寵姫は正妃の庇護を求む

 私が連れてこられたのは、テンセイの私室だった。

「ソウビ殿、ひとまずはこちらへ」
 歩く力を無くした私を抱えるようにしてテンセイは椅子まで移動させる。そしてゆっくりと、私をそこへ座らせた。
「……」
 腰を下ろしたものの、縦の姿勢に保つのすら苦痛だ。体から芯が抜けてしまったようだった。
「今、お茶を淹れましょう。固い椅子で申し訳ございませんが、おかけになってお待ちください」
 テンセイがティーカップに茶葉を入れ湯を注ぐ。やがてふわりと、かぐわしい香りが漂って来た。
「どうぞ、ソウビ殿。温まりますよ」
「……」
 私を気遣う、テンセイの低い声、優しい眼差し。
 それらが私の中に染み入った瞬間、感情が堰を切ったようにほとばしり出た。
「うっ、うっ、うぅ~~っ」
「ソウビ殿……」
 とめどなくあふれる涙を、もはやぬぐう元気もない。
「なんでよ、テンセイと幸せになりたかったのに。ヒナツに気に入られないように頑張ったのに。結局、悪夢じゃん……。また、傾国になって民衆に憎まれてテンセイに殺されエンドなんだ……」
「自分が、ソウビ殿を!? 何をおっしゃるのですか!」
「なるんだよ! 私、知ってるんだもん……」
 最推しが見ているにも拘らず、顔をきれいに保つことができない。私はしゃくりあげながら、ぐしゃぐしゃと泣き続ける。
「私はただ、テンセイと幸せになりたいだけなのに……。こんな酷い夢、早く覚めて……! うわぁあぁああぁん!」
「……」
 テンセイが、もう一つの椅子を私のすぐ側まで持ってくる。彼の清潔なハンカチが、私の顔に優しく触れた。
「ソウビ殿。お伺いしてよろしいでしょうか」
 せせらぎの音のように心を落ち着かせる、低く甘い声。
「ソウビ殿は自分のことを、いつからそんな風に思っておられたのですか?」
「……」
 私に向ける、金色の虹彩。慈愛に満ちたそれは、ハチミツのような優しい色合いだった。
「自分は長い間、ソウビ殿にとって形だけの婚約者とばかり思っておりました。ソウビ殿は自分といても、楽しそうには見えませんでしたので」
 テンセイは一度睫毛を伏せ、改めて私に向き直る。
「ソウビ殿、お聞かせ願えますでしょうか。ソウビ殿はいつから、自分のことを……」
 視界に入るだけで心臓が限界の動きをするほど、尊く愛しい最推しの姿。本当の気持ちを伝えるなんて畏れ多い。恥ずかしさよりも、うかつな言葉で汚してしまうのが怖い。
 けれど、もう彼とは一緒にいられなくなる。彼に、想いを伝えられるのはこれが最後なのだ。
 そう思うと、言葉は自然に心から溢れた。
「最初、からだよ」
「最初?」
「初めて見た時から!」
 乙女ゲーの情報サイトで発表された攻略キャラの集合絵。あの瞬間、目を奪われた。
「初めて動くテンセイを見た時から!」
 メーカーのSNS公式アカウントで公開されたプロモーションビデオ。表情とポーズが切り替わった瞬間、心臓が止まるかと思った。
「初めて声を聞いた時から!」
 公式サイトでキャラが公開された時、ドキドキしながらクリックした「Voice」のボタン。耳にした瞬間、声を押さえるのが大変なほどときめいた。
 私は悲鳴に近い声で、これまでの全ての想いをぶつける。
「ずっとテンセイのこと大好きだったよ!!」
「!」
 乙女ゲー情報サイトでプロジェクト始動の報を見た時の衝撃から、ゲームの中での彼との甘いひととき。それらが走馬灯のように脳裏を駆け巡る。言葉を尽くしても尽くしても、私の彼への想いを伝えきれない。
「なにを見ても、思い出すのはテンセイのことだったよ。つらい時も、テンセイのことを思い浮かべるだけで耐えられたよ。私の心のほとんどが、テンセイへの気持ちでいっぱいなんだよ」

「ソウビ殿! す、少しお待ちを!」
 不意に、テンセイが私の言葉を遮った。
(え……)
 テンセイは口元を手で覆い、こちらから顔を逸らしている。心なしか、頬がうっすら朱に染まっているように見えた。
「も、申し訳ございません、ソウビ殿。これほど直球に応えていただけるとは思っておらず、その、動揺しております」
 それは初めて聞く声だった。
 僅かに掠れ、裏返り、いつもの落ち着いた声よりもいくらかトーンの高い。ゲームの中では一度も耳にしたことのないテンセイの声。
「ふー……」
 やがてテンセイは大きく息をつくと、再びこちらをまっすぐに見た。目が艶やかに潤み、頬に赤みがさしているように見えるのは、錯覚だろうか。
「ソウビ殿、罰当たりなことを申し上げます。自分は今、喜びを感じております」
「っ!」
 テンセイの言葉に、頭の奥がシンと冷える。
「……婚約を解消になったことが?」
 泣き声のような私の問いかけに、テンセイは静かに首を横に振った。
「違います。貴女のお心に初めて触れられたこと、それが嬉しくてたまらないのです」
 その口元に、穏やかな笑みが浮かぶ。
「おかしな話です。長く、婚約者と言う立場でいながら自分は貴女を知らなかった。いや、知ろうとしなかった」
 テンセイの大きな厚い手が、まるで宝物に触れるように、そっと私の手へ重なる。
「王女として生まれた貴女がただ畏れ多くて、あなたに踏み込むのもはばかられて。なのに貴女はそれほどまでに熱い想いを抱いていてくれたのですね。こんな、まるで面白みのない男に」
「テンセイ……」
 テンセイが椅子から下り、床に跪く。そして恭しく、私の手を両手で包み込んだ。
「先日、宴席にあなたを案内するため手を取った、その時感じたのです。自分は、この人の愛らしさになぜこれまで気付かなかったのか、と」
 その瞳に、愁いが滲んだ。
「……あの時にはすでに、ヒナツ王があなたを欲していることを知っておりました。ゆえに自分は、自らの中に微かにともった炎を見ぬ振りいたしました」
 テンセイはもう一度目を伏せ、そして顔を引き締めると真っすぐに私を見上げた。
「ソウビ殿、自分は、あなたを愛しく思っております」
「っ! テンセ……!」
 心臓が止まるかと思った。まるで炎に触れたかのように、彼に包まれた手を引きそうになる。けれどテンセイはそれを逃さず、そこへ口づけを落とす。
「うっ!?」
「ソウビ殿、私は騎士です。貴女に永久(とこしえ)なる忠誠を誓いましょう。夫婦とは異なる形ですが、この身は生涯貴女だけのものです。この心も、この命も、全ては貴女と共にあります。それをお忘れなきよう」

「テンセイ……」
 私は今ここで死ぬのだろうか。ゲームの中の存在だった彼が、ただ、私だけに向けて愛を誓ってくれたのだ。そしてその愛は、なんて切なくきれいで哀しいのだろう。騎士道的恋愛(プラトニック・ラブ)、肉体的な欲求から離れ、精神だけで固く結ばれる愛……。
「テンセイ~っ!」
 私はテンセイの胸に飛び込み泣きじゃくる。私が落ち着くまで、彼はずっと私を抱きしめてくれていた。耳元で「愛しています」と繰り返し囁きながら。
 テンセイとの婚約解消から数日が経った。

「入るぞ、ソウビ」
 デリカシーのないノックの音と同時に、ヒナツは返事も待たずに部屋へと入ってくる。
 私が口をつぐみあからさまに迷惑そうな顔をしても、ヒナツは一向に気にしない。
 今日も、両手に抱えた山のような包みをどさりと床に下ろすと、得意げに全てを開封し始めた。
「ソウビ、お前のために色々持ってこさせたぞ! え~っと、こちらはドレスに、靴に、アクセサリーだ!」
 全てを開封し終えると、ヒナツは満足そうに大笑いをする。
「さぁ、どれがいい? どれも一級品の優れものだぞ! これらを身に着けた美しいお前を見せてくれ!」
「……ハァ」
 ストレスの塊が口から漏れ落ちる。
 最初こそ殺害されないため、ヒナツにある程度好かれなければまずいと考えた。しかし彼は、自分が王座に君臨するため、前王の娘であるソウビの存在が必要だと明言した。なら、よほどのことがない限り殺されることはないだろう。つまり、彼の機嫌を取る意味はなくなったのだ。

