「勝手に言わせておけ。それに、お前はうつ――」
あ、と口元に手を当てて、千桜はそれきり押し黙る。
「旦那様?」
「いや……なんでもない」
再び歩き始める時には、蓮華と千桜は歩幅をあわせて並んでいる。
帝都の街を歩く者たちは、シャツにズボン、スカートといったモダンな洋服をしている者がほとんどだ。だが蓮華は、買い与えられたそれらを身に着けずに、持参してきた着物に袖を通してしまう。どうにも、己にはもったいない気がしてしまうのだ。
「あの、旦那様」
「なんだ」
自動車のライトが蓮華と千桜を照らす。
「小鳥遊邸では、お一人で暮らしていらっしゃるのですか?」
蓮華から質問を投げかけるなど、失礼にあたるかもしれないと思った。だが、もし蓮華が顔を合わせていないだけで同居家族がいるのならば、一度挨拶をしておかねば不躾である。
問いかける蓮華を一瞥し、千桜は目を細めた。
「ああ。傍仕えはいるが、私一人だ」
「そうでございますか……」
「十五の頃から、住んでいる。あの家は亡くなった祖母の遺産なのだが、自立するというのは建前で、体よく実家を追い出されたのだろう」
そして千桜は、自身の左眼へとそっと手のひらを重ねた。
「母は、この眼を見るのがおぞましいらしい」
蓮華は、黙ったまま千桜を見つめた。
「ずっと、私を産んだことを悔やんでいた。呪われた子だと罵り、ついには気を病んでしまった」
昼間に家令から聞いた話を思い起こす。
(顔には出さないけれど、さぞご苦労があったのでしょう)
蓮華も、実の母親に目の前で先立たれた時に大きな喪失感を得た。地の底に落ちていく感覚。‟死んでお詫びいたします‟と書かれた紙を見て、自分がこの世に生を受けてはいけなかった存在だと思い知らされた。
すがっていた。唯一の心の頼りだった。変わり果てた母親は、使用人に米俵のように担がれて、焼却炉の中に押し込まれた。蓮華はその場に立ち尽くし、燃えゆく炎をただ眺めるのみであった。
「あの唄は……」
蓮華はゆっくりと口を開く。
「あの夜、‟カナリア‟で口ずさんでいた唄は、昔母が聴かせてくれた子守歌なのです」
巴家にたった一人残されたあとは地獄だった。義母や姉たちに虐げられ、さまざまな感情が消えていった。だが、そんな中でも、かつて母親が聴かせてくれた子守歌だけは蓮華の胸の中に残っていたのだ。
「そうか、お母上の……」
「はい。ですので、本当に他人様に聴かせるようなものではありませんでした」
合唱用の歌ではなく、一般庶民の子守唄だ。軍人将校である千桜には到底聴かせられなかった。そればかりか、蓮華は歌に自信がない。
名を尋ねられ、とっさに逃げ帰ってしまった無礼を考えると、蓮華の表情は一層曇る。
「お母上は、すでに他界されていると聞いたが……」
「はい」
おそらくは、死の詳細も千桜は知っているのだろうと蓮華は思った。
「朝目覚めると、母は私の目の前で首を吊って死んでおりました。私を産んだことを、死んで、詫びたのです」
蓮華は遠くで輝いているガス灯の光を見つめる。
蓮華はこれまで、母親の死を他人に語ったことはなかった。そもそも、蓮華が関わるのは巴家の人間のみ。
友人もいなければ、恋人と呼べる者もいなかった。
また、特段話したいと思うこともなかったのだ。誰にも明かさず、痛みや悲しみ、憂いごと心に蓋をした。
だが、なぜ千桜に打ち明けたのか。他人とまともな会話すらしたことがなかった蓮華にとって、己をさらけ出した相手は、千桜がはじめてだった。
「さぞ辛かっただろうな」
千桜の抑揚のない声が蓮華の鼓膜を揺らす。
(辛い……)
蓮華はいつからか感情が分からなくなっていたため、当時の記憶をたどるのは難しい。ひどい喪失感を覚えたのはたしかだが、蓮華は母親が死んでからというもの、一度も泣いたことがなかったのだ。
