二
「お姉さまお姉さま、こちらなんていかがかしら。お花のブローチがかわいらしくて、きっとお似合いよ」
「もお~、どれも素敵で迷ってしまうわ。だって、ダンスホール‟カナリア‟の支配人からまさか夜会の招待状が届くなんて、夢にも思わないじゃない!」
その日の巴家はいつになく騒がしかった。蓮華が屋敷の床掃除をしていると、姉たちの高らかな笑い声が聞こえてくる。
先日、巴家に一通の招待状が届いた。送り主は、帝都随一のダンスホール‟カナリア‟の支配人からであった。
‟カナリア‟は華族をはじめとする上流階級の社交場であり、財政界の要人たちも頻繁に使用している。また、特別な接待を受けられる貴賓室も設けられていて、不夜城としても有名であった。
蓮華はダンスホールがいったいどんな場所なのかを知らない。尋常小学校にも通わせてもらえなかった蓮華は、屋敷の外の世界をまるで知らなかった。今となっては、興味をいだく気力もない。
母親が死んで九年が経った。なんの後ろ盾もないままに十九になり、これ以上まともに仕事ができないようだと、いっそどこかへ売り飛ばされてしまうやもしれない。
蓮華は日々をどうにかして生きぬくことで精いっぱいだった。
「どうしましょう。うんとかわいくしていかないといけないわね」
「あーん、待ちきれない! 素敵な殿方とお知り合いになって、お母様を喜ばせてさしあげないと!」
蓮華はダンスホール‟カナリア‟で誰がどのような行為をするのかも知らなかったが、姉たちの興奮ぎみな会話から、ある程度の情報は頭の中に入ってくる。だが、そのどれもが自分には身に覚えのない内容だ。聞き耳を立てるつもりもなく、蓮華は床掃除に集中した。
「このドレスはどうかしら」
「それはすこし古臭くはないかしら? せっかくの舞踏会ですもの。もっと大胆にならないと」
「それもそうねえ、時は大正! いつまでも時代遅れな恰好をしていては、きっと笑われてしまうもの」
口元に手を添えてクスクスと笑う千代は、床掃除をしている蓮華へと視線を向ける。
「ああ……それにしても、うちの下女は時代遅れも甚だしいこと……なんてみすぼらしいの」
「いつまでも割烹着を着ているような溝鼠と半分血を分けているだなんて……お前は一族の恥じ晒しだわ」
廊下の木目を拭いていると、いきなりドン!と蹴り飛ばされた。バケツが倒れ、中に入っていた水が辺り一面に広がった。蓮華はその場に尻もちをついたが、すかさず姿勢を正して平謝りをした。
「あらあ、どんくさいこと」
「申し訳ございません……」
「いい? この招待状は、私たち姉妹に当てられたの。‟巴家のお嬢様方‟の中に、お前は入っていないのよ」
「……仰るとおりで、ございます」
感情のない声で肯定をすると、喜代が鼻で笑った。
「でも実のところはどうかしら。あの汚らしい使用人の娘だものね。思いあがっているかもしれないわよ、お姉さま」
蓮華は床に額をこすりつける。いつからか痛みや悲しみ、憤りを感じなくなった。期待を抱かなくなった。
母親が首を吊って死んでいる光景を目の当たりにした際、蓮華は大きな喪失感を得た。唯一優しかったはずの母親に、己の生を否定されたようだったからだ。抱く感情は‟無‟。明日を生きられるのなら、殴られても、蹴り飛ばされても、もうなにも感じなくなった。
「そうねえ……ああ、妙案を思いついたわ」
千代はゆるりとほくそ笑み、濡れた床の上で土下座をする蓮華を見下ろした。
「特別に、お前を‟カナリア‟の夜会へ連れていってあげましょう」
「お姉さま?」
「もちろん、巴家の令嬢としてではなく、私たちの下女として連れていくのよ? そう、あくまでも私たちの引き立て役としてね」