「ははは、今日も一瞥すらせんか」
 私が不機嫌を露わに目を背けても、ヒナツは一人勝手にはしゃいでいる。
「まぁいい、貢ぐというのは存外楽しいものだな」
 彼はベッドに座る私の隣に、どっかと腰を下ろす。その手には、繊細な細工の美しい靴が乗せられていた。
「お前のことをただ想いながら品を選ぶ、そのひとときの甘く愛しいことと言ったら」
「……」
 彼の言葉に、わずかに心が動く。ヒナツの中に、ソウビへの想いが少しはあるのだろうか。
 だが、彼を理解しようかと揺らいだ気持ちは、次の瞬間、冷や水をぶっかけられることとなった。
「ソウビよ、明日こそお前を満足させるものを用意しよう。なぁに、予算は潤沢にある。いやぁ、王にはなってみるもんだな!」
「は?」
 反射的に彼をふり返る。目が合った瞬間、ヒナツはにんまりと笑った。
「どうした、ソウビ? 俺からの貢ぎ物を受け取る気になったか?」
「予算は潤沢? まさかと思うけどこれ全部、国家予算で購入しているの?」
 私が口をきいたのが嬉しいのか、ヒナツはふんぞり返る。
「当然だ、俺は王だぞ? その身内に関する出費は予算に含まれるものだろう」
「アホなの!? やめて! そういうのは今回限りでやめて!!」
「さぁて、な」
 ヒナツの瞳に青白い光が宿る。
「それはお前次第だ。ソウビ」
「……!」

 ゾッと背筋が冷えた。
 私が全く望んでいないにもかかわらず、確実に傾国ルートに進んでいることに気づいたのだ。
 王になびかない愛妾と、気を引くため国家予算を湯水のように使う王。これはまさに、原作ゲームの中で語られていた二人の関係ではないか。
(まさかと思うけど、本編のソウビも今の私と同じだった可能性ない?)
 冷たい汗が頬を伝う。
(ただヒナツを拒絶していただけなのに、『王の気を引くためのわがまま』と解釈された可能性は?)

「どうした、ソウビ?」
 ヒナツは面白がるように、私の顔を覗き込んでくる。酷く無邪気な、からかうような表情で。
 けれど私には、それに構っている余裕はなかった。
(ヒナツの浪費をやめさせるには、気に入ったふりしてプレゼントを受け取るべき? でも、それはそれで調子に乗って、更なる高価なプレゼントを用意し始める可能性は? どうするのが正解なの!?)
 この物語の傾国となり、彼とともに民衆に殺害される未来しか、私にはないのだろうか。
「……チヨミには?」
 わななく唇から、私は何とか言葉を絞り出す。
「チヨミがどうした?」
「私へのものと同じだけ、チヨミにも贈り物をしたかと聞いてるの」
 チヨミの名を出した途端、ヒナツは白けた表情となった。
「いや? だがそれがどうした」
「とある国では、男は複数の女を持つことを許されるけど、贈り物は平等でなければならないそうよ。それが出来ない男は、カスだって」
 ヒナツが少しムッとした表情になる。けれどこちらも未来がかかっている。
「あなたがチヨミを大切にしてないのを見ると思うの。それはいずれ私がたどる道だと。今の地位に就くための立役者たる女一人すら大切に出来ない男なんて、信用できない」
「……」
 私の機嫌を取る目的でも構わない。ヒナツが少しでも今よりチヨミに関心を持ち、優しくなってくれれば、運命を変えられるのではと期待したのだ。
 寵姫に夢中のあまり国を傾けた愚かな王、そんなものにならずにいてくれるのではないかと。
 そしてもう一つ。私の言葉は気を惹くための言葉遊びなどではなく、本気で嫌がってるのだと気付いてほしくて。

 けれどその思惑もあっさりと裏切られてしまった。
「チヨミをやたらに意識しているな。ソウビ、ひょっとして嫉妬か?」
「!?」
(今の言葉のどこをどう受け止めれば、そんなお花畑な結論に至るのよ!!)
 言葉は届いているはずなのに、気持ちが伝わらない。
(やってられない!!)
 私はベッドから立ち上がり、扉へと向かう。
「ソウビ? どこへ行く?」
 私は彼の問いに答えることなく、部屋を後にした。

 ■□■

 大量の貢物が床を埋め尽くす部屋に一人残され、ヒナツは笑った。
「クク……。毛を逆立てて威嚇する猫のようだ。愛らしいものよ」
 そう言っておどける彼の瞳に、鋭利な憎悪が宿っていたことを、彼自身もまだ気づいていなかった。

 ■□■

 私は自室を飛び出すと、チヨミの部屋へと駆け込んだ。
「ソウビ? どうしたの?」
「チヨミ……」
『ガネダン』プレイ時は、私の分身でもあった存在、ゲームの中で最も長い時間共にいたキャラ。その心やすい雰囲気に触れた瞬間、張り詰めていたものが崩れ落ちた。
 私は彼女に駆け寄ると、その首に腕を回ししがみつく。
「ソウビ!?」
「チヨミ、どうしたらいい? ヒナツを受け容れるわけにはいかないし、拒絶しても喜ばせてしまう。私どうすればいい? わからないよ……!」
「……」
 チヨミの優しい匂いが鼻腔をかすめる。それは、母親に甘える幼子の気持ちを、私の中に喚起させた。じわ、と心が緩む。
(せっかくこの世界に来られたのに、頑張ってもテンセイと結ばれず、傾国からの殺害ルートしかないなんて!)
 鼻の奥がツンと沁みる。彼女の胸にすがって少し泣かせてもらおう、そんな考えが頭をよぎった時だった。

「何しに来たんだ、てめぇ」
 不機嫌な少年の声が飛んで来た。
「! タイサイ、いたの!?」
 私を怒鳴りつけたのは、濃紺の髪を持つ少年騎士。攻略キャラの1人であり、チヨミの義弟タイサイだった。
 タイサイはチヨミから私を引きはがすと、アイスブルーの瞳で鋭く睨んだ。
「ヒナツに愛され過ぎてアタクシ困ってますぅ、って? それは姉さんへの当てつけか?」
「タイサイ、やめて!」
 憎々しげに顔を歪ませる義弟の腕に触れ、チヨミは苦言を呈す。
「ソウビは前王のお姫様よ? それに王を呼び捨てなんて、不敬だわ。口の利き方に気を付けて」
「ふん、ヒナツは元々うちの使用人だ。それにこいつはそんなヒナツの情婦だろうが」
(なっ!)
「姉さんを苦しめるただの悪女だよ。優しくしてやる必要がどこにある!」
(くっ……)
 返す言葉もない。確かに、ヒナツを大切に想ってるチヨミに、さっきの言葉は無神経だったと言わざるを得ない。
 けれど、こっちだって命がかかっているのだ。未だ軌道修正の兆しは見えない、傾国ルートまっしぐらだ。弱音くらい吐かせてほしい。
 それに、本来攻略キャラである彼の思わぬ冷たい態度に、ちょっとカチンときた。
 ゲーム中はチヨミとして生きていたため、タイサイの素直じゃない言動はツンデレと称されるものだった。きつい物言いの中にも愛情がしっかり感じられる、それがタイサイだったわけだ。
 けれど今の私は悪役のソウビ。タイサイの冷たいセリフは、ツンデレではなくガチのもの。
 私にすれば、これまで自分を慕ってくれていたキャラがてのひらを返したようで、少々面白くなかった。

