む視界の中を、ラニは走り続ける。
「いや、いや、誰か助けて……! お父様……! お姉さまぁあ……!!」

 ■□■

(ラニ、いた!!)
 テンセイの操る馬に乗せられ、私は夢に見たあの森へ駆けつけた。
 生い茂る木々の向こうに、青いドレスがちらちらと見える。まだ幼さの残る少女の悲鳴もそこから聞こえていた。
 そしてその後ろから彼女に迫るのは、唸るような怨嗟の声。
(だめだ、追手がもうラニのすぐそばまで迫ってる! このままじゃ、ラニは……!)
 かつて夢の中で味わった激痛を思い出す。胸にづぐりと飲み込まれた刃の焼けるような、そして氷のような感触も。

「待て、そこのお前たち! 無体はよせ!!」
 テンセイは馬を止め、ひらりと地面へ降り立つ。
「ソウビ殿、ここでお待ちください。自分はあの者どもを止めてまいります!」
 テンセイは馬を樹に繋ぎそれだけ言い残すと、怒号の聞こえる方へと走ってゆく。
「え、待って!」
 馬上に残され、私は慌てる。
 馬に振り落とされるかもしれない恐怖が一瞬胸をかすめたが、今はラニを助けたい。
(たしかあの魔法は、えぇと……!)
 ユーヅツに見せられた魔導書のページに関する記憶を、私は懸命に辿る。
(思い出して! 私の頭!!)
 ぼんやりと脳裏に浮かび上がってきた呪文を、私は口から放った。
「はあぁああっ!!」
 低く唸るような地響きの後、ラニの背後に何本もの樹が出現する。
「きゃあっ!?」
 それは壁のように密集して生え、ラニと追手を分断した。
「うぉ!? なんだ!! 木が邪魔で進めねぇ!!」
(よし、成功!!)
 テンセイも追手側に残してしまったけれど。
「ラニ!!」
 私は何とか馬から滑り降り、木々の間を縫ってラニの元へとたどり着く。
「お、お姉さま……!!」
 ラニは私を見ると、青白い顔となりその場にへなへなと崩れ落ちた。
「お姉さま、私、私……!! あぁ、ごめんなさい……!!」
 その双眸(そうぼう)から涙がボロボロとあふれ出す。
「許して、お姉さま。私、処刑されますの!? うわぁあああんっ!!」
 幼子のように声を上げて泣くラニを、私はそっと抱きしめる。子どもらしい、細く小さな肩が布ごしにもわかる。ラニは一瞬びくりと身をすくめたものの、私が背を撫でるとしゃくりあげながらしがみついてきた。
(私こそごめんね、ラニ。怖かったよね、不安だったよね。こんな小さなあなたに、私は傾国なんて役割を押し付けてしまった)
「泣かないで、ラニ。私があなたを守るから。出来るだけの償いをするから」
「お姉さま……」
 ひとまずは、ラニを生存状態で確保できたことにほっと息をつく。
 このままテンセイと合流して、城へ戻ろう。その後の判断は、皆に委ねよう。私もできるだけの便宜(べんぎ)を図ろう。そんなことを考えながら、小さな肩を抱きしめていた時だった。
(あれ?)
 急に目がかすむように、視界に淡く白いフィルターがかかる。
「なにこれ、やだ……!」
 全身をぞわりとした感触が襲う。酷く嫌な予感がした。
 ざくざくと下草を踏みしめ、近づいてくる足音に私は振り返る。
「お二人ともご無事で……、ソウビ殿!?」
 テンセイの声が妙に遠い。
 視界は更にかすみ、テンセイの姿も白い靄の中に滲んでゆく。
「景色がだんだん薄れていく……! 私、眠りから覚めようとしてるのかもしれない!!」
「なんだって!?」
(どうしてこのタイミングで!?)
 私は陽炎のようになったテンセイに向かって両手をのばす。
「いやだ、テンセイ、側にいたいよ! 離れたくない!!」
「ソウビ殿! 行かないでくれ!」
 私たちは寄り添い、しっかりと互いの背に腕を回す。手の下に、みっしりとした手ごたえを感じた。私の背と後頭部を、大きく熱い手が覆うのを感じる。
(テンセイのぬくもり、テンセイの厚み、テンセイの匂い……!)
 しかしそれら全てが、腕の中で煙のようにむなしく溶ける。
(あ……!)
 ミルク色の靄の中、私の全ての感覚が遠のいていくのが分かった。

 ■□■

 目を覚ました。
 朝の光がカーテン越しにやわらかく差し込んでいる。
 やがて出遅れた目覚まし時計が、ピピと音を鳴らす。
 アラームを止め、私はベッドの上で身を起こした。
「はぁ……」
 スマホを手に取り、通知をチェックする。いつものように。
(よく寝たはずなのに、なんか疲れてる感じ)
 顔を洗うため、ユニットバスに足を踏み入れる。
 鏡の中には、見慣れた黒髪セミロングの私、上水流めぐるの姿があった。
(仕事の夢でも見てたとか? 全然覚えてないけど、やだなぁ)