即妃である曹珠倫の部屋から夜の明星宮を抜け、泰然は自室に戻ってきた。
「憂炎《ユーエン》」
側近の名前を呼ぶと、彼はすぐに姿を現す。
「どうされましたか、泰然さま」
「陛下の話していた他の皇子の存在、秘密裏に詳しく調べてくれないか?」
まさかの内容に憂炎は目を白黒させた。
「しかし」
「頼む」
反論を許さない泰然の表情は命令よりも懇願に近い。憂炎はためらいながらも頭を下げた。
「かしこまりました」
そう言ってその場を離れ、泰然は小さく息を吐いてから窓のそばに歩み寄る。
自分の母親と同じく嬪の位にあった即妃が同時期に妊娠した。どちらも男児の場合、数秒でも先に生まれた赤ん坊が第一皇子……一番の後継者となる。
そして、先に生まれたのは泰然ではなく、もう一人の赤ん坊だった。しかも男児で泰然の母は相当怒り狂ったという。しかし生まれて半年ほど経ったある日、赤ん坊は忽然と姿を消したらしい。必死に捜索したが見つからず、亡くなったと見なされ、必然的に泰然が第一皇子となった。
ところが実は、子どもの身の危険を感じた母親が、こっそりと赤ん坊だけ女官伝いに後宮から連れ出したという事実が何年もあとに皇帝の耳に入った。
先が長くない皇帝が、亡くなったと思っていた息子にどうしても会いたいと泰然に告げてきたのだ。
他に皇帝の後継者が、ましてや本来第一皇子となる立場の者がいるなど、国を揺るがす一大事だ。すぐに緘口令が敷かれ、泰然とごく一部の人間しかその件については知らない。
その皇子がもしも生きていて現れたら、泰然の立ち位置は大きく変わるかもしれない。もう一人の皇子の存在を聞かされてから、泰然はますます皇帝の座に着くことに投げやりになっていた。
『あなたが、皇帝がすべきなのはこの国の民の暮らしを守り幸福をもたらすことではないのですか? 人の上に立つのはそういうことではないのですか?』
そんな中で、先ほどの珠倫お言葉は衝撃的で、今の自分には刺さった。
他の皇子の存在や置かれた環境など関係ない。ひとりの人間として対等に物申されたのが逆に清々しかった。
泰然はさりげなく自分の左鎖骨に手を伸ばして触れる。
「左鎖骨上にふたつの黒子《ほくろ》か」
皇帝に聞かされたもうひとりの皇子の特徴だ。それだけでどう本人を探し出せばいいのか。しかし泰然にとっても血を分けた存在となる。
珠倫が孤児について訴えていたのを思い出す。他の即妃と会ってもここまで気持ちは揺らがなかったのに、どういうわけかまた無性に彼女に会いたいと思う。
この感情はなんなのか。泰然は大きくため息をついて窓から離れた。
「凜風」
さっきから春嵐の声で確かめるように何度も名前を呼ばれるのを、凜風は彼の腕の中でおとなしく受け入れていた。
本当は名前を呼び返したいのに、今の自分の声は凜風のものではないと自覚すると、口にするのが躊躇われてしまう。
優しく頭を撫でる大きな手のひらの感触も、この伝わってくる体温や鼓動も、どうか今だけは自分のものでいてほしい。
たとえ珠倫にすべて返さなくてはならないとしても。
厚い胸板はやはり異性のもので、春嵐と密着して彼のはだけた漢服の間から左鎖骨に並ぶふたつの黒子が目に入る。
(珠倫さまは知っているのかしら?)