 冷ややかなアイスブルーの瞳を睨み返し、私は口を開く。
「……レ野郎」
「は?」
「このシスコンツンデレ野郎!! うっせぇんだよ!! ちょーっとガネダン人気投票で一位取ったからって調子乗んなコラァ!!」
 完全に鬱憤爆発の八つ当たりだ。
 私の突然の剣幕に、タイサイが目を丸くする。
「え? シス? ガネダ? 投票? 何?」
「ぬるま湯のような義弟の地位に甘んじてないで、とっととチヨミに告白でもなんでもしてしまえ!! バーカバーカ!」
「はぁああぁあああ!?」
 告白と言うワードを耳にした途端、タイサイの頬が分かりやすく真っ赤に染まった。
「ちょ、お前!! 何言って、ワケわかんな、はぁああぁああ!?」
「告白?」
 チヨミがタイサイの目をまっすぐに見据える。
「タイサイ、私に何か隠しごとをしているの? 良くないことじゃないでしょうね?」
「いや、ちがっ。おいソウビ、てめぇ!!」
「えぇ、実はコイツ、チヨミのこと」
「あーっ! あーっ! あーっ!!」
 存外素直な少年は、耳まで真っ赤にして私に掴みかかってくる。
「てめぇ、ソウビ、ふざけんなよ! マジぶっ飛ばすぞ!!」
 おぉ、ずいぶん強気に出るじゃないか。しかしあまりに分かりやすい反応に、つい面白くなってしまう。
「ぶっ飛ばされる前に、全部バラしちゃおうかな。チヨミの似顔絵こっそり描いて、それを枕の下に入れて寝てることとか」
「おまっ、なんっ、いつ……っ!! なんでそれ知ってんだぁああ!!」
『ガネダン』プレイヤーでタイサイルート攻略した人間なら、皆知っている。攻略に必須のイベントではないが、人気のエピソードだ。ゲーム発売からそれほど日は経っていないにもかかわらず、これをネタにした二次創作作品は多い。まだ彼のルートをプレイしていない私ですら、SNSで情報を得ている。いわゆる、受動喫煙と言うやつだ。

 挙動不審な義弟を心配し、チヨミがタイサイの顔を覗き込む。
「タイサイ?」
「なんでもないから! 姉さんには関係ないから!! ちょっとあっち行ってろよ!」
「……っ」
 タイサイの剣幕に、チヨミが胸を突かれた顔つきとなる。
「あ~あぁ、チヨミがしょんぼりしちゃった。可愛い弟が、自分に隠し事をするなんて、ショックだよね。チヨミ可哀相、タイサイのせいだ~」
「どう考えても、お前のせいだろうが!」
「これはもう、枕の下から愛情いっぱいの似顔絵引っ張り出して来て、チヨミに見せるしかないねっ♪ それで、大事だよって気持ち伝えよう?」
「てめぇ、マジ殺すぞ!!」
 パニックのあまり語彙力を無くしているタイサイに、私は悪役らしい笑みを浮かべる。
「口の利き方に気をつけな、少年」
「くっ……!」
 悔しそうに歯噛みするツンデレの姿に、多少は溜飲が下がった。
(はっはっは、こちとら中身はれっきとした社会人ぞ? 十代の少年なんて可愛いもんだわ)
 とはいえ、ちょっとやりすぎた気もする。少年のみずみずしい初恋をいじって面白がるなんて、大人がしてはいけないことだ。
 大声出してすっきりしたことだし、少しフォローを入れておこう、そんなことを考えた時だった。
「こいつ、本当に王家の姫君かよ。品性のかけらもねぇただのならず者じゃねぇか」
 ……なるほど? まだ闘志は死んでないようだな?
「枕の下」
「だーっ!! しつけぇんだよっ!!」
 しばらくこのネタで遊んでやろう、そう思った。

 ■□■

 控えめなノックの音が、謁見室の澄んだ空気を震わせる。
「入れ」
 ヒナツの言葉を受け、恭しく頭を下げ入室して来たのは大臣だった。
 しかつめらしい顔つきの中年男を前に、ヒナツは面倒くさそうに欠伸をした。
「王よ、少しよろしいですかな?」
「なんだ」
「ソウビ様のことにございます」
 ヒナツの頬がピクリと引き攣る。
「ソウビがどうした。俺はあれを諦める気はないぞ」
 ヒナツは王らしく、尊大に笑って見せる。
「王家とのつながりを示すに良い道具だと思っていたが、あの抵抗ぶり、反抗的なまなざし、面白くてたまらん」
 そう、自分はソウビに振り回されてなどいない。冷たくあしらわれることすら楽しんでいる。そうやって度量の大きさをことさらに示そうとした。
 だが、大臣の眉間には深いしわが刻まれたままだった。
「『簒奪王(さんだつおう)』と呼ばれているとしても、ですか?」
「なに?」
「王よ、あなたのあだ名です。巷では『簒奪王』と呼ばれているとか」
 ヒナツの顔から、笑みが消えた。
「簒奪!? 俺は前王を殺した奸臣を倒し、皆に望まれて王になったんだぞ? 前王から地位を奪ったわけではない!」
 並の者なら思わず震え平身低頭する、ヒナツの傲岸不遜な怒号。しかし大臣は怯まず言葉を続けた。
「ソウビ様の態度が一因とか」
「ソウビの?」
「前王の娘であるソウビ様が、ヒナツ王を拒絶している。これはヒナツ王が王座にあることを、王の血筋が認めていない。つまりヒナツ王は正当な後継者ではなく、その地位を簒奪したも同然ではないかと」
「……」
 ヒナツが玉座から立ち上がる。腰の剣を鞘から抜くと、それは光を跳ね返し鋭く光った。
 ヒナツの双眸(そうぼう)爛々(らんらん)とした憤怒の炎が宿る。
 悪鬼の表情で一歩、また一歩と階段を下りてくる王を前に、忠臣は気配を察し後ずさった。
「申し訳ございません! 出過ぎた真似をいたしました……!」
「下がれ」
 普段の朗々とした声ではない。
「この剣が、お前の頭と胴を生き別れにする前に去れ」
 ヒナツの声は地獄の底から響くような、昏く憎悪のこもったものだった。
「はっ、失礼いたします」
 慌てふためきながら部屋を飛び出していく大臣の背に、殺意に近いものを宿したヒナツの視線が刺さる。やがて扉が閉まると、ヒナツは忌々し気に舌打ちした。
「『簒奪王』か……」
 ヒュッと白刃が風を切る。
「盗賊の頭であれば気の利いた二つ名かもしれんが……、一国の王がこの名で呼ばれるのはまずいな」

 怒りに震える王はこの時、気付いていなかった。細く開いた扉のすき間から、ラベンダー色の髪を持つ少女が覗いていたことに。
「いやぁ、ソウビは今日も美しいな。笑う顔も見てみたいが、冷たい横顔でさえ彫像のように整っているのが素晴らしい。ははは、罪な女よ」
(また勝手に部屋に入って来た……)
 ヒナツはノックの後、いつも返事も待たずに入室する。私の意思を尊重する気など、はなからないのだ。訪れるタイミングも気まぐれなため、予測がつかなかった。
(チヨミの所に逃げたいけど、最近入り浸りすぎちゃったしなぁ……)
 部屋にいればヒナツが来る。なのでここ最近は、朝起きて食事と身支度を終えるとすぐに、チヨミの部屋に逃げ込んでいたのだ。
 さすがの図々しいヒナツも、妻の部屋から側室を連れ出すことはためらわれたのだろう。私にとって彼女の部屋はシェルターだった。

 けれど私が長時間チヨミを束縛したせいで、彼女の王妃としての仕事が溜まってしまったらしい。
(悪いことをしちゃったな。しばらく訪問は遠慮しよう……)
 勿論、この件についてタイサイからはめちゃくちゃキレられた。しかし、これは弁解のしようがない、反省。
(待てよ?)
 私は一つの案を思いつく。
(チヨミの仕事の手伝いをしに行けばいいんじゃないかな?)
 そうすれば私はここから逃げられる。チヨミは仕事が減る。
 WinWinの関係とも言えるのではなかろうか。
(よし! そうと決まれば……)
 この世界の王妃の仕事がどんなものかは知らないけれど、これでも私の本当の姿は会社勤めの社会人だ。
 口説き文句らしき言葉を並べているヒナツをそこへ残し、チヨミの部屋へ移動しようと立ち上がった時だった。
 ばたばたと慌ただしい足音が近づいてきたかと思うと、勢い良く扉が開いた。

「失礼いたします! 王、こちらにおられますか!?」
 甲冑を身に着けた兵士が、息せきって駆け込んできた。
「騒々しいぞ」
 不機嫌な声を上げるヒナツに、兵士はピッと背筋を伸ばし敬礼をする。
「はっ、失礼いたしました! しかし、急ぎお伝えせねばならないことが!」
「なんだ」
「カニス卿が反旗を翻し、ウツラフ村を占拠しております!」
(えっ!)
 兵士の口から飛び出した名称には、聞き覚えがあった。
(これは、ガネダンの第五章で起きたイベント!)

 ヒナツが王座に就いたことを快く思わない貴族たちによる反乱。
 王都に近い村を占拠し陣を張った彼らは、村人に対し高圧的な態度を取る。
 家や食料などを提供させられ、理不尽な命令をされる民たちが、ヒナツに助けを求めるイベントだ。
 庶民出身の王は自分たちの味方だと、民はヒナツに期待を寄せる。けれどヒナツはソウビに溺れ、この訴えを聞き流し放置。
 業を煮やしたチヨミが仲間を率いて討伐に向かうが、民はヒナツに失望してしまう。
 民に慕われて王となったヒナツは、この一件で民の信頼を失い、そして……。

(ソウビは国中の憎悪を集め、殺害される最期へとつながる!)

