凜風はいつもとは違う絹でできた上等な夜着を身に着け、湯香油を塗られた肌からは甘い香りがしている。髪も入念に梳かされ、化粧も施されていた。

 鏡台の前に座り、着実に夜伽への身支度を整えていく珠倫を、凜風はどこか他人事のように鏡越しに見つめる。

「凜風、本当にいいのか?」

 小さな声で凜風の背後に立ち、髪を梳かしている春嵐が尋ねてきた。凜風は振り返らず鏡に向かって答える。

「はい。珠倫さまのためにはこうするのが一番だと」

 あれから凜風は悩んだ末、夜伽を受ける旨を春嵐に伝えた。それを聞いた彼の表情は驚きに包まれ、ややあって苦々しいものへと変化していった。

 今もそうだ。女官として主が最高の状態で第一皇子を迎えられるよう準備しながら彼の面差しはずっと沈んでいる。

「そ、そんな顔しないで。元々、珠倫さまに声をかけられ明星宮に来る前に体を売られそうになった身ですから。それに比べたら……」

 凜風は極力明るくフォローをするものの語尾は弱々しくなる。どう取り繕っても経験がないのは事実だ。珠倫の胸の内を聞いて、夜伽を断る選択肢もあった。彼女も凜風の好きにすればいいと言った。

 けれど珠倫は元に戻るつもりはないようだが、なにかの拍子で戻るかもしれないし、気が変わるかもしれない。

 そのとき主である珠倫のために、最善の状況を用意しておくべきだ。そう結論づけて返事をしたものの不安と緊張はずっと消えない。

 春嵐もさっきから口数がいつもより少ない。同情しているのか、それとも――。

「もしかして珠倫さまの体で……私がなにか粗相をしそうだって心配しています?」

 冗談めいて話を振る。いつもの軽口が返ってくると踏んでのことだった。しかし春嵐は口を閉ざしたままで、凜風は彼の顔を直接見ようと視線をうしろに遣ろうとする。

 その前に、春嵐が凜風の隣に移動し、しっかりと目を合わせてきた。

「そういう話じゃない。心配している。心配しないわけがないだろ」

 彼の声も表情も緊迫めいたもので、春嵐の素の部分が垣間見える。おかげで凜風の決意が鈍りそうになった。

(彼が心配しているのは珠倫さまの体なんだから)

『春嵐も私を想ってくれているのに……』

 中身が凜風とはいえ、好きな女性が他の男性に抱かれようとしているのだ。彼の胸中が穏やかでないのも無理はない。

 凜風はゆっくり立ち上がる。そのとき泰然の使者から、彼がやって来たと報せがあった。こうなったら腹を括るしかない。

「春蘭、いろいろとありがとう。うまくできるかわかりませんが……」

 緊張で口の中が乾き、不安で声が震えてしまう。今、弱音を吐いたら彼はきっとなんとか理由を作ってこの夜伽を中止するように動くだろう。しかしそれはだめだ。

 泰然を迎え入れるため、春嵐はここからは控えなくてならない。凜風は無理矢理笑顔をつくって笑いかけた。

「こんなことなら、春蘭に閨についても教えてもらっておくべきでしたね」

 湿っぽくならないよう茶目っけ混じりに告げた。すると次の瞬間、春嵐に勢いよく抱きしめられる。

 力強さと温もりを感じたと思ったら、それはあっさりと消えた。春嵐が自室へ控え、凜風は慌てて入口のところで腰を落として深々と頭を下げ、泰然を迎える姿勢に入る。

(今のは、なに……?)

 混乱しつつ脈拍数も体温も上昇する。ここにきて、こんなにも春嵐に翻弄されるとは思いもしなかった。

「曹珠倫か?」

 しばらくして人の気配を感じたのと同時に威圧感を伴った低い声で問われる。

「はい。曹珠倫です」

「面を上げて楽にしろ」

 凜風はおずおずと頭を上げた。遠巻きにしか見たことがない第一皇子の姿を凜風は初めて見る。いつも結われている髪は無造作に下ろされ、切れ長の目からは鋭い眼差しが向けられる。端整な顔立ちではあるが冷厳さがあった。

「先日は啓明橋から落ちたと聞いている。その後はどうだ?」

「ご心配をおかけしました。幸い、大きな後遺症もなく過ごしております」

 まさか先日の件から切り出されるとは思わず。凜風は無難に答える。すると、どういうわけか、相手が鼻で笑う。

「てっきり俺との夜伽が嫌であんな行動をとったのかと」

「め、滅相もございません」

 続けられた言葉を慌てて否定する。実際、その通りなのだが正直に言えるわけがない。

「まぁ、いい。これも義務だ。皇帝の先が短いとなった今、即妃たちとの夜伽を重ね、世継ぎを作りその母を正妃とするのが」

 自嘲的に吐き捨てた泰然が続けて、春嵐の自室と間仕切りをしている衝立に目を遣った。

「そばで控えている女官は別のところで待機させよう」

「い、いいえ」

 とっさに上擦った声で拒否をする。しかし衝立の向こうに呼びかける。

「席を外してくれないか? 太白宮でもあるまい。主の夜伽が無事になされるかをそう見張る必要もないだろう」

 姿を現した春嵐は険しい表情をしている。

 泰然は自分の使いの者に声をかけ、春嵐を連れて行くよう声をかけた。不意に彼を目が合い、凜風はとっさに名前を口にしようとする。

「春」

「心配しなくても丁重に扱う」

 泰然に遮られ口をつぐむ。それは自分をなのか、春蘭をなのか。判断する余裕もないまま他の者の気配が消え、部屋は静寂に包まれた。

 泰然はゆるやかに腰を落とし、凜風の頤に手をかけた。

「すぐに終わらせてやろう。まったく難儀なものだ。皇帝などその権力に取り入ろうと巧言令色《こうげんれいしょく》な連中や足をすくおうと阿諛傾奪《あゆけいだつ》を狙う者ばかり。求められるのは世継ぎとお飾りの立場だけ。こちらも好きで第一皇子に生まれたわけではないというのに」

