「あらあ……北小路様。ごきげんよう~」
「これはこれは巴家の御令嬢方。今夜もとても見目麗しいですね」
「いやだわあ、北小路様ったらぁ! お上手なんだから、ねえ喜代さん」
「はいお姉さま~! けれど申し訳ございません。手違いでうちの下女がついてきてしまって……このような社交の場で、さぞお見苦しいでしょう?」

 千代と喜代はわざと蓮華の前で紳士と戯れる。北大路と呼ばれた紳士は、蓮華を一瞥すると眉をわずかに上げて、ぎこちない表情を浮かべた。

「ああ、なぜここに家畜が紛れているのかと思っていたよ。見るに耐えないからどうにかしてくれたまえ」
「躾がなっておらず、本当に申し訳ございませんわぁ~」
「それになんだね、その品のない服装は。ドレスの一着も持ち合わせていないのか」
「そうよそうよ。華族でもないあなたが、どうしてここにいるのかしらねぇ〜? 身の程知らずも大概にしてくれない?」

 北大路はまるでゲテモノを見るようだった。小さく舌打ちをして、不快な心情を露にする。

「このような溝鼠、今に追い出しますわ」
「出て行きなさい。目障りよ」

 取り付く島もなく、蓮華はダンスホールを追われた。
 姉たちの発言の矛盾点をつく考えは蓮華にはなかった。主が‟出ていけ‟というのなら、そうする以外の道はない。蓮華は重厚感のある扉を押して、受付ホールに出る。背後からは、千代と喜代の高らかな笑い声が聞こえてきた。



 ダンスホールを抜け出してから、蓮華にはむしろ肩の荷がすっと軽くなった感覚があった。

 ねっとりとした欲望渦巻く空気や、きらびやかに飾り立てられた華族の世界は、蓮華にとっては窮屈なように思えた。
 そればかりではない。巴家の邸宅も、この‟カナリア‟と似たような場所だ。なんとなく、人気のない庭園に足を運ぶと、蓮華ははじめて誰も‟いない‟という感覚を得る。そこにあるのは、草木の緑の匂いと、静かな水のせせらぎだけ。

 小さな池のそばには、一本の枝垂れ桜が生えていた。

「……きれいだわ」

 上流階級が集う社交場とは真反対の静寂。桃色の花びらがひらり、ひらり、と風にのって揺れている。
 蓮華はそれをしばし見つめると、幼いころに母親が歌ってくれた唄を思い起こした。

「眠れぬ子よ、ねんねんころり」

 口ずさむと、今は亡きの母親の面影が浮かぶ。

「おはなのかおりで、ねんねんこ」

 優しい人だった、と蓮華は目を細めた――その時。

「そこに誰かいるのか」

 枝垂れ桜の幹のそばでぼんやりと立ち尽くしていると、どこからか男の声が聞こえてきた。

 まるで春の風のよう。

 予期もしていなかった。

 その謹厳な声に蓮華ははっと肩を震わせ、恐る恐る振り返る。

「も、申し訳ございません!」

 敷地の外れであれ、ここは華族が集う社交場である。ただでさえこの場にふさわしくない人間であるというのに、ましてや人目を忍んで唄を歌ってしまった。

 姉たちの耳に伝われば、下品極まりない、ときつい仕打ちを受けるだろう。

 蓮華は俯いたままこの場を去ろうと身を翻す。

(いち早く去らねば。きっと、見苦しいと思われたはず)

 母親が仕立てた蓮華柄の着物の袖が、ひらりとなびいた。

「今に去りますので」
「――待て」

 だが、再び声がかかり、呼び止められる。蓮華は足をとめて振り返る。

 夜風にのって、ひらひらと桜が舞う。やがて、月明りに照らされた男の輪郭が浮かび上がった。はっと息をのむほどの美しさ。凍てつく氷のような瞳に、薄い唇。左目までかかる長い前髪。紺桔梗のしなやかな髪がさらさらと揺れる。

 大正の男児を象徴する軍服。威厳を示す肩章、そして、襟章には階級を示す刺繍がほどこされていた。