「いやぁあああ!!」
「ソウビ!? おい、貴様! ソウビが怯えてしまったではないか!!」
「も、申し訳ございません!」
 ヒナツは兵士を怒鳴りつけると、私を強引に抱きしめた。
「ソウビ、怯えずともよいぞ。カニス卿のことは知っているが、大したことが出来るやつではない」
 ヒナツの指が私の髪を梳く。耳元に彼の吐息がかかる。
「放っておいても民が自ら蜂起しやつを叩き出すだろう。お前は俺の腕の中でただ心安らかにその時を待っておれば……」
「そういうところだー!!」
 私は大声を上げ、ヒナツの腕を力づくで振りほどく。
(いや、ゲームでこのシーン見たけどね? 実際目の前でやられるとヒくね!?)
 王である彼が破滅すれば、寵姫の私も道連れなのだ。
「ヒナツ、今すぐ兵を出して! 民を守ってカニス卿を捕まえて!」
「その必要はない」
「なぜ!?」
 ヒナツは顎に手をやり、余裕の微笑を浮かべる。
「ウツラフ村の民は、奸臣フリャーカの軍を討つ際に戦力となってくれた心強い民だ。彼らは自分の力で解決できる。わざわざ兵を差し向けては、彼らの力を信用していないことになるぞ?」
「ちっがーう! 王が自分たちの村のことを気にかけてくれたという事実が大事なの! だから一刻も早く……」
「ははは、ソウビは聡明な女だが、荒事については分かっておらんな」
 ヒナツは困った子どもをあやすような目で私を見ている。
「だが、そこも可愛らしいぞ、ソウビ」
(完全に私を、世間知らずと見下してる目だ……!)
 ヒナツは私に向かって大きく両手を広げる。
「さぁ、我が腕の中へ来い、愛しきソウビよ。嵐が過ぎ去るまで抱きしめていてやろう。この世で最も安全な場所でお前を守ろう」
(ぶっ飛ばすぞ!)
 自分の立場に陶酔しきっている姿が、ひどく腹立たしい。

「王よ……」
 おずおずと口を開いた兵士に、ヒナツは冷淡な眼差しを向ける。
「まだいたのか。言ったとおりだ。放っておいてもあの村の民は自力で何とか出来る」
「しかし民は、王に救援を求めておりまして……」
「考えてみろ、今の俺は王だ。王に何かあれば、また国が荒れる。最前線で剣を振るうのは王の仕事じゃない」
 それはそうだ。王は最前線に立つべきではない。
「だけど、兵を派遣するくらい……」
 私の言葉を遮り、ヒナツは信じがたいセリフを口にした。
「それに兵を動かすにも金がかかる。そんな金があるなら、麗しのソウビをより一層美しく彩りたい」
(最悪かー!!)
 今のはどう考えても、私がヘイトを集める結果になるやつだ。兵士の口から国中に広まっちゃうやつだ。ふざけるな。
「……もういい」
「ソウビ?」
 声を震わせる私に、ヒナツは手を伸ばしてくるが、私はそれを振り払った。
(ここは原作ゲームの主役サイドに合流するしかない!)
 このままヒナツの側にい続ければ、間違いなく殺されてしまう。
「私、チヨミの所へ行ってくる! 」
「ソウビ!? なぜチヨミだ!?」
 説明するのも面倒くさい。どうせ何を言っても無駄なのだから。
 私は彼に何も告げず、部屋を飛び出した。

 ■□■

「あっ……」
 寵姫から袖にされた王から、伝令の兵士は気まずげに視線を逸らす。
「しっ、失礼いたします!」
 鬱憤をぶつけられる前に、兵士は再び敬礼をすると、その場から立ち去った。
「……ふん」
 王が愛妾からないがしろにされる姿を、目撃されてしまった。
「やはりこのままではまずい、か」
 前王の娘を側に置くことは、彼が王の地位にあり続けるのに必要だった。だが、王の威厳を損ない続ける女では、デメリットの方が多い。
「さて、どうしたものか……」
 その時、控えめなノックの音が耳に届いた。
「入れ」
 尊大な口調で答えると、扉が細く開く。ラベンダー色の髪を両サイドに高く結い上げた少女が、おずおずと顔をのぞかせた。
「ラニ?」
 そこにいたのは前王のもう一人の娘、ソウビの妹のラニ。ヒナツに名を呼ばれると彼女はぴょこんと入室し、ドレスの裾をつまみ愛らしくお辞儀をした。
「失礼いたします。ヒナツ王にお伝えしたいことがあり、思い切ってまいりました」
 ソウビとお揃いの菫色の瞳が、まっすぐにヒナツへ注がれていた。
「ヒナツがそんなことを……」
 伝令の内容とヒナツの対応を説明すると、チヨミは息を飲み、そして悲し気に睫毛を伏せた。
「――困った人」
「チヨミ、なんとかならないかな」
「そうね……。最高司令官たる王の命令なしで国の兵は動かせないから……」
 チヨミがキッと表情を引き締める。
「私が行くわ」
「チヨミ!」
 さすがはヒロイン! そして主役! 凛々しい! かっこいい!
「なにを考えてるんだ、姉さん!」
 濃紺の髪の少年騎士が、異を唱える。
「反乱軍のいる場所へ一人で乗り込む? 考えなしにもほどがある!」
 デレのこもったツンをぶつける義弟に、チヨミは悪戯っぽく微笑む。
「あなたも来てくれるよね、タイサイ」
「それは……。姉さんに何かあったら寝覚めが……」
 少年は薄く頬を染めプイッとそっぽを向く。
「アルボル家の名に傷がつくからな! 仕方なくだ!」
(きゃ~っ! 初々しいツンいただきました~!)
 大好きな義姉に頼られて、嬉しさを隠しきれない彼の様子に、口元がついほころぶ。
 だがタイサイは私の視線に気づくと、キッとねめつけて来た。
「おい、性悪! 姉さんに無理難題押し付けやがって! そんなに姉さんが目障りか!?」
 性悪って言われた……。
「押し付けるつもりはないよ。私も同行する」
「はあ!?」
 呆れ果てた様子で、タイサイは顔を歪める。
「バカか、お前! 温室育ちが戦場に出て一体何ができると言うんだ!」
「だって、押し付けるなって言うから」
「出来るんじゃない? 前王の血を引く姫様なら」
 割って入って来たのは、若葉色の髪の魔導士だった。
「ユーヅツ……。だ、だけどこいつは城の中で大切に育てられてきて、クーデターの時だってあっさり牢に放り込まれていた、戦場とは無縁の人間だぞ」
「王家の人間は、血統的に魔力が強いんだ」
 へぇ、そうなんだ。
「出来るんだよね、ソウビ?」
 急にユーヅツから話を振られ、私はきょとんとなる。
「なにが?」
「……」
 ユーヅツはにこやかな笑顔のまま固まる。
「……治癒魔法とか」
「まほ、う?」
 しばしの沈黙。
「えっ!? 魔法使えるの、私!?」
「ダメじゃねぇか!!」
 驚く私に、タイサイの鋭いツッコミが入った。
「つか、てめぇ、魔法使えねぇのについて来るとか言ってたのかよ! アホか!!」
「ぐっ……」
 いや、ほら、ゲームでは普通にあるじゃん? 主人公サイドは信じられない少人数で戦場に出たり、そこに一般人が混じっていたり。だから、大丈夫かなぁ、と。
「待って、タイサイ」
 チヨミが私の正面に立った。
「ちょっと私がソウビを見てみる」
「チヨミ?」
 チヨミは瞼を伏せて胸の前で手を組む。その体を、白い光が包んだ。
(きれい……)
 神々しい姿だった。まさに正統派ヒロインと言った風情だ。
 やがて彼女は静かに目を開くと声を上げた。
「これは……!」

