ふたりで座って向き合い、凜風の話を泰然は聞く。そうこうしているうちに凜風はついあくびが出そうになった。
第一皇子の前でとんでもない無礼だと思い必死に噛み殺すが、相手にはバレバレだったようで、泰然は軽く息を吐く。
「今日はここまでとしよう。まだ夜は明けないから、お前も少し休め」
「で、ですが」
即妃として務めをなにも果たしておらず、凜風の背中に嫌な汗が流れる。しかも泰然はここを去る支度を始めた。
続けて外で仕えている自身の側近に声をかけ、一方で凜風はこの状況でどうすればいいのかわからず、あたふたとするばかりだ。
しばらくして部屋に現れたのは泰然の側近と、彼に連れていかれた春嵐だった。
「春蘭」
「り、珠倫さま」
つい春蘭の方に視線も意識も向ける。すると不意に腰に腕を回され額に生温かい感触があった。
泰然に抱き寄せられ、額に唇を寄せられたのだと理解するのに凜風は数秒を要する。視界には少し距離があるところで目を見開いた春嵐がたしかに映った。
しかし泰然が腕の力を緩め、凜風の頬に手を添えて彼の方へと強引に向かされる。
「曹珠倫。今日はいい夜だった。また会いに来る」
「あ、ありがとうございます」
ひとまず今日の務めはこれで終了らしい。泰然は凜風に微笑み、続けて彼は春嵐に視線を映した。
「我が即妃の女官なら、主をひとりで夜に出歩かす真似などしないように。お前より優秀な女官は他にいくらでもいるんだ。心しておけ」
泰然が言っているのは啓明橋で珠倫が落ちた件についてだ。
「御意」
春嵐は眉を曇らせ、おとなしく頭を下げる。
「泰然さま」
そこで凜風は反射的に泰然の名を呼んだ。泰然だけではなく春嵐の視線も凜風に向く。
「春蘭はなにも悪くありません。私がひとりになりたくて、皆に迷惑をおかけしたんです。責められるのは私で、彼女の代わりなど誰もいません。春蘭を、私の女官を侮辱しないでください」
春嵐を庇うように凜風はふたりの間に立つ。緊迫した空気が一瞬流れ、それを打ち破ったのは意外にも泰然だった。
「お前は本当に怖いもの知らずだな」
その口調はどこかあきれているようだが、凜風は引くつもりはない。真っ直ぐに泰然を見つめていると彼は意外にも微笑んだ。
「お前みたいな即妃は初めてだ」
(当たり前よ。私は珠倫さまじゃないから)
所詮はただの女官だ。泰然を見送り、部屋には春蘭とふたりになる。
「春嵐、大丈夫でしたか?」
「こちらはなにも。凜風こそなんとかやり過ごせたようですね」
そう返してきた春嵐の声はいささか冷たく感じた。しかし凜風は気にせずに答える。
「即妃としての務めはなにも果たせませんでしたが」
「かまいません。あなたは珠倫さまではないのですから」
間髪を入れずに返ってきた内容は、やはりどこか素っ気ない。凜風は改めて春嵐を見つめた。しかし春嵐は無表情に続ける。
「どんなに皇子に気に入られても、それは凜風ではない。あなたは珠倫さまの代わりを務めているにすぎない」
「わ、わかっていますよ」
「そうですか? 随分と親しくされていたようですが」
おかしい。この部屋で別れる前の春嵐とあからさまに態度が違う。拒絶にも似た距離感に凜風の心が折れそうになった。
「なん……で。少しは褒めてくれたって」
気づけば言葉共に頬に熱いものが伝っていた。春嵐の驚いた表情が涙で滲む。
珠倫の代わりをできないのは、凜風自身も十分に承知している。けれど春嵐にそこを責められると胸が痛い。
珠倫の代わりとしか見られていない。彼女の体を大事にするのが最優先なのもわかっている。それなら凜風はどこにいるのか。春嵐にとって自分は……。
「しゅ、珠倫さまの体で泰然さまと親しくするのが、気に入らないのはわかりますが……私なりに精いっぱいやっていて……」
嗚咽混じりに伝える。想い人である珠倫が、第一皇子とはいえ他の男性に触れられるのは春嵐としては複雑なのだろう。中身が凜風だから、それを素直にぶつけてきただけだ。
必死で春嵐の想いを汲もうとしていたら、突然強く抱きしめられた。あまりにも予想していなかった事態に、凜風は涙も止まり混乱する。
「わ、私は珠倫さまじゃないですよ」
「わかっている」
耳元で囁かれた声は低く力強い。こつんと額を重ねられ、春嵐と至近距離で視線が交わる。怖いほど真剣な眼差しに凜風は息を呑んだ。
「わかっている。もうとっくに俺には、目の前にいるのが珠倫さまではなく凜風にしか見えないんだ」
目を見開き硬直していると、春嵐はそっと離れ、改めて凜風の額に唇を寄せた。まるで先ほどの泰然の行為を上書きするかのようで、凜風は先ほどとは違う想いでなんだか泣きそうになりながら素直に受け入れた。
(私、春嵐のことが好きなんだ)
想いを自覚して胸が軋む。
叶わない。彼は珠倫のもので、もうすぐここを去る存在だ。ましてや今、凜風は自分の体でもない。
