先ほどから心臓の音が激しくなっているのがわかる。喉の奥が干上がる感覚がして、息が苦しい。予想外の提案に、脳が理解を拒んでいる。
 今のレティシアに貴族らしく取り繕う余裕はなく、声が震えてしまう。

「何か……至らぬことがあったでしょうか……?」
「いや、それはこちらのほうだ。何の面白みもない私では、君の夫にふさわしくない。ただそれだけだ」
「……え……?」
「バルバラ嬢に幸せにできないなら婚約破棄するべきだと諭されたんだ。……正直、身に覚えがありすぎた。口数も少ない、無表情の男なんて誰も好きにならない。このままでは君を不幸な花嫁にしてしまう。だから……」

 エリオルが言葉を選びながら説明していたが、レティシアの耳には入ってこなかった。
 男爵令嬢バルバラ。彼女は複数の貴族令息に取り入っていると、もっぱらの噂だ。移り気の多いバルバラは婚約者がいる男にも甘えた声ですり寄り、あちこちで女子生徒の反感を買っている。
 あのとき、人目を忍んでエリオルに囁いたのも善意からの言葉ではないだろう。

(わたくしは……愚かですね……。エリオル様から好意を向けられていると知って嬉しかったのに、何一つ気持ちを伝えてこなかったのですから。誤解されるのも当然です)

 バルバラとの密会を目撃しても、頭のどこかでエリオルは自分を裏切らないと信じていた。彼は決して他の女性になびかないだろう、という確信があった。そのぐらい自惚れていた。
 だが現実は違った。
 エリオルはバルバラの思惑の通り、レティシアと離れる道を選んだ。
 婚約者の心の声を知らない過去の自分なら、この話を受け入れただろう。けれど、今のレティシアには到底受け入れがたい言葉だった。

「つまり婚約解消の話は、わたくしのことが嫌いになったから、ではないのですね……?」
「あ、ああ。もちろんだ。君には何の落ち度もない。婚約を白紙に戻しても、レティシアに瑕疵がないように取り計らうつもりだ」
「…………」
「今まで君にはつらい思いをさせた。一年もの間、君の大事な時間を奪ってしまって申し訳ない。本当なら君の横には私ではなく、もっとふさわしい男が」

 言葉の続きが容易に想像できてしまって、レティシアはわざと言葉を被せた。

「エリオル様! あなたは何も悪くありません。だからもう、それ以上謝るのはおやめください。わたくしは謝罪など求めていません。それに婚約破棄に応じるつもりもありませんから」
「…………よく考えてくれ。私は君にふさわしくない」
「無言の時間がつらい時期も確かにありました。けれども今は違います。言葉に表さなくても、エリオル様はわたくしを大事にしてくださっているでしょう? わたくしはどれだけ自分が愛されているか、もう知っています。エリオル様の横が安らぎの場所なのです。どうかわたくしから大事な居場所を奪わないでくださいませ」
「…………」

 心の声はもう聞こえなくなってしまったが、心を読まなくても何を考えているかはわかる。
 だって、レティシアの婚約者は他人を思いやれる優しい人だから。
 相手の幸せを願うからこそ、身を引く決意をしたのだろう。エリオルはそういう人だ。

「自分で言うのもなんだが……私は口下手だ。気の利いた言葉も言えず、無言で他者を威圧するようなダメな男だ。そんな私の横で君が安らげるとは思えない」
「そうでしょうか? 受け取り方は十人十色。話し好きの方が誠実とも限りません。少なくとも、わたくしはこっそり小鳥にパンくずを与え、捨て猫の世話をまめまめしくできる人は、愛情深い方だと思っています」
「…………誰かから聞いたのか?」

 恐る恐るといった風に確認され、首を左右に振る。

「いいえ」
「では、どうやって……」

 彼が訝しむのも当然だ。
 だって、これは心の声が聞こえていたときに偶然知った話だ。
 いつも無言なのでわからなかったが、もともと小動物が好きなのだろう。そうでなければ、メイドに話しかけるのをためらい、こそこそと自分の朝食のパンを小鳥にあげたりしない。見なかったふりをすればいいのに、捨て猫に寝床と餌を与えるだけでなく、飼い主候補の身辺調査までする人もいない。
 加えて、ひなたぼっこに訪れた猫に恋愛相談をしていたなんて、きっと誰も想像しない。
 レティシアも最初知ったときは耳を疑ったのだから。

「ふふ。それは心を読んだからです」
「そうか、心を…………。こ、ここここ……こっ……!?」
「冗談ですよ。そう簡単に人の心が読めたら苦労はしません。相手の心が読めないから、人は対話を重ねますでしょう? 目を見て、表情から相手の本音を探る。それを繰り返して信頼を築き上げる。それに結婚すれば、長い時間を共に過ごすのです。仲を深める時間はたっぷりございますわ」
「…………本当にいいのか? 私を選んで」