 チヨミが組んでいた指をほどく。彼女を包んでいた光が消えた。
「すごいわ、ソウビ。貴女からかなり強い魔力を感じる。魔法は使えるはずよ」
「そうなんだ! すごい!」
 感嘆の声を上げた私に、遠慮のない言葉が飛んでくる。
「だから、なんでてめぇが驚いてんだよ!!」
「いや、だって魔法なんて使ったことないし」
「てめぇ、どんだけ甘やかされて育ったんだ……」
 その時、私の肩に手がかかった。
「? ユーヅツ?」
「チヨミ、タイサイ、君たち二人はテンセイと合流して出陣の準備をしていてくれる?」
 物静かな魔導士の瞳が、こちらを見た。
「ボクはその間に、ソウビが初級の治癒魔法を使えるように特訓しておくから」
 へ?
「わかった! 頼むね、ユーヅツ」
 説明はいらぬとばかりに、チヨミはさっさと部屋を出ていく。
「任せたぞ! 死なせない程度にな!」
 意味ありげな笑いを浮かべたタイサイも、チヨミの後を追った。
「うん。任せて」
「え? ちょっと?」
 にこやかに二人へ手を振る魔導士に私は戦慄を覚える。
「今、死なせない程度にって言ってたけど、どういう……」
「無駄口を叩いている暇はないよ、ソウビ。ことは一刻を争うんだ」
 静かで優しい口調。柔和な微笑み。けれどなぜか私の肌は粟立っていた。本能が危険を察していたのだろう。
「じゃ、特訓を開始するね」

 出陣の準備が整うまでの小一時間、私は彼から魔法の使い方を徹底的に叩き込まれることとなった。
 それはもう、情け容赦のないスパルタ式で。

 ■□■

 私たちは、救援の要請のあったウツラフ村へと向かっていた。
「ソウビ、大丈夫?」
 虚ろな目でフラフラ歩く私を、チヨミが気づかわし気に振り返る。
「ダイジョブデス……」
「心配はいらないよ、チヨミ。ソウビには元々魔力が充分にあった。やり方を教えたから初級の魔法をいくつか使えるくらいにはなったよ」
「ユーヅツ、私が心配しているの、そこじゃないんだけど……」
 ふと気配を感じて、目を向ける。
「……」
 タイサイと視線がぶつかったが、彼はすぐに目を逸らしてしまう。
(? なんだろ?)
 ふいに、大きな影が私に近づく。振り返るとそこにいたのはテンセイだった。
「ソウビ殿、足元がふらついておられます。自分が貴女を抱いて運びましょうか?」
(テンセイ!!)
 テンセイが私を抱いて運んでくれる? お姫様抱っこ? それはぜひともお願いしたい!
 だけど……。
「気持ちはすごく嬉しいけど、テンセイにはこの村で活躍してもらわなきゃいけないから」
 限界ヲタクの私でもさすがに空気は読む。この状況は理解しているつもりだ。
「それにこれ、一時的に集中しすぎて、頭の中が真っ白になってるだけ。だから大丈夫」
「それならばよろしいのですが」
「……マジか。あの短時間で魔法使えるようになったのかよ、コイツ」
「? タイサイ、何か言った?」
「なんもねーよ、話しかけんな」

 やがて私たちはウツラフ村の入口へと差し掛かる。そこへ出迎えるように立っていたのは、反乱の首謀者カニス卿とその追随者たちだった。

「これはこれは、簒奪王の一味ではないですか」
 豪奢な服を身に着けた老人が、蔑みの目をこちらへ向ける。
「カニス卿。これは一体どういうことですか?」
 戦装束に身を包んだチヨミが、怯むことなく一歩前へ出る。
「挙兵するだけならまだしも、ウツラフ村の人々に迷惑をかけるのはやめなさい!」
 凛としながらも慈しみを感じさせる、チヨミの声。
「あなたたちが一方的にここを拠点と定めたため、村人が疲弊(ひへい)していると聞きました。速攻、ここから立ち去りなさい! 今、矛を納めれば、今回のことは……」
 だがチヨミの声を遮り、老人は吐き捨てるように言う。
「黙れ、アルボルの娘! 直接私に口をきける立場だと思っているのですか!?」
 老人の剣幕に息を飲むチヨミ。だがそこは彼女を愛する義弟が黙っていなかった。
「てめぇ! 姉さんは今や王の妃だ! てめぇこそ何様のつもりだ!」
 タイサイの啖呵を、カニス卿は鼻で嗤う。
「はて? 王の妃?」
 カニス卿はわざとらしく目の上に手をかざし、私たちをゆっくりと見回した。
「私の前には、卑しい身分でありながら王座を奪った男の、みすぼらしい女房がいるだけで……」
 カニス卿の目が私のところで止まった。
「え?」
「ん?」
 老人のニヤついた笑いが凍り付き、その嫌味な仕草が崩れる。
 そして。
「ソ、ソウビ様ぁあああ!?」
「ぇあ!? は、はい!」
 私と目が合った途端、カニス卿は明らかに動揺し、側にいる者たちと何やら相談をし始めた。
「え? 何? なんか私を見てびっくりしたみたいだけど」
「恐らくですが」
 テンセイが身をかがめ、私の耳元で囁く。
「カニス卿のこの反乱における大義名分は、前王への忠誠です」
 ふむ。
「ところが前王のご息女である貴女が、こうして反乱の鎮圧軍に加わってしまった」
 おぉ。
「我々と戦えば、貴女に弓を引くことになる。そうなれば、あちらの大義名分は揺らいでしまう。それでどうすべきか困っているのではないかと」
 なるほど。
 こちらと戦って困ることになるのなら、とっとと矛を収めて帰ってくれないかな。そんなことを考えていた時だった。
 カニス卿が愛想笑いをべったりと顔に貼り付け、私に語りかけて来た。
「そ、ソウビ様? なぜあなた様ともあろうお方が、そのような卑しい者どもと共におられるのですか?」
 すごい、リアルに揉み手をしてる人、初めて見た。
「どうぞこちらにおいで下さい。我々はあなた様と戦う気など毛頭ございません。私どもはあなた様に本来の立場である女王の座に戻っていただきたく、行動を起こしたに過ぎないのです」

「私を女王に?」
「えぇ、さようにございます」
(あれ?)
 原作の流れとは変わってしまうけれど。
(じゃあ、彼に従えば、私は傾国からの殺害ルートを逃れられるってこと?)
 これまでずっと私を悩ませていた、数ヶ月後に殺される過酷な運命。この老人の手を取るだけで、それから解放される。そう思うと心が揺れた。
「さぁ、ソウビ様」
 カニス卿は猫なで声で、ニッタリと私に笑いかけてくる。提案はかなり魅力的だが、この笑い方はどうにも信用できない。
「カニス卿、ひとつ聞いてもいい?」
「えぇ、ソウビ様の仰せであれば、なんなりと」
「もし私があなたの保護の下、女王になることを受け入れたら」
 私が一歩前に出ると、カニス卿は嬉しそうに目を細めた。
「テンセイはどうなるの?」
「へ?」
「……」
 私の質問に、カニス卿は笑顔のまま固まる。テンセイも戸惑ったように私を見た。
「テンセイ、ですか。近衛騎士団長の?」
「そう」
「ま、まぁ、簒奪王の一味ですから極刑は免れないかと」
(簒奪王の一味……、極刑……)
 私は更に一歩、彼に近づく。
「それって、チヨミも?」
 私が自分の側へ来ると思ったのか、カニス卿の両口端が大きく吊り上がった。
 一歩また一歩とカニス卿に近づく私を、皆は固唾を飲んで見守っている。カニス卿は、私が城で不当な扱いを受けているとでも思ったのだろう。
「えぇ、えぇ。そこにいる不届き者どもは全員そうなりましょうね」
 相好を崩し、私に向かって恭しく手を差し伸べてくる。
 けれど私はその鼻先で、くるりと裾を翻し背を向けた。
「じゃ、あなたには従えない」
「は!?」

