「よい。そのままで」
「し、しかし」
「よいと言っている。さきほどの唄は貴殿が?」

 蓮華は俯いたまま静かに肯定する。叱責される覚悟をしていたが、いつまで棒立ちしていても殴られることもなければ、蹴り飛ばされることもない。男は「そうか」と口にすると、夜風に揺れる枝垂れ桜を見上げた。

「心地のよい、きれいな歌声だった」
「……え?」
「ここで聞くのは、発言の端々に傲りが感じられる……薄汚れた人間の笑い声ばかりだと思っていたんだがな……」

 男は小さくため息を落とす。

「さきほどは中断させてすまなかった」
「いいえ、私は……」

 抑揚のない淡々とした声色。威張らず、謙虚で、それでいて高潔な様。言葉を誇張することもない。一見すると冷たいようだが、千代や喜代のそれとは似ても似つかない。これまで接してきたどの華族とも相容れぬ雰囲気がその男にはあった。

「よければ、続きを聴かせてほしい」
「わ、私などが敬虔な軍人殿になど……不躾でございましょう」

 もしくは芸の一種だとして遊ばれているやもしれない、と蓮華は考えた。それでも男は、小馬鹿にするあの表情を蓮華に見せなかった。蓮華は戸惑った。

(なぜ、お笑いにならないの)

「聞き入れてはくれぬか?」
「いいえ、ただ、本当に粗末なものなので」
「……そうか」

 この場は己がいるべき場所ではない。この場に相応しい衣類の準備もできない。母親が仕立てた着物は、社交場ではまるで浮いていた。
 己のような低俗な人間が、立派に勤めを果たす軍人のそばにいてはならない。

 枝垂れ桜に惹かれて居座ってしまったが、罰当たりな行為だった。身を翻すと、再び声をかけられた。

「この桜の木を見ていたのか?」
「……えっ」

 肩を竦ませて隣を見れば、男の精悍な横顔がある。
 屋敷では進んで蓮華に話しかけてくる者などいない。いたとしても、浴びせられるのは罵詈雑言のみだ。ゆえに蓮華は戸惑いを隠さなかった。

「貴殿はこの木を、どう思う」

 さらり、と風にのって男の糸のような髪が揺れる。
 突然の問いかけに蓮華は答えるべきか迷ってしまった。

(何故、この方は私などにそのような)

 ぎゅっと胸元に手を添えて、蓮華は釣られるように桜の木を見上げた。

 ダンスホールの喧騒を忘れるほどに静かな庭園。
 桜は、一度花開くと一週間とたたずに散ってしまう。
 一族の栄華を求め続ける華族の者たちは、この刹那的な花になど興味を示さないのかもしれない──だが。

「桜は、この日の本を象徴する花。とても立派で……まっすぐで──きれいだと、思います」

 蓮華の口からは、ごく自然な言葉が吐き出された。
 だが一拍おいて、身の程知らずな発言をしてしまったと我にかえる。己のような者が意見を述べるなど烏滸がましい。

 とっさに隣を見れば、男は諌めるでもなく、激昂するでもなく、ただ静かにこちらを見つめている。

「あっ、あの、大変申し訳ございませんでした……」
「いや」
「し、失礼いたします」
「──待て」

 ふわり、桜の花びらをのせた夜風が吹き抜けてゆく。

「私は小鳥遊千桜(たかなしちはる)と申すのだが――……」

 蓮華はふと足を止めた。

「貴殿の名を教えてくれないか」

 ひらりひらり、桜の花びらが舞い降りる。水面に静かに落ちると、わずかに波紋が広がった。

「私の……でしょうか」
「そうだ、貴殿の名だ」

 蓮華は困惑した。なぜ、己が殿方に――しかも軍人に名前を聞かれているのか。それ以上に‟巴″の性を口にすることは躊躇われた。当主である藤三郎と、巴家の使用人の間で産み落とされた非嫡出子。

 それは、巴家の機密情報であり、一族の評判を落とさぬために隠し通さねばならないこと。

 蓮華がこの社交場に身をおいているのも、己が巴家の令嬢として招待されたためではないのだ。

 再び振り返ると、やはり氷のように冷たい瞳があった。凛として、姿勢一つに無駄のない様子。品格。蓮華を陥れるためとも思えない態度を前にして、言葉がつまった。

「私……は」

 言ってはいけない。

 己は巴一族の恥さらしなのだ。

 母親が死んで詫びるほどに、罪深い存在だ。

 なにも望めないし、望まない。打たれても、蹴られても、冷や水を頭からかけられても、なにも望むべきではないのだ。明日を生きるために、蓮華は心を捨てたのだ。

「なりません……申し訳、ございません」
「待ってくれ」

 蓮華は踵を返し、今度こそ立ち去った。



 千桜は後ろ髪を引かれるようにして、その背中を視線で追った。
 特別着飾っている令嬢ではなかった。いや、令嬢だとは思えないほどに素朴な女だった。
 ──何故か。それは己でも説明がつかなかったが、ただ一つだけ分かるのは、先ほどの令嬢が取り巻くものが一際に純朴であったということだった。

(まっさらで、あれほど穢れのない──……)
 
 しばらくその場に立ち尽くしていると、地面にきらりと光るものがある。
 先ほどの令嬢が立ち去った拍子に落ちたのであろう、小ぶりな簪だった。

 千桜には、己がなぜあの歌声をもう一度聞きたいと願ったのかが分からなかった。ただ、己の凍てついた心を溶かしてくれる感覚があったのだ。

 不思議と耳に残る──柔らかい旋律。
 この桜の木をきれいだと言った、せつなげな横顔。

 千桜は簪を手に取ると、静かに懐に差し入れた。

(たちばな)
「はっ」
「さきほどの令嬢について、ひとつ調べを入れてほしい」
「……かしこまりました。千桜お坊ちゃま」

 そばに控えていた家令に淡泊に命じる。

 まるで、この朧月夜のようだと思った。‟カナリア‟という悪趣味な名前がついたこのダンスホールには馴染まない。

 本音をひた隠しにして、富みや名声のために媚びへつらってくる女たちとはまとう雰囲気が違う。

 枝垂れ桜の下でなびく糸のような髪が、千桜の脳裏から離れなかった。