 疑い深い眼差しに、レティシアは微笑んで頷く。

「エリオル様。わたくしはそのままのあなたがいいのです。無理に変わる必要はありませんわ。……あなたをお慕いしております。ずっと共に生きていく殿方はエリオル様以外に考えられません」

 想いが伝わったのだろうか。
 エリオルが驚いたように一度目を大きく開き、やがて口元を緩めた。そこには寡黙な貴公子ではなく、愛の告白にうろたえる年頃の青年がいた。
 心なしか耳が赤い気がする。宝石のように澄んだ青い瞳はさまざまな感情で揺れ動き、レティシアをまぶしそうに見つめた。

「ありがとう。君のような女性は初めてだ。……私をありのまま受け入れてくれて、とても嬉しく思う。これからは言葉で伝える努力をする。いや、伝えたいんだ。私の思いを知ってほしい。——レティシア」
「は、はい」
「今まで言えなかったが、心から君を愛しく思っている。レティシアが好きなんだ……っ。大好きだ」

 それは心の声ではなく、間違いなくエリオルの口から発せられた言葉だった。
 普通の令嬢ならば、長ったらしい花や女神に喩えた貴族特有の婉曲な表現にときめくのだろう。だが、レティシアは飾らないエリオルの言葉のほうが好ましく思えた。
 彼の真心が伝わってくるようで、心がほわほわとする。
 同じ気持ちを返したい。決意したレティシアは立ち上がり、彼が座るソファーの横に立つ。

「エリオル様。……お隣に座ってもよろしいでしょうか?」
「あ……ああ。どうぞ」

 真ん中に座っていたエリオルが端に寄ってくれる。
 失礼します、と一言かけて彼の横にちょこんと座った。今まで対面で座ることが多かったからか、横に並んで座るとそわそわしてしまう。
 一方のエリオルは目に見えて狼狽し、視線をさまよわせている。
 意識しているのは自分だけではないと思うと、不思議と肩から力が抜けた。
 レティシアは緊張で強ばっている婚約者の両手をそっと包み込み、初めて自分から距離を縮めた。舞踏会で踊るときの距離だ。

「わたくしも同じ気持ちです。ですから、もう二度とわたくしを手放そうとなさらないでくださいね」
「……約束する。もはや君を離すつもりはない。ずっと前から、私の心は君に夢中だ。この想いは生涯変わることはないだろう」
「ええ……よく存じています。わたくしの心もエリオル様のことでいっぱいですもの」
「君と想いが通じ合って本当に嬉しい。夢みたいだ。……どうか、ずっとそばにいてくれ。レティシアじゃなければダメなんだ」

 懇願するように言われ、胸がトクンと高鳴った。
 視線が交差する。熱を帯びた眼差しに、視線が縫い止められる。自分を求めてくれているのがわかる。彼が安心できるよう、レティシアはふわりと微笑んだ。

「はい。おそばにおります。これからも、ずっと」
「あ、ありがとう。その……抱きしめてもいいだろうか?」

 返事をする代わりに、レティシアはエリオルに抱きついた。
 最初こそ氷のようにカチコチに固まっていたが、しばらくすると戸惑いがちに背中に腕が回され、優しく抱き返される。
 心の声が聞こえていたときは、あんなにも騒ぎ立てていた心音は今は不思議と落ち着いている。エリオルから漂う、爽やかなシトラスとココナッツが合わさった香りのおかげだろうか。
 無言が続いても、心の声が聞こえなくなっても、もう不安に思うことはない。
 これからは彼が直接、言葉で教えてくれるから。

   ◆◇◆

 翌日、深紅と純白のアネモネが屋敷に届けられた。
 赤いアネモネの花言葉は「君を愛する」、白いアネモネは「真実」「期待」「希望」である。鮮やかな色彩の花は可愛らしく、とても毒があるとは思えない。扱い方に注意は必要だが、遠くから目で楽しむぶんには問題ない。

「お嬢様。お花とともに、こちらも届いております」

 執事から銀のトレーに載った封筒を受け取る。封蝋はグラージュ公爵家の紋章だ。
 机の引き出しから真鍮製のペーパーナイフを取り出し、中を検める。やけに軽いと思っていたら、出てきたのはメッセージカードが一枚のみ。
 エリオルの流麗な字を目で追い、レティシアはアネモネを振り返る。先ほど読んだ一文が、婚約者の声で脳内で再生された。書かれていたのは一文だけだった。

 我がレティシアに真実の愛を捧げます――と。