蓮華が無事に帰還すると、家令とはな子は泣きながらに出迎えた。冷え切った躰を温める必要があるということで、即座に風呂に連れられる。終始おどおどをする蓮華を見つめ、千桜は安堵の微笑を浮かべた。

 しばらく経ったのち、事態を聞きつけた藤三郎から電話が入った。一件についての謝罪と、美代は精神科病棟に入院することになったという報告があった。
 今回の件は黒薔薇嶺二が一枚噛んでいたとはいえ、火種は巴家側にある。これまで蓮華にしてきた仕打ちを思えば、今にでも家督を取り潰してやりたいところだが。
 それは蓮華が喜ばないだろうと思い、今後は巴家側からの蓮華への接触は一切許可しないという誓約を課すことで、巴家への処遇については不問とした。

 
 各方面への応対を済ませ、千桜は私室で書類に目を通す。
 廃屋の地下室で見た蓮華の花は、いったい何であったのか。黒薔薇嶺二の意味深な発言にしろ、妙に引っかかる。
 千桜は、蓮華を屋敷に連れ帰ってからもしばらく思案していた。

「……旦那様」

 襖の向こうから声がかかり、文机に広げていた書類から顔を上げる。蓮華が湯浴びを済ませたのだろう。

「入れ」

 ひとつ返事をすると、静かな音を立てて襖が開く。千桜は手にしていた書類を置き、ちらりと横目を向けた。

「この度はご心配をおかけしてしまい、申し訳ございませんでした」
「謝罪はいい。傷の具合はどうだ」

 千桜が尋ねると、蓮華はぐっと唇を結ぶ。

「……橘様に手当を施していただきました。痕も残らないだろうと」
「そうか」

 千桜の私室にてしばしの沈黙が流れた。どちらから口を開くべきか、互いの様子をうかがう雰囲気が胸をくすぐった。

「あの……旦那様」

 先に切り出したのは蓮華だった。

「どうして、あの場所が?」

 行き先も何も告げずに出てしまったのに、何故千桜は蓮華を探し当てられたのか。廃屋があった土地には何も縁がなかったのだ。

「お前が呼んでいた」
「私が……?」
「いや、正確にはお前の‟心″か」

(私の……心)

 黒薔薇嶺二と対峙していた時、蓮華は何度も千桜を思い浮かべていた。常に毅然とした態度で社会に挑む千桜のそばにいたいと願った。

「あの……私」
「とにかく、無事で何よりだ。まったく肝を冷やした」

 だが、今のところは迷惑しかかけていない。自分とのけじめのためと思い、美代の誘いについていったが、軽薄だった。

 まさか美代の背後に黒薔薇嶺二がいたとは思いもしなかった。おそらくは、黒薔薇嶺二は洗脳の術に長けているのだろう。
人間の心の闇につけこみ、玩具のように扱う。都合が悪くなれば、自死を命じて廃棄しているのだ。
悪意に満ちた瞳を思い浮かべるだけで寒気がした。

 それにしても、黒薔薇嶺二が蓮華に向けた言葉の意味が未だに理解できないでいる。蓮華は選ばれてなどいない。むしろ、神に見限られた存在なのに、と。

「お前とはじめて出会った夜に、口ずさんでいた歌だが」
「……はい」
「あれは、母親に聴かせてもらっていた子守唄だったな」

 千桜の問いかけにこくりと頷いた。千桜に聴かせるのはこれで二度目だった。ダンスホール‟カナリア‟では、いてもたってもいられずに途中で逃げ去ってしまったが。
 思えば、小鳥遊の屋敷の中で口にする機会もなかった。

「あの場で、不思議な光景を目にした。辺り一面に、蓮華の花が咲いていた」

 蓮華は何度か瞬きをして千桜を見つめる。

(蓮華の花……?)

 そのような摩訶不思議なものを出した覚えはない。ただ、歌いながら思い浮かべていただけだ。どうか美代の心が安らかになってほしいと願っただけだ。

「花の神の寵愛……」
「旦那様?」
「お前にも、もしかすると――」

 千桜の氷のような瞳が目の前にある。思案する様子を前にして、蓮華は緊張をした。

「あ、あの、旦那様」

 そうだ、こうしてはいられない。千桜の帰りを待ちながら、渡したいものがあったのだ。蓮華は思い立ったように言葉を切り出した。

「じ、実はお渡ししたいものが」

 このような時に不謹慎かもしれない。いや、無事に生き延びたからこそ、ほんの少しの時間さえも惜しくなる。

 蓮華が立ち上がろうとすると、千桜が静かに制してくる。

「渡したいものとは、これだろう」

 するとどうして、文机の引き出しから見覚えのある小袋が出てくるではないか。蓮華は訳も分からずに狼狽した。

「ど、どうしてそれを!」
「出立時に、形見だと言わんばかりにはな子から手渡された」
「は、はな子さんったら!」
「一度受け取ってしまったが、もう一度お前の手から渡してくれるか?」

 千桜は眉を下げて小さく笑った。普段は少しも口角を上げないのに、と蓮華の胸は熱くなる。

 ハンケチが入った小袋が蓮華の手元に戻される。近頃蓮華の心臓は可笑しいのだ。千桜を思うと、異常なほどに脈を打つ。

「……だ、旦那様」
「ああ」

 伝えたいことがたくさんあったはずだ。はじめて、人のあたたかさを知った。はじめて、想われることを知った。今の蓮華には、千桜に向けるこの気持ちの正体が理解できている。

「これからも、ご迷惑をたくさんおかけするかもしれません。今回の件も、私の安直さが招いたこと。本当にふがいない人間で、とてもじゃないけれど旦那様のようなご立派な男性には釣り合わないでしょう――しかし」

 どうしても、譲れない。

 ――はじめて、欲を抱いた。

「私はおそばにいたいのです。今は釣り合わなくとも、努力をして、いつか……そんな旦那様の隣に堂々と並べるような女性になりたい。そんな夢を抱いてしまっているのです」

 大正の世の混沌を象徴する楽園で、蓮華と千桜は出会った。その出会いは偶然か、それとも花の神の導きか。

「そ、その、わ、私は」
「……ああ」
「私は、小鳥遊千桜様を心から……お慕いしております」

 伝えると、千桜が優しく微笑む。顔が燃えるように熱くなったが、つられるようにして、蓮華の口元も緩んだ。

 これは、優しくあたたかい愛を知る話。

 庭先に咲く桜の花びらが、ひらひらと舞い降りた。


【完】