 私は靴音を立てながら、元の位置へと戻る。そしてチヨミの手を取った。
「彼らは私の大切な仲間だから。極刑と聞いて、あなたと手を組むわけにはいかない」
「ソウビ……!」
 チヨミの指が私の指と絡み、しっかりと結び合う。私たちは顔を見合わせ微笑み合った。
「お、お待ちください!」
 カニス卿が慌てた様子で声を上げる。
「ソウビ様! 貴女は本来の地位に戻れるのですよ!? 私どもと組めば、あんな下賤の者の愛妾などと、いいようにされなくて済むのですよ!?」
 ぐっ、ちょっと揺らぐな、それは。殺害ルートも免れるし。
 だけど……。
「テンセイや大切な仲間の身柄と引き換えに手に入れたいものじゃない」
「ちょちょ、ちょーっとお待ちを!!」
 狼狽した様子で、カニス卿は背後に並ぶ貴族仲間とまた何やら相談を始める。やや経って、彼はぎこちない笑顔をこちらへと向けた。
「わかりました、ソウビ様のお仲間につきましては不問と言うことで!」
「……そんな簡単に?」
「勿論ですとも!」
 カニス卿が大袈裟なほど首を縦に振る。
「我々は前王への厚い忠誠を今も胸に抱いております。その血を引くソウビ様のお言葉にはただ従うのみ!」
「チヨミをぞんざいに扱うのもやめてくれる? 大切な友達なの」
「ははーっ! それがソウビ様のお望みであれば!」
「そう……」
 つまりだ。
 彼らと組めば、地位をいいことにやりたい放題のヒナツを、王座から下ろすことができる。
 更に私が女王となれば、夫としてテンセイを指名できるのではなかろうか。
(あれ? 問題は全て解決? これってチャンスなのでは!?)
「えっと、じゃあ……」
 あなたたちと手を組んでもいい。そう答えようとした時だった。
「キャアアァアアッ!!」
 絹を裂くような悲鳴が聞こえてきた。

「え? なに?」
 扉が音を立てて開き、一軒の家から若い村娘が飛び出してくる。時を置かず兵士が姿を現し、娘の襟首を乱暴に掴んだ。
「いやです! 離してください!」
 もがく村娘を乱暴にかき抱き、その抵抗さえ面白がるように兵士は笑う。
「話し相手になれと言っているだけだろう! 貴族の俺が下賤な女に興味を持つと思うか? うぬぼれるな!」
「話し相手なんてウソです! そう言って私の友人を傷つけたくせに!」
「いいからこっちへ来い!」
「お、おい! 馬鹿者! やめんか!」
 カニス卿が悲鳴に近い声を上げた。兵士がこちらへ顔を向け、きょとんとなる。
「あれ? 伯父さん。そんなところで何を……」
「いいからその娘から手を離せ! お前もこっちに来い!」
 焦るカニス卿に、チヨミは冷ややかに問いかける。
「カニス卿、あれはなんですか」
「だ、黙れ! お前には……!」
 チヨミを怒鳴ろうとして振り返り、傍らに立つ私と目が合う。カニス卿が蒼ざめた顔に引き攣った笑いを貼り付けた。
「いや、あれは……、はは……」
 勢いを無くしたカニス卿をチヨミは問い詰める。
「占領した貴族が、民に狼藉を働いているというのは本当だったのですね」
「いや、まさかそんな! 村の者たちも我々の高い志をくみ取ってくれて、大変協力的でして……」

 その時、遠巻きに様子を見守っていた村人たちが、ぞろぞろと物陰から出てきた。
「ウソをつくな!!」
「これ以上、女たちに手を出すな! 食料を奪うな!」
「出ていけ貴族ども!!」
 拳を振り上げ、村人たちは口々に怒声を上げる。
「~~~~っ!」
 思わぬ反撃にギリギリと歯噛みしていたカニス卿が、私に向かって愛想笑いを浮かべる。
「ソ、ソウビ様! 違うのです、これは何かの間違いで……」
(いや、完全にアウトだろ)
 呆れて黙りこむ私を見て、これ以上誤魔化せないと察したのだろう。カニス卿の顔が、醜く歪んだ。
「くっ! 兵士ども! 簒奪王の一味の襲撃だ! かかれ!!」
(キレた!?)
 一瞬にして辺りは剣呑(けんのん)な雰囲気に包まれる。
 すかさず私の前に、三つの影が躍り出た。
「ソウビ殿、どうぞお下がりください! ここは自分たちにお任せを!」
「どけ、邪魔だ、足手まとい! その辺に隠れてろ!」
「ソウビ、怪我人が出たら手当をお願いするよ。無理に戦おうとしないで。攻撃するのは身を守る時だけでいい」
「わかった!」
 当たり前のように守ってくれる攻略キャラ3人に、少し胸が躍る。
(あ、でも、正規ヒロインのチヨミを守らなくていいのかな?)
 当のチヨミはと言えば堂々としたもので、細身の剣を手にし、襲い来る反乱軍の正面にすっくと立っている。
「私たちも大切な民を斬り捨てたくはありません! 降伏を望む者は前に出てこないで!」
 反乱軍の中にざわめきが広がる。
「この村での狼藉については、相応の罰を受けてもらいます。が、反乱への参加自体については、家同士の繫がりで断り切れなかったなど、やむを得ない事情があったとみなしましょう!」
(うおお、チヨミ凛々しい!!)

 カニス率いる軍と、チヨミをリーダーとした私兵がついにぶつかり合った。
 私は怪我人の治療をしながら、その様子に目を凝らす。
「せあっ! ハァッ!」
 テンセイが大剣をひと振りするごとに、敵はあっさりと吹っ飛んでいく。重い一撃であるにもかかわらず、次の一撃へと移るスピードはとても速い。
(さすが近衛騎士団長のテンセイ、強い! かっこよすぎる!)
 その姿は、まさに戦場を駆ける鬼。普段の穏やかな彼からは想像しがたい、荒ぶる獣の姿。布越しに伝わる筋肉のうねりなどまさに芸術品だ。

 重量級のテンセイと対照的なのが、俊敏な動きで敵を翻弄するタイサイだった。
「はぁっ!」
 スピード感のあるシャープな動き。
(さすが、人気投票一位は伊達じゃない!)
 身軽な動きで敵の間をすり抜け、確実に仕留めていく。まだ少年らしい細身の体が、忍者のように軽やかに動く。

 少し下がった位置から遠距離攻撃を放つのは、魔導士のユーヅツだ。
「ふっ!」
 彼の魔法はなにげにエグい。国内随一の魔力を誇る彼の攻撃は、火力が他の者とは段違いだ。その技でもって、大勢を一瞬にして吹き飛ばしてしまう。彼一人で、魔導士部隊一つ分だと言われるのも大袈裟ではないようだ。

(しかし、ゲームでは見慣れた光景だけど、王妃自ら家臣数人と反乱軍に立ち向かうなんてかなり危ういなぁ)
 物陰に身を潜め、仲間の戦う様子を眺めながら、そんなことを思っていた時だった。
「ソウビ様」
 背後から投げかけられたしわがれ声に飛びあがる。
「カニス卿、いつの間に!!」
 枯れ枝のような老人の手は思いの外力強く、私は背後からガッチリと捕らえられてしまう。魔法を発動させることも出来なかった。
「は、放して!」
「いいえ、それはなりません。ソウビ様には我らの元へ来ていただきます。我らが前王の遺志を継ぐ忠臣であることの証として!」
(は!?)
 その言葉にカチンときた。
 ヒナツは私を、王家につながるものの証として欲しがっている。
 そしてこの人は、前王の遺志を継ぐ者の証として、私を欲しているのだ。
「結局あんたたちも、ヒナツと同じってことね」
 老人が眉をつり上げた。
「我々をあの盗人と同列とおっしゃるか!? それは侮辱にございますぞ、ソウビ様! さぁ、駄々をこねずこちらへ!」
「くっ、離して……!」
 その時だった。
 ガッという鈍い音の後、私を縛めていた枯れ枝のような指から力が抜ける。
「カハッ……」
(え……?)
 どさりという音を立て、老人がその場に倒れ伏す。そこに立っていたのは、剣を携えたヒナツだった。
「……ふん」

「ヒナツ!?」
 私の声に、村人や鎮圧軍の兵士たちが歓喜の声を上げる。
「おおおー! ヒナツ王だ!!」
「我らと共に剣を振るう者、ヒナツ王が来られたぞー!!」
 生ける軍神の登場で、人々の顔は希望に輝いた。
「ヒナツ、来てくれたんだ……」
「……」
 ヒナツは私を一瞥すると、一言も発せず横をすり抜ける。
(ヒナツ?)
 彼の視線の先では、チヨミが壁際に追いつめられ、敵兵士からの攻撃を細身の剣で必死に凌いでいた。
「くっ、う……!」
「あっ、チヨミ!!」
 ヒナツの立てる靴音が、歩みから早足へ、そして駆けるものへと変わる。
「どけ!!」
 雄々しい怒号と共に、ヒナツは夜走獣のごとき身軽さで人々の間をすり抜ける。あっという間にチヨミの元へ駆けつけると、彼女を襲う敵兵を真っ二つにした。
「怪我はないか、チヨミ」
「え、えぇ。ありがとう、ヒナツ」
 ヒナツはチヨミの手を引き助け起こす。そして立ち並ぶ敵兵をジロリとねめつけた。

