小さくため息を吐き捨てた千桜を、蓮華は静かに見つめる。
蓮華には想像もつかぬ世界だ。そのような特殊な見え方をしていながらも、千桜は極めて平静な振る舞いをしている。当主としての矜持でもあったのか、千桜は弱みを見せないのだ。
蓮華は驚いたが、同時に胸の中に形容しがたいあたたかさを感じた。この気持ちは何だろう。名前は、分からなかった。
「嘘をついている人間の色。悪事を働こうとする人間の色。私にはすべて見えてしまうため、母は余計に気味悪がった」
「……旦那様」
「すまなかった。こんな話をしても、楽しくはないだろう」
蓮華はとっさに首を横に振った。千桜は疎ましいとばかりに話しているが、蓮華にはやはりそうは思えなかった。
桜の神が与えたとする千桜の左眼。それはただのいたずらだったのか。本当に煩わしいものなのか。いや、違うだろう。おそらくは、何か意味があるのではないか――と、蓮華は弁明をしたかった。
「旦那様は、ご立派だと思います」
なぜか。なぜか。蓮華にはまだ分からない。
この胸のあたたかさは何であるのか。そして何よりも、千桜の苦悩を自分も知っているような気がした。
「私の母は、おそらく、これ以上見たくないものに蓋をして……逃げたのです」
「……」
「死んで、私の生を詫びました」
縄紐でかろうじて引っかかっているだけの亡骸が、目の前にぶら下がっている。蓮華は大きな喪失感を覚え、奈落の底に落ちてゆく感覚があった。
――おそらくは、悲しかった。悔しかった。許せなかった。怒りたかった。だけど、それができなかった。
「あまりに、呆気なかった……。受け入れるしかなかった」
「……」
「そういった意味では、私も、おそらくは母と同様に現実から逃げたのでしょう」
義母の美代は、百合子の遺体を見て鼻で笑った。死んだ百合子の代わりに罵られるごとに、わずかに残っていた感情が消え失せてゆく。
どうして、どうして、どうして、どうして。
本当は、嘆きたかったのに。
「けれど旦那様は、力強く生きておられる。この……決して散らぬ桜の木のように。だから、私はその瞳を素敵だと……思うのです」
気づけは、蓮華の瞳には涙が浮かんでいた。母の遺体を発見した時にも、焼却炉で燃やされる光景を眺めていた時にも流したことはなかった涙。
なぜ、今なのだろう。
蓮華は訳も分からず、目元を手の甲で擦る。
「……そうか」
千桜はそっと指を伸ばすと、蓮華の涙を優しくぬぐった。
「申し訳ございません。あの、今に止め」
「止めなくていい」
「え……」
「泣きたいのなら、泣いていい。痛いのなら、痛いと叫べばいい」
千桜がそう言うと、夜風にのって桜がぶわぁと吹き荒れた。
眩く輝く桜色の左眼が、蓮華を捕らえる。
「誰にでも、その権利がある」
「旦那様……」
「蓮華――おまえにもだ」
熱い。息苦しい。なぜこれまでに、脈拍が上がっているのか。
「おまえは醜くなければ、汚くもない。生きることを後ろめたいと思うな」
この気持ちはなんなのか。頭の中によぎるのは‟愛する‟の文字。辞書で引いても理解できなかった言葉が、今、胸の中を何度も反芻している。
「出会った頃から思っていた。おまえの心は――美しい色をしている」
――あいすること。
蓮華はそれを分かりかけた気がした。
蓮華には想像もつかぬ世界だ。そのような特殊な見え方をしていながらも、千桜は極めて平静な振る舞いをしている。当主としての矜持でもあったのか、千桜は弱みを見せないのだ。
蓮華は驚いたが、同時に胸の中に形容しがたいあたたかさを感じた。この気持ちは何だろう。名前は、分からなかった。
「嘘をついている人間の色。悪事を働こうとする人間の色。私にはすべて見えてしまうため、母は余計に気味悪がった」
「……旦那様」
「すまなかった。こんな話をしても、楽しくはないだろう」
蓮華はとっさに首を横に振った。千桜は疎ましいとばかりに話しているが、蓮華にはやはりそうは思えなかった。
桜の神が与えたとする千桜の左眼。それはただのいたずらだったのか。本当に煩わしいものなのか。いや、違うだろう。おそらくは、何か意味があるのではないか――と、蓮華は弁明をしたかった。
「旦那様は、ご立派だと思います」
なぜか。なぜか。蓮華にはまだ分からない。
この胸のあたたかさは何であるのか。そして何よりも、千桜の苦悩を自分も知っているような気がした。
「私の母は、おそらく、これ以上見たくないものに蓋をして……逃げたのです」
「……」
「死んで、私の生を詫びました」
縄紐でかろうじて引っかかっているだけの亡骸が、目の前にぶら下がっている。蓮華は大きな喪失感を覚え、奈落の底に落ちてゆく感覚があった。
――おそらくは、悲しかった。悔しかった。許せなかった。怒りたかった。だけど、それができなかった。
「あまりに、呆気なかった……。受け入れるしかなかった」
「……」
「そういった意味では、私も、おそらくは母と同様に現実から逃げたのでしょう」
義母の美代は、百合子の遺体を見て鼻で笑った。死んだ百合子の代わりに罵られるごとに、わずかに残っていた感情が消え失せてゆく。
どうして、どうして、どうして、どうして。
本当は、嘆きたかったのに。
「けれど旦那様は、力強く生きておられる。この……決して散らぬ桜の木のように。だから、私はその瞳を素敵だと……思うのです」
気づけは、蓮華の瞳には涙が浮かんでいた。母の遺体を発見した時にも、焼却炉で燃やされる光景を眺めていた時にも流したことはなかった涙。
なぜ、今なのだろう。
蓮華は訳も分からず、目元を手の甲で擦る。
「……そうか」
千桜はそっと指を伸ばすと、蓮華の涙を優しくぬぐった。
「申し訳ございません。あの、今に止め」
「止めなくていい」
「え……」
「泣きたいのなら、泣いていい。痛いのなら、痛いと叫べばいい」
千桜がそう言うと、夜風にのって桜がぶわぁと吹き荒れた。
眩く輝く桜色の左眼が、蓮華を捕らえる。
「誰にでも、その権利がある」
「旦那様……」
「蓮華――おまえにもだ」
熱い。息苦しい。なぜこれまでに、脈拍が上がっているのか。
「おまえは醜くなければ、汚くもない。生きることを後ろめたいと思うな」
この気持ちはなんなのか。頭の中によぎるのは‟愛する‟の文字。辞書で引いても理解できなかった言葉が、今、胸の中を何度も反芻している。
「出会った頃から思っていた。おまえの心は――美しい色をしている」
――あいすること。
蓮華はそれを分かりかけた気がした。