「お姉さまお姉さま、こちらなんていかがかしら。お花のブローチがかわいらしくて、きっとお似合いよ」
「もお~、どれも素敵で迷ってしまうわ。だって、ダンスホール‟カナリア‟の支配人からまさか夜会の招待状が届くなんて、夢にも思わないじゃない!」
その日の巴家はいつになく騒がしかった。蓮華が屋敷の床掃除をしていると、姉たちの高らかな笑い声が聞こえてくる。
先日、巴家に一通の招待状が届いた。送り主は、帝都随一のダンスホール‟カナリア‟の支配人からであった。
‟カナリア‟は華族をはじめとする上流階級の社交場であり、財政界の要人たちも頻繁に使用している。また、特別な接待を受けられる貴賓室も設けられていて、不夜城としても有名であった。
蓮華はダンスホールがいったいどんな場所なのかを知らない。尋常小学校にも通わせてもらえなかった蓮華は、屋敷の外の世界をまるで知らなかった。今となっては、興味をいだく気力もない。
母親が死んで九年が経った。なんの後ろ盾もないままに十九になり、これ以上まともに仕事ができないようだと、いっそどこかへ売り飛ばされてしまうやもしれない。
蓮華は日々をどうにかして生きぬくことで精いっぱいだった。
「どうしましょう。うんとかわいくしていかないといけないわね」
「あーん、待ちきれない! 素敵な殿方とお知り合いになって、お母様を喜ばせてさしあげないと!」
蓮華はダンスホール‟カナリア‟で誰がどのような行為をするのかも知らなかったが、姉たちの興奮ぎみな会話から、ある程度の情報は頭の中に入ってくる。だが、そのどれもが自分には身に覚えのない内容だ。聞き耳を立てるつもりもなく、蓮華は床掃除に集中した。
「このドレスはどうかしら」
「それはすこし古臭くはないかしら? せっかくの舞踏会ですもの。もっと大胆にならないと」
「それもそうねえ、時は大正! いつまでも時代遅れな恰好をしていては、きっと笑われてしまうもの」
口元に手を添えてクスクスと笑う千代は、床掃除をしている蓮華へと視線を向ける。
「ああ……それにしても、うちの下女は時代遅れも甚だしいこと……なんてみすぼらしいの」
「いつまでも割烹着を着ているような溝鼠と半分血を分けているだなんて……お前は一族の恥じ晒しだわ」
廊下の木目を拭いていると、いきなりドン!と蹴り飛ばされた。バケツが倒れ、中に入っていた水が辺り一面に広がった。蓮華はその場に尻もちをついたが、すかさず姿勢を正して平謝りをした。
「あらあ、どんくさいこと」
「申し訳ございません……」
「いい? この招待状は、私たち姉妹に当てられたの。‟巴家のお嬢様方‟の中に、お前は入っていないのよ」
「……仰るとおりで、ございます」
感情のない声で肯定をすると、喜代が鼻で笑った。
「でも実のところはどうかしら。あの汚らしい使用人の娘だものね。思いあがっているかもしれないわよ、お姉さま」
蓮華は床に額をこすりつける。いつからか痛みや悲しみ、憤りを感じなくなった。期待を抱かなくなった。
母親が首を吊って死んでいる光景を目の当たりにした際、蓮華は大きな喪失感を得た。唯一優しかったはずの母親に、己の生を否定されたようだったからだ。抱く感情は‟無‟。明日を生きられるのなら、殴られても、蹴り飛ばされても、もうなにも感じなくなった。
「そうねえ……ああ、妙案を思いついたわ」
千代はゆるりとほくそ笑み、濡れた床の上で土下座をする蓮華を見下ろした。
「特別に、お前を‟カナリア‟の夜会へ連れていってあげましょう」
「お姉さま?」
「もちろん、巴家の令嬢としてではなく、私たちの下女として連れていくのよ? そう、あくまでも私たちの引き立て役としてね」