「あ、あぁ……」
 返り血に身を染めたヒナツのひと睨み。それは敵対してはならない相手であることを、知らしめるに十分だった。
 反乱軍の兵士たちはすっかり戦意を失い、及び腰となる。
「なにをしている!」
 カニス卿に賛同した貴族の1人が、叱咤の声を上げた。
「奴さえ倒せば、王座を本来の持ち主に返すことが出来るのだぞ! むしろ、好都合ではないか! こちらは数の上では圧倒的なのだぞ!!」
 貴族はサディスティックな笑みを浮かべる。目障りな成り上がり者が、血反吐を吐いてぼろ雑巾のようにされる未来を夢想したのだろう。
「行け! 兵士ども! 囲んで切り刻んでやれ!!」
「お……おぉおおおおお!!」
 一度失いかけた戦意を奮い起こし、兵士たちが一斉にヒナツに躍りかかる。
 けれど。
「ぉらぁああああっ!!」
 ヒナツの動きは人間業とは思えないものだった。舞のように地を蹴りつけ剣を振るい、確実に敵の数を減らしてゆく。その身を濡らす血は全て、敵のものだ。
(強い……!)
 私には武術に関する知識などまるでない。それでも彼が、途方もなく強いことだけは理解できた。
「俺が王であることに不満のあるやつ……」
 燃えるような赤毛に赤い戦装束、そして全身を濡らす返り血。
 その中で、にやりと笑った口元だけが眩しいほどに白い。
「出てこい! 俺はここだ! 俺の首はここだ!! 来てやったぞ!!」
 轟く声は獣の咆哮。その圧倒的な存在感を前に、抵抗しようなどと考える者は、もはや誰もいなかった。

「ひ、ひいいぃいい!!」
 貴族たちが泡を食って逃げ出す。自分たちを率いていたはずの人間の情けない背中。それを見た瞬間、兵士たちは敗北を悟った。
「逃げろ! 殺される!!」
「バケモノだ! あいつは人間じゃない!!」
「どけ! うわぁあああ!!」
 一斉に村から脱出しようとする兵士たちに、農具を持った村人たちが襲い掛かる。
「逃がすか!! こんちくしょうが!」
「我らもヒナツ王と共に!!」
 追いすがる村人たちを振り払おうと、兵士たちも逃げながら武器を振り回す。
「民を守るぞ! 投降した人間もだ!」
 テンセイの声に、鎮圧軍は頷く。
「姉さん、視界に入ると気が散るから隠れてて」
「心配してくれてるんだ。タイサイ、ありがとう」
「みんな、攻撃力を上げるよ、はぁあっ!」
 ユーヅツのスペック上昇の魔法を浴びた者たちが、気勢を上げて敵を追う。
 もみくちゃの乱戦の中、緋色の軍神がまっすぐに駆けていく。反乱軍の扇動者たちに向かって。
「おらぁあああっ!!」
 不謹慎にも、彼を美しいと思ってしまった。
 ヒナツの姿は、敵を焼き尽くす炎そのものだった。
(やっぱり、民衆に望まれて王の座に就いただけのことはあるんだ)
 少しだけ、胸が高鳴っている。これは初めて目の当たりにした戦のせいだろうか。
(嵐のような圧倒的な強さ……)
 ヒナツの剣を振るう姿が、いまだ目に焼き付いている。
(ただの色ボケじゃないんだ)
 一刻の後、反乱は完全に鎮圧されていた。
「抵抗する者はもうおらんな」
 シュラと音を立て、ヒナツが鞘に剣を収める。そんな彼にテンセイがすかさず駆け寄り、報告をした。
「はっ。首謀者のカニス卿、そして共謀者のフィデリスは捕らえておきました」
「よし」
 ヒナツは王らしく重々しく頷く。
 しかしすぐに村人たちを振り返ると、彼は歯を見せて人懐こく笑った。
「ははっ、やはり自ら剣を振るうのは気持ちが良い! 俺にはこういうのが性に合う!」
「ヒナツ……!」
 血まみれのヒナツにチヨミが駆け寄る。頬に残った返り血を、白い指がぬぐった。
「ヒナツ王、ばんざーい!!」
「我らが軍神! ヒナツ様!!」
 村人たちが満面の笑みでヒナツを讃えている。それぞれの瞳にあふれんばかりの敬意を宿して。
(ちょっとだけ、見直したかな)

 ほっと息をつく。そして大切なことに気づいた。
(あれ? 村人が喜んでるよね?)
 本来の流れであれば、ここで村人の心はヒナツから離れるはずだった。
 だけど今日ヒナツは戦場へ駆けつけ、彼らの尊敬をしっかりと集めた。
(てことは! もしかして国が亡ぶルート回避した!? 傾国ルートから逸れたんじゃない!?)
 希望が見えてきた。
 ひょっとすると、他にも軌道修正が可能になるのではないだろうか。
 期待に胸を躍らせる私は、視線に気づき顔を上げる。
「……」
(え? ヒナツがこっちを見てる)
 ヒナツは不敵に口端を上げる。
「どうだ、ちゃんと見ておったか? 俺の雄々しい姿を!」
 ずかずかと大股でこちらへ歩み寄ってくる。
「惚れ直したか! ははははは!」
(うわぁ、調子乗ってる)
 そう思ったものの、いつものような嫌悪感は私の中にない。
(チヨミのこともちゃんと助けてたし、今回ばかりはほめてあげてもいいかな)
 そう思い口を開きかけた時だった。
 私の後ろから、幼い声が聞こえてきた。
「えぇ、大変素晴らしゅうございましたわ、ヒナツ様」
(えっ?)
 振り返る。
 ラベンダー色の髪を両サイドで高く結い上げた少女が、そこに立っていた。
「ラニ!? どうしてここへ……!」

 ラニは私を無視して、ヒナツへと駆け寄る。
 そして彼の手をそっと両手で包むと、愛しそうにそこへ口づけをした。
「ヒナツ様は、まるでサーガに出てくる英雄のよう。私、胸の高まりが抑えられませんでした」
「はははは、愛いやつよ! 」
 ヒナツは笑うと、ラニを高く抱き上げる。
「さて、城へ戻るぞラニ。お前の目に俺がどう映ったか、たっぷりと聞かせてくれ」
「えぇ、わが敬愛なる君」
 ヒナツはこちらを一瞥だにせず、ラニを抱いて帰路に就く。雄々しくマントをひらめかせながら。
「ソウビ、あれはいったい?」
 困惑した面持ちで、チヨミが駆け寄ってきた。
「わからない……」

■□■

 その夜、王の私室からは(いさか)いの声が聞こえてきた。
「ラニを側室にする!?」
 非難めいた正妃の言葉を、ベッドに横たわるヒナツは薄笑いを浮かべて聞き流す。
「何を考えているの、ヒナツ! あの子はまだ幼い子どもだわ!! そんなことが民に知れれば、きっとあなたは信頼を失う! お願いだから、絶対にやめて!」
「確かに今のラニはまだ幼い。だが5年もすればソウビと同じ年齢になる」
「ヒナツ!」
 ヒナツは面倒くさそうに欠伸を返す。
「別に今すぐ愛妾にするわけじゃない。俺にそんな趣味はないからな。大人になるまでゆっくり待つさ」
 少女の一途な眼差しを思い出し、王はクスクスと笑う。
「ラニは俺を深く慕っているようでな。潤んだ瞳で想いを打ち明けてきた。クク、可愛いではないか」
「ヒナツ、お願いだから……」
「俺は、前王の血を引く女であればソウビでなくとも構わない」
「!」
 ふいにヒナツの声から温度が失われた。
「ソウビが俺を嫌っているのに気づいていないと思ったか? あやつは俺を成り上がり者と 見下しているのだ」
 ヒナツの瞳に、白々とした炎が宿る。
「あの気位の高さは刺激的であったが、いささか鼻についてきた」
 破顔一笑、ヒナツは目を細める。
「それに比べ素直に愛情を示すラニの愛しいこと」
「ヒナツ!」
 妻として、共に奸臣を討った時の仲間として、チヨミは飾らぬ気持ちをヒナツに伝える。
「いい加減にしないと怒るよ!!」
 だがその瞬間、ヒナツの顔から笑みが消えた。
「怒る?」
 のっそりとベッドから身を起こし、ヒナツは鋭い視線をチヨミに送る。
「何様のつもりだ、王に向かって!!」
「ヒナツ……?」
 それはいつものヒナツではなかった。
 チヨミに向ける眼差しは、敵を見る時のそれに近かった。
 チヨミの背筋に冷たいものが走る。
「ソウビだけでなく、お前もそうか。俺を卑しい男と侮っているのだな」
「ヒナツ!? 私はただ……!」