 皮肉めいた笑みを浮かべた泰然の顔がゆるやかに近づいてくる。唇が触れ合いそうになるその瞬間――。

「なにをおっしゃっているんですか?」

 凜風の鋭い声に泰然は動きを止め、目を見開いた。改めて泰然が凜風を見遣る。先ほどまでとは違い、彼女は意志の強い瞳で泰然を見据えた。

「生まれる場所を選べないのは殿下だけではありません。誰もが皆、その中でよりよい生活ができるよう必死で抗っているんです。それでもどうにもならないことがあるのは百も承知で……」

 これは珠倫の言葉ではない。嬪としての振る舞いではない。
 もうひとりの冷静な自分が訴えかけてくるが、凜風の中から岩漿のような熱い想いが次々と湧き上がる。

「あなたは民の声を聞き、民の姿を見ていますか? 今もこうしている間に貧しさで飢える者や子どもを売る親が後を絶たないのです。売られた子どもがどのような生活環境にいるかご存知ですか?」

 頭を過ぎるのは、自分の過去と同じような環境にあった子どもたちだ。

 泰然は口を挟まず凜風の言葉を正面から受け止めている。彼の目を見つめ、凜風の勢いは堰を切ったように止まらない。

「皆、希望を捨てずに生きているんです。『白虎神が、帝様がいつか救ってくださる』と信じて、日々を乗り越えているんです」

(ああ、そうか。私、悲しいんだ)

 怒りにも似たこの感情の正体を悟る。国の守り神である白虎への祈りは気休めだ。この国の頂点に君臨する皇帝陛下が、きっとの環境を変えてくれると信じていた。

 身売りなど馬鹿な真似を禁止して、子どもを売らなければならないほど困窮することもない。皆が幸せで、笑顔でいられるようにしてくれるのだと。

 けれど実際は違う。ただ祈ることしかできなかった幼い自分が、今もかすかな希望を抱きながら日々を生きている子どもたちが、泰然の言葉で全部無駄だと突き放された気がして、つらいのだ。

「あなたが、皇帝がすべきなのはこの国の民の暮らしを守り幸福をもたらすことではないのですか? 人の上に立つのはそういうことではないのですか?」

 感情が昂り、声が震えて目頭が熱い。凜風はうつむき歯を食いしばった。

(やっぱりだめだ、私)

 珠倫のようには振る舞えない。嬪としての立場もわかっていない。己の感情のままに第一皇子にこんな口を利いて、下手すると明星宮を追い出されるだけではなく、不敬罪で投獄かもしれない。

 自分がしでかしたことの重大さに今になって胸が押しつぶされそうだ。

「曹珠倫」

 低い声で名前を呼ばれ、凜風は肩を震わせた。

「もう少し、話を聞かせてくれないか?」

 しかし続けられた内容に凜風は驚いて顔を上げる。彼の面持ちは先ほどの自嘲的な表情ではなく、真剣なそのものだ。凜風の視線を受けてなのか、泰然はふいっと視線を逸らした。

「俺は第一皇子だが、他に皇子がいないから必然的に今の立場となり、次期皇帝と言われているだけなんだ。素質も才能もない。本当はもっと別にふさわしい者がいるとずっと思っている」

 今度は凜風が目を丸くした。そう語る泰然の口調は今までの中で一番自然なもので、彼はため息をついて苦笑する。

「次期皇帝というだけで必死に媚びを売ろうとする者、足を引っ張ろうと画策する者、皆己の欲しか考えていない。でも、そうだな。お前の言う通り、皇帝になるのは俺しかいないのなら、もっと皇帝になるのがどういうことなのかを学び、覚悟しないとならないのかもしれない」

 そう話す泰然の顔は心なしか憑き物が落ちたような雰囲気だ。

(あれ、この人どこかで……)

 その彼の表情に、凜風はなんとなく見覚えがある気がした。どこかで会ったのか、誰かに似ているのか。まじまじと見つめていると、泰然が凜風を見て微笑む。

「お前みたいに、真正面から皇帝の資質を問われたのは初めてだ」

「お、恐れ入ります」

 泰然の言葉に凜風は慌てて頭を下げる。

「そうかまえなくていい。今更だろう。それにしても曹家の者が市民の暮らしに詳しいとは意外だったな」

 なにげない指摘に凜風はギクリとなる。ここで彼に不信感を抱かせるわけにはいかない。

「私に仕えている女官が元々孤児だったので……話はよく聞いているんです」

「なるほど」

 泰然はとくに怪しむ様子もない。ホッと胸を撫で下ろしているとさらに声が降ってくる。

「なら、その女官から聞いた話でかまわない。民が今、どのような生活を送りなにに不便を感じているのか教えてくれ」

「はい、殿下」

 凜風はおもむろに顔を上げた。そして吊り灯籠にほのかに照らされた室内で、凜風はゆっくりと語りはじめる。