西宮、と呼ばれた男は、丸眼鏡をつけた五十歳ほどの男だった。飲んでいたワインをテーブルに置くと、しげしげと環を見つめる。

「あ……ああ、そうですな。おい、時子。環さんを白薔薇会へお連れしてやってくれないか」

 西宮はそばにいた若い女を呼びつける。女は他の者と話し込んでいたところを中断し、こちらを振り返った。いかにも育ちのよさそうな令嬢だ。

「お父様、こちらの方は?」
「九條くんの婚約者の環さんだ」
「まあ……九條様の」

 他人の視線が向けられるたびに、びくびくと震えてしまう。

(ご、ごめんなさい。私なんかが、周さんの婚約者を名乗ってしまって)

 さっそくいじめられるのではないかと思うと恐ろしくて仕方がない。

「ごきげんよう、九條様。そしてはじめまして、環様。わたくしは西宮時子と申します」
「……は、はじめ、まして。九重環と申します……」
「九重……」

 時子はドレスを広げ、礼を取る。環もぎこちない挨拶を返すが、うまくできているか不安がぬぐえない。

 今日までに社交マナーは女中から叩き込まれた。環はそんなことよりも図書室に籠って本を読んでいたかったのだが。いじめられてしまっては嫌だから、としぶしぶ指導を仰ぐことになったが、この一週間は本当に苦痛だった。

「九重とは……そのような家、このあたりでは聞かないな」
「いや待てよ、たしか水戸のあたりで聞いた気がするのだが」
「九重……九重……。ああ、たしかそう、伯爵家ではなかったか? なんでも、水戸の土地に思い入れがあるため、あの場からは動かないのだという」
「伯爵か……? ならば、素晴らしい血筋のお嬢さんではないか」

 大人たちがこそこそと話し始めるものだから、一瞬、早々にしくじったのではないかと冷や汗をかいた。苗字など自分から口にするものではなかったのかもしれない。環が顔を真っ青にしていると、よく分からないが状況は好転していた。

 伯爵などとはとんでもない。環が華族出身であるとはとんだ笑い話だ。

 しかしここは、あえて否定せずとも、勘違いをされたまま押し通すべきか。

(周さんは最初からこうなることが分かっていたんだよね……?)

 ちら、と周の様子を伺うが、普段の冷淡な表情を浮かべるままだ。とくに口をはさむ必要もないという判断なのだろう。

「まあ……そのような方と知らず、子爵家のわたくしがご無礼をお許しくださいませ」
「あ……えっと……あはは」

 時子はうやうやしく頭を下げる。違う、そもそも環は一般庶民のだが。本来は敬意を払うべき相手ではないことは、環自身がよく理解している。

「わたくしのような者の案内では、不足があるかもしれませんが……」
「いっ……いえ、そんなことは、ありません。ご親切に、どうもありがとう、ございます」

 華族は公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵の順で序列されている。中でも公爵が一番人数が少なく、華族の中でもっとも皇室に近い存在ともされている。伯爵は真ん中の位であり、子爵よりも上位だ。

 偶然が重なって幸運だったともいえるし、裏を返せば真実が明らかになってしまった時を考えると末恐ろしい。

『伯爵ってなんだよ? 偉いのか?』
(すごく偉いよ……とんでもない勘違いをされちゃってる……どうしよう、誤解を解かなくてよかったのかな)
『まあ、すっとぼけていればいいんじゃねえのか? いじめられるよりはマシだろう』
(そ、そうだよね……)

 マダラは影の中から環にだけ聞こえるように話しかけてくる。それにしても、周も周で意地が悪い。同じ苗字の華族が存在する、とあらかじめ教えてくれたらよかったのだ。

 環は長い引きこもり生活のおかげで学問には精通しているものの、世情にはもっぱら疎いのだ。

「では、時子。失礼のないようにね」
「はい、お父様」

 そうして、環はいよいよ白薔薇会に足を踏み入れることとなる。

「よろしく頼みます。時子さん」

 令嬢失踪事件――。それは、いったい何者が関与しているのか。
 緊張の色を浮かべている環を、周は麗しい笑みで見送ったのだった。