「あぁ、そうだ。俺はお前の家の使用人だった男だ」
 憎悪の色を濃く瞳に宿しながら、ヒナツは自虐的に笑う。
「盗賊に襲われたお前を守った手柄でお前の父親に気に入られ、お前と身分を手に入れただけのただの野良犬。……お前の目には、今もそう映っているのだろうな」
「違う! どうして私がそんなことを……!」
「黙れ!!」
 ヒナツの怒鳴り声に、チヨミは身をすくめる。
 ヒナツはベッドから滑り降りると、室内をぐるぐると歩き始めた。
「俺はもう見下されるのはごめんだ。俺を王位につけてやったのは自分だと、お前に恩を着せられるのもまっぴらだ!」
「ヒナツ!? 私、そんなことちっとも……!」
「お前の策が俺に勝利をもたらせたとソウビが知っていた」
「えっ……」
「それを知る者は、きっと他にもいるのだろう」
 ヒナツの声が震えた。
「お前がそばにいる限り、俺は女の力で地位を得たという(そし)りから逃れられない」
「ヒナツ……」
 ヒナツがチヨミを振り返る。その目は冷たく凍てついていた。
「俺を解放しろ、チヨミ。俺の前から消えてくれ」

 夕食後、私はラニの部屋へ訪れた。
 妹の部屋は、深い青色を基調としたもので統一されていた。
「ラニ、ヒナツのものになるって本気で言ってるの?」
 私の質問に、まだ幼い少女はこともなげに返事をする。
「えぇ、そうよお姉さま。私、あの男の妻になるわ」
「あんな色ボケ男やめたほうがいいって!」
 ラニの両肩を掴む。手の下にあったのは、まだ子どもらしい華奢な骨格だった。
「だいたい、ラニみたいな少女に手を出す時点で人として問題が……」
 こちらの言葉が終わらぬうちに、ラニは私の手を払いのけ、金切り声を上げた。
「お姉さまは何もわかってないのよ! 私が牢を出てからどんな思いをしてきたか!」
「ラニ?」

「あの男がお姉さまに気に入られようと、あれこれしていたことは私の耳にも届いているわ。お姉さまが、それを全てをはねつけていたことも! 私がそのたびに、どれだけ身の縮む思いをしていたか、お姉さまに分かる!?」
(え……)
 ラニはあどけない両肩を、自分の手でそっと包む。そしてぶるっと一つ身震いをした。
「お姉さまが不興を買って、あの王に斬られるようなことがあれば、私だって無事でいられない。またドレスを取り上げられ、地下牢に押し込められ、処刑に怯える日が来るんじゃないかって……」
 涙に潤んだ瞳が、キッと私を見据える。
「私、ずっと恐怖に震えていたのよ!?」
(あ……)
「だからね、私、もうお姉さまの力に頼らないことに決めたの。自分の命は自分で守ろうって」
 自分の行動がここまで一人の幼い少女を追いつめていたことなど、考えもしなかった。
 だけど彼女の判断を肯定するわけにはいかない。
「それが、ヒナツの愛妾になるってことなの? ラニ、愛妾って何をするのかわかってるの!?」
 私の言葉に、ラニは下唇を噛み、うつむく。
「……だいたいはね」
「だったら、そんなことは……!」
「殺されるよりましよ!!」
「……っ」
 それはこれまで聞いた中で、最も悲痛な声だった。
 言葉を失った私に、ラニが冷たく笑う。
「お姉さま、私上手くやるわ。あの卑しい野蛮人に媚びを売ってでも、生き延びて見せる」
 まだ幼さを残す少女の顔立ち。双眸だけが大人の諦めに染まっていた。
「……だから、もうヒナツに手を出さないでね。お姉さま」

■□■

 城の皆が寝静まったころ、私はヒナツの部屋へと向かった。
 そっと扉を叩くと、すぐにヒナツの声が返ってきた。
「入れ」
 私は部屋に入る。
 ヒナツはベッドに腰かけ、剣の柄に手をかけていた。
「ソウビか、何の用だ」
 暗がりの中で光るヒナツの目にゾッとなる。
 それはこれまで私に見せたことのない、ひどく冷たいものだった。
 彼の瞳と手にした剣に動揺しながらも、私は覚悟を決めて口を開く。
「ラニに……、妹に手を出さないで……」
「手を出す? これはとんだ誤解だ」
 ヒナツがせせら笑う。
「ラニは自ら望んで、俺の腕の中へと飛び込んできたのだぞ?」
(それは知っている。ラニの口から直接聞いたから……)
 私がうつむくと、ヒナツは剣を近くの壁に立てかけた。
「安心しろ、ソウビ。少なくともあと5年はなにもせん。さすがにあの幼顔にそんな気は微塵も起きん」
「だけど、それでも……っ」
 たった13歳の少女が、命を繋ぐために身を投げ出そうとしている。それを見過ごしにはできなかった。
「ヒナツ、やめてあげて……」
「……」
 みしりと、床のきしむ音がした。大きな影が私を覆う。見上げれば目の前にヒナツが立っていた。
「ならばソウビよ、今、俺を請え」
「請う?」
 乱暴に顎を掴まれ、しっかりと上を向かされる。爛々と光る凶暴な瞳が私を見下ろしていた。
「あぁ、そうだ。許しを請え、愛を請え、俺を請え!! ラニが自分を妻にするよう、俺に熱く激しく迫ったように」
「……っ」
「ラニは愛らしかったぞ。俺の足元に身を投げ出し、頬を染め、目を潤ませすがるように小さな手を俺に差し出した」
 ヒナツはうっとりと目を細める。
「初めてだ、あんなに懸命なまなざしで求められたのは……」
(ヒナツ……)
 ヒナツが再び私に目を向ける。その中に愛情らしきものは一かけらも見当たらない。
「お前もやって見せろ、ソウビ。ラニの純粋でまっすぐな求愛をうち消すほどにな。俺を満足させられたなら、ラニのことは忘れお前だけを愛すると約束しよう」
「くっ……」
「どうした、ソウビ?」
 獲物をいたぶるようなヒナツの言動に、胸の奥がギリギリと痛む。

(まだ幼いラニが、この男の毒牙にかかるのはいやだ)
(だけどヒナツの手を取れば、私はやがて国を滅ぼした悪女として殺される)
(それに私が好きなのは、テンセイだけ……!!)
 知らず涙があふれ、頬を伝う。
(テンセイ以外に触れられるのは、いやだ……!)

「……。たった1人の妹への愛情よりも俺への嫌悪が勝るか」
「っ! 違う! ただ、私は……!」
「もういい」
 飽きたおもちゃを放り出すように、彼は私から手を離す。
「でもヒナツ、ラニはまだ……!」
「不愉快だ! 今すぐここから出ていけ!!」
「っ!」
「二度とその面を見せるな!!」
「……っ」
 その剣幕に飲まれ、言葉は喉の奥で止まってしまった。

■□■

 ヒナツの部屋を後にした私は、無力感に苛まれながらただ天井を仰ぐ。
(私はどうすべきだったの……?)
 痛む胸を、拳で押さえつける。
(ラニ……!)

■□■

 ソウビが立ち去ったのを見計らい、ラニはヒナツの部屋を訪問した。
「ずいぶんな大声でしたのね。私の部屋まで聞こえてきましてよ」
「あぁ、起こしてしまったか。すまんな」
 ベッドに仰向けになり天蓋を睨むヒナツの側に、少女はそっと近づき、そのマットに頬杖をつく。
「いいえ、ヒナツ様のことを考えていたら、胸苦しくて眠れませんでしたから」
「ラニ……」
 苦労を重ねた傷だらけの手が、ラニの頬に優しく触れる。
「ラニ、お前だけだ。俺に一途な愛を注いでくれるのは」
 王の手が、ラベンダー色の髪をそっとすくう。
「下賤の者よと見下す目にはもううんざりだ。見返りを求め媚びる目にも吐き気がする」
 ヒナツは髪にキスをすると、すがるような眼差しを、まだあどけない少女へ向けた。
「ラニ、俺を愛してくれるか」
 ラニは王女として身に着けた完璧な微笑みを浮かべて見せた。
「えぇ、……もちろんですわ。敬愛なるわが君」