けれど――。
第一皇子の前でとんでもない無礼だと思い必死に噛み殺すが、相手にはバレバレだったようで、泰然は軽く息を吐く。
「今日はここまでとしよう。まだ夜は明けないから、お前も少し休め」
「で、ですが」
即妃として務めをなにも果たしておらず、凜風の背中に嫌な汗が流れる。しかも泰然はここを去る支度を始めた。
続けて外で仕えている自身の側近に声をかけ、一方で凜風はこの状況でどうすればいいのかわからず、あたふたとするばかりだ。
しばらくして部屋に現れたのは泰然の側近と、彼に連れていかれた春嵐だった。
「春蘭」
「り、珠倫さま」
つい春蘭の方に視線も意識も向ける。すると不意に腰に腕を回され額に生温かい感触があった。
泰然に抱き寄せられ、額に唇を寄せられたのだと理解するのに凜風は数秒を要する。視界には少し距離があるところで目を見開いた春嵐がたしかに映った。
しかし泰然が腕の力を緩め、凜風の頬に手を添えて彼の方へと強引に向かされる。
「曹珠倫。今日はいい夜だった。また会いに来る」
「あ、ありがとうございます」
ひとまず今日の務めはこれで終了らしい。泰然は凜風に微笑み、続けて彼は春嵐に視線を映した。
「我が即妃の女官なら、主をひとりで夜に出歩かす真似などしないように。お前より優秀な女官は他にいくらでもいるんだ。心しておけ」
泰然が言っているのは啓明橋で珠倫が落ちた件についてだ。
「御意」
春嵐は眉を曇らせ、おとなしく頭を下げる。
「泰然さま」
そこで凜風は反射的に泰然の名を呼んだ。泰然だけではなく春嵐の視線も凜風に向く。
「春蘭はなにも悪くありません。私がひとりになりたくて、皆に迷惑をおかけしたんです。責められるのは私で、彼女の代わりなど誰もいません。春蘭を、私の女官を侮辱しないでください」
春嵐を庇うように凜風はふたりの間に立つ。緊迫した空気が一瞬流れ、それを打ち破ったのは意外にも泰然だった。
「お前は本当に怖いもの知らずだな」
その口調はどこかあきれているようだが、凜風は引くつもりはない。真っ直ぐに泰然を見つめていると彼は意外にも微笑んだ。
「お前みたいな即妃は初めてだ」
(当たり前よ。私は珠倫さまじゃないから)
所詮はただの女官だ。泰然を見送り、部屋には春蘭とふたりになる。
「春嵐、大丈夫でしたか?」
「こちらはなにも。凜風こそなんとかやり過ごせたようですね」
そう返してきた春嵐の声はいささか冷たく感じた。しかし凜風は気にせずに答える。
「即妃としての務めはなにも果たせませんでしたが」
「かまいません。あなたは珠倫さまではないのですから」
間髪を入れずに返ってきた内容は、やはりどこか素っ気ない。凜風は改めて春嵐を見つめた。しかし春嵐は無表情に続ける。
「どんなに皇子に気に入られても、それは凜風ではない。あなたは珠倫さまの代わりを務めているにすぎない」
「わ、わかっていますよ」
「そうですか? 随分と親しくされていたようですが」
おかしい。この部屋で別れる前の春嵐とあからさまに態度が違う。拒絶にも似た距離感に凜風の心が折れそうになった。
「なん……で。少しは褒めてくれたって」
気づけば言葉共に頬に熱いものが伝っていた。春嵐の驚いた表情が涙で滲む。
珠倫の代わりをできないのは、凜風自身も十分に承知している。けれど春嵐にそこを責められると胸が痛い。
珠倫の代わりとしか見られていない。彼女の体を大事にするのが最優先なのもわかっている。それなら凜風はどこにいるのか。春嵐にとって自分は……。
「しゅ、珠倫さまの体で泰然さまと親しくするのが、気に入らないのはわかりますが……私なりに精いっぱいやっていて……」
嗚咽混じりに伝える。想い人である珠倫が、第一皇子とはいえ他の男性に触れられるのは春嵐としては複雑なのだろう。中身が凜風だから、それを素直にぶつけてきただけだ。
必死で春嵐の想いを汲もうとしていたら、突然強く抱きしめられた。あまりにも予想していなかった事態に、凜風は涙も止まり混乱する。
「わ、私は珠倫さまじゃないですよ」
「わかっている」
耳元で囁かれた声は低く力強い。こつんと額を重ねられ、春嵐と至近距離で視線が交わる。怖いほど真剣な眼差しに凜風は息を呑んだ。
「わかっている。もうとっくに俺には、目の前にいるのが珠倫さまではなく凜風にしか見えないんだ」
目を見開き硬直していると、春嵐はそっと離れ、改めて凜風の額に唇を寄せた。まるで先ほどの泰然の行為を上書きするかのようで、凜風は先ほどとは違う想いでなんだか泣きそうになりながら素直に受け入れた。
(私、春嵐のことが好きなんだ)
想いを自覚して胸が軋む。
叶わない。彼は珠倫のもので、もうすぐここを去る存在だ。ましてや今、凜風は自分の体でもない。
けれど――。