正体を明るみにしてから数日経つが、珠倫は気が抜けたのか遠慮なく春蘭にくっつきふたりは行動を共にしている。

 しょうがない、女官の仕事はもちろん、見知らぬ人物たちばかりの中で珠倫が頼れるのは春蘭だけなのだ。

 一方、凜風は部屋で春蘭に頼んで持ちだしてもらった文献や書物などを読み、元に戻る方法を探っていた。

「失礼します」

 ふと書物から顔を上げると、いくつかの本を両手に抱えた春蘭が部屋にやって来ていた。おそらくなにか解決の糸口になりそうな書物を見繕って持ってきてくれたのだろう。

「ありがとう。そこに置いておいて」

 凜風がお礼を告げると、春蘭は凜風の近くに腰を下ろし一冊書物を手に取ってめくり出す。

「少し時間があるので私もなにか手がかりがないか探します」

 ぶっきらぼうに告げられ、凜風は春蘭の横顔を見つめる。ここ最近、正確には凜風と珠倫が入れ替わっていると告げたあの日から、どうも春蘭に距離を取られている気がするのだ。

「あの、入れ替わっていたのを黙っていたのは悪かったと思います。でもそんなずっと怒らなくてもいいんじゃないですか?」

 思いきって凜風は切り出した。しかし春蘭は眉ひとつ動かさず書物に視線を向けたままだ。

「怒っていませんよ」

「だったら……」

 なんだというのか。そこで春蘭は一度本を閉じ、大きくため息をついた。前髪を掻き上げ複雑そうな表情で凜風をちらりと見る。

「あとから冷静になって、珠倫さまだと思って接していたのが、凜風だった事実に軽く絶望しているだけです」

「絶望って……」

 春蘭の言いたい内容がよくわからない。じっと春蘭を見つめると彼はふいっと視線を逸らした。

「もしかして……照れているんですか?」

 凜風の指摘に春蘭は目を見開き、視線どころか顔を背ける。よく見ると心なしか耳が赤い。

『あなたは特別です。あなたのためならこの命も惜しくない。全力でお守りしますから』

『あなたが啓明橋から落ちたと聞いたとき、心臓が止まるかと思いました』

 春蘭にとって珠倫はどこまでも特別なのだ。彼の真っすぐな思いは十分なほど伝わった。あれは全部、凜風ではなく珠倫に告げたのだ。

 胸の痛みを無視して凜風は明るく告げる。

「あの、私、春蘭がどれほど珠倫さまを大切にされているのかわかって、よかったです。自分がまだまだだということも自覚できましたし……」

 そこで凜風の考えが別の角度に移った。

「すみません。形ばかりとはいえ私のそばにいなくてはならないなんて。私は大丈夫ですから、珠倫さまの方についていてください!」

 凜風が懇願するように伝えると、春蘭は先ほどとは打って変わって凜風を真っすぐ見つめてきた。なにを言われるのかとわずかに緊張が走る。すると春蘭の手がそっと髪先に触れた。

「いいですよ、俺の前では凜風で。取り繕う必要はない」

 急に低い声で囁かれ、凜風は戸惑う。

「そう言ってくれたのは凜風だろう?」

『私の前では春嵐でかまいませんよ。取り繕わなくてかまいません』

 どうやら春蘭は自分の言ったことを返してくれているらしい。彼なりの気遣いなのか、口調も態度も春嵐だ。

「そもそも凜風が珠倫さまになりきること自体無理があるからな」

「し、失礼ですね。これでも珠倫さまらしくいようと努力しているんです……あっ」

 そこでふと先日、麗花に茶会に誘われたときのことを思い出す。あのときの態度はどう考えても珠倫のものではなかった。

「どうした?」

「えーっと」

 言いかけたままで許されるはずがない。懺悔の意味も込めて、凜風は一連のやりとりを白状する。

(どうしよう。絶対に怒られる)