春蘭とは長い付き合いになるのに、春嵐については知らないことばかりだった。
もうすぐ夜が明ける。きっと珠倫がここにやってきて、夜伽の件を報告しなくてはならない。そのときにはおそらく、お互いにいつも通りになっているだろう。
(これは全部夢なの?……それでもいいや)
もうしばらくだけこうしていてほしい。春嵐の温もりに包まれながら凜風は静かに目を閉じた。
「憂炎《ユーエン》」
側近の名前を呼ぶと、彼はすぐに姿を現す。
「どうされましたか、泰然さま」
「陛下の話していた他の皇子の存在、秘密裏に詳しく調べてくれないか?」
まさかの内容に憂炎は目を白黒させた。
「しかし」
「頼む」
反論を許さない泰然の表情は命令よりも懇願に近い。憂炎はためらいながらも頭を下げた。
「かしこまりました」
そう言ってその場を離れ、泰然は小さく息を吐いてから窓のそばに歩み寄る。
自分の母親と同じく嬪の位にあった即妃が同時期に妊娠した。どちらも男児の場合、数秒でも先に生まれた赤ん坊が第一皇子……一番の後継者となる。
そして、先に生まれたのは泰然ではなく、もう一人の赤ん坊だった。しかも男児で泰然の母は相当怒り狂ったという。しかし生まれて半年ほど経ったある日、赤ん坊は忽然と姿を消したらしい。必死に捜索したが見つからず、亡くなったと見なされ、必然的に泰然が第一皇子となった。
ところが実は、子どもの身の危険を感じた母親が、こっそりと赤ん坊だけ女官伝いに後宮から連れ出したという事実が何年もあとに皇帝の耳に入った。
先が長くない皇帝が、亡くなったと思っていた息子にどうしても会いたいと泰然に告げてきたのだ。
他に皇帝の後継者が、ましてや本来第一皇子となる立場の者がいるなど、国を揺るがす一大事だ。すぐに緘口令が敷かれ、泰然とごく一部の人間しかその件については知らない。
その皇子がもしも生きていて現れたら、泰然の立ち位置は大きく変わるかもしれない。もう一人の皇子の存在を聞かされてから、泰然はますます皇帝の座に着くことに投げやりになっていた。
『あなたが、皇帝がすべきなのはこの国の民の暮らしを守り幸福をもたらすことではないのですか? 人の上に立つのはそういうことではないのですか?』
そんな中で、先ほどの珠倫お言葉は衝撃的で、今の自分には刺さった。
他の皇子の存在や置かれた環境など関係ない。ひとりの人間として対等に物申されたのが逆に清々しかった。
泰然はさりげなく自分の左鎖骨に手を伸ばして触れる。
「左鎖骨上にふたつの黒子《ほくろ》か」
皇帝に聞かされたもうひとりの皇子の特徴だ。それだけでどう本人を探し出せばいいのか。しかし泰然にとっても血を分けた存在となる。
珠倫が孤児について訴えていたのを思い出す。他の即妃と会ってもここまで気持ちは揺らがなかったのに、どういうわけかまた無性に彼女に会いたいと思う。
この感情はなんなのか。泰然は大きくため息をついて窓から離れた。
「凜風」
さっきから春嵐の声で確かめるように何度も名前を呼ばれるのを、凜風は彼の腕の中でおとなしく受け入れていた。
本当は名前を呼び返したいのに、今の自分の声は凜風のものではないと自覚すると、口にするのが躊躇われてしまう。
優しく頭を撫でる大きな手のひらの感触も、この伝わってくる体温や鼓動も、どうか今だけは自分のものでいてほしい。
たとえ珠倫にすべて返さなくてはならないとしても。
厚い胸板はやはり異性のもので、春嵐と密着して彼のはだけた漢服の間から左鎖骨に並ぶふたつの黒子が目に入る。
(珠倫さまは知っているのかしら?)
春蘭とは長い付き合いになるのに、春嵐については知らないことばかりだった。
もうすぐ夜が明ける。きっと珠倫がここにやってきて、夜伽の件を報告しなくてはならない。そのときにはおそらく、お互いにいつも通りになっているだろう。
(これは全部夢なの?……それでもいいや)
もうしばらくだけこうしていてほしい。春嵐の温もりに包まれながら凜風は静かに目を閉じた。