 説明し、春嵐の反応を待つ。どう考えてもお説教される案件だ。

 しかし目をつむり覚悟を決めていると、聞こえてきたのは押し殺したような笑い声だった。

「え?」

 凜風の目に飛び込んできたのは、笑いを堪えている春嵐の姿だった。ややあって彼はついに噴き出す。

「それはすごいな。あの席妃と候妃に言い返すなんて。ぜひ見てみたかった」

「み、見世物じゃありませんよ!」

 あまりにも予想外の反応に凜風は動揺した。怒られるどころか春嵐がこんなふうに笑っているのを初めて見る。

(春嵐ってこんなふうに笑うんだ)

 じろじろと見つめるのも失礼かと思い、わずかに目線を逸らしたが凜風の心臓は強く打ちつけたままだ。頬が熱く胸が苦しい。

「凜風」

 そこで不意に神妙な声色で名前を呼ばれる。笑いを収めた春嵐は打って変わって真剣な面持ちでこちらを見ていた。

「お前に伝えなければならないことがある」

「な、なに?」

 動揺を悟られないように極力平然を装って返すと、春嵐は躊躇った表情を見せた。そのあと、彼の唇が動く。

「改めて、泰然さまから夜伽にと連絡があった」

 まさかの事態に凜風の頭は真っ白になる。春嵐が言いにくそうにするのも無理はない。

「まだ体調がすぐれないと断ることもできるが……」

「ま、待って」

 凜風は混乱する頭を押さえた。

 明星宮で二度も夜伽を断るのは、下手をすると不敬とみなされる。ましてや珠倫には嬪の地位を与えられているのだ。その地位を剥奪される可能性だってでてくる。

 女官の立場として冷静に状況を分析する一方で、今の状況なら夜伽をしなくてはならないのは凜風になるのだ。これは珠倫の体なのに。

(とはいえ……)

『実は……泰然さまから夜伽に召されて』

 珠倫が啓明橋から落ちたのは夜伽に召されたのが原因だ。

「珠倫さまと一度、話すわ」

 凜風の回答に春嵐はなにも返さなかった。


 内容が内容なので春蘭には席を外してもらい、部屋にやってきた珠倫に凜風はおずおずと夜伽の件を告げた。

「凜風の好きにするといいわ」

 珠倫からの返事にはそう時間はかからなかった。主権を委ねられ、凜風は少しだけ慌てる。

「よろしいのですか? もしもお断りして珠倫さまの立場が危うくなったりでもしたら、元に戻った際に」

「いいの」

 きっぱりと答えた珠倫の顔を凜風はじっと見つめた。自分の顔なのだが、どこか冷たく別人のように感じる。

「私、元に戻るつもりはないのよ」

 まさかの発言に凜風は頭を殴られたような衝撃を受ける。そんな凜風にかまわず珠倫は続けていく。

「凜風。私ね、春嵐が好きなの。ずっと昔から、それこそ明星宮へ輿入れする前から。凜風は知らなかったかもしれないけれど、実は彼、男性なの。だから明星宮から去ることになって……」

 珠倫の気持ちを聞いて驚きよりも納得する気持ちが大きい。珠倫の春蘭にかける想いは女官や幼い頃からの付き合い以上のものがあると、入れ替わってからとくに感じる場面が多かった。

 普段の珠倫からは考えられないほど、今の彼女は饒舌で感情を露わにしている。

「でも私は生まれたときから明星宮への輿入れが決まっていて、春嵐とはずっと主従関係が抜け出せなかった。このままだと絶対に結ばれない。春嵐も私を想ってくれているのに……」

 最後の発言に凜風の心が揺れる。珠倫は凜風の手を握り詰め寄ってきた。

「お願い、珠倫。私の幸せを願うのなら、このままの状態でいて」

「で、ですが」

「お願い。私は彼と対等な立場で明星宮を出たいの。あなただって、ここで女官としてではなく即妃として何不自由ない生活を送れるのよ? 元々の境遇を考えたらこんな幸せはないでしょう?」

 今にも泣きだしそうな珠倫に、凜風は言葉に詰まる。珠倫の幸せが凜風の願いであり、すべてだった。

 それなのに珠倫の懇願に、素直に頷けない自分がいた。