「母は真に、私を産んだことを悔やんだのでしょう。だから、自ら命を絶った。巴家の皆さまに、償った。私は、それを受け止めるしかないのです」
感情が欠落している。淡々と口にする蓮華を見て、千桜は小さく息を吐く。
「甚だおかしい世だ」
「おかしい?」
蓮華がきき返すと、千桜は大きくため息をついた。
「人を人とも思わぬ、傲りの塊がそこら中に沸いている。思うに、このような腐った階級制度は、今に撤廃されるべきだろう」
「そのような、こと」
「……何度も上奏しているのだがな。一筋縄ではいかない」
蓮華は、じっと千桜を見つめる。今まで蓮華の周りには、階級制度そのものを否定する者はいなかった。誰もが特権に酔いしれ、これを保持することを美徳としていた。天上天下の世界があるのは当たり前であり、一般庶民として――それも禁忌の子として生をうけた蓮華は、一生をかけて彼らにつき従わねばならぬのだと思っていた。
だが。
千桜は違うという。まるで、桜吹雪のように。わあっと吹き荒れ、蓮華の胸の中に入ってくる。なぜだろう。今、この瞬間、蓮華は隠れている千桜の左眼が見たいと思ってしまった。
「せめてお前くらいは、お前自身を愛してやれ……というのは、難しいかもしれないが」
千桜の言葉は、冷え切った蓮華の心を少しずつ溶かしてゆく。抑揚がなく、ひどく淡々としているそれが、どうにも蓮華には心地が良かった。
「愛す……」
「生まれるべきではない命など、どこにもないのだ」
涼しい夜風が吹き付ける。
「もし自愛できぬというのなら、私がお前の分まで――愛してやると誓おう」
あ、と口元に手を当てて、千桜はそれきり押し黙る。
「旦那様?」
「いや……なんでもない」
再び歩き始める時には、蓮華と千桜は歩幅をあわせて並んでいる。
帝都の街を歩く者たちは、シャツにズボン、スカートといったモダンな洋服をしている者がほとんどだ。だが蓮華は、買い与えられたそれらを身に着けずに、持参してきた着物に袖を通してしまう。どうにも、己にはもったいない気がしてしまうのだ。
「あの、旦那様」
「なんだ」
自動車のライトが蓮華と千桜を照らす。
「小鳥遊邸では、お一人で暮らしていらっしゃるのですか?」
蓮華から質問を投げかけるなど、失礼にあたるかもしれないと思った。だが、もし蓮華が顔を合わせていないだけで同居家族がいるのならば、一度挨拶をしておかねば不躾である。
問いかける蓮華を一瞥し、千桜は目を細めた。
「ああ。傍仕えはいるが、私一人だ」
「そうでございますか……」
「十五の頃から、住んでいる。あの家は亡くなった祖母の遺産なのだが、自立するというのは建前で、体よく実家を追い出されたのだろう」
そして千桜は、自身の左眼へとそっと手のひらを重ねた。
「母は、この眼を見るのがおぞましいらしい」
蓮華は、黙ったまま千桜を見つめた。
「ずっと、私を産んだことを悔やんでいた。呪われた子だと罵り、ついには気を病んでしまった」
昼間に家令から聞いた話を思い起こす。
(顔には出さないけれど、さぞご苦労があったのでしょう)
蓮華も、実の母親に目の前で先立たれた時に大きな喪失感を得た。地の底に落ちていく感覚。‟死んでお詫びいたします‟と書かれた紙を見て、自分がこの世に生を受けてはいけなかった存在だと思い知らされた。
すがっていた。唯一の心の頼りだった。変わり果てた母親は、使用人に米俵のように担がれて、焼却炉の中に押し込まれた。蓮華はその場に立ち尽くし、燃えゆく炎をただ眺めるのみであった。
「あの唄は……」
蓮華はゆっくりと口を開く。
「あの夜、‟カナリア‟で口ずさんでいた唄は、昔母が聴かせてくれた子守歌なのです」
巴家にたった一人残されたあとは地獄だった。義母や姉たちに虐げられ、さまざまな感情が消えていった。だが、そんな中でも、かつて母親が聴かせてくれた子守歌だけは蓮華の胸の中に残っていたのだ。
「そうか、お母上の……」
「はい。ですので、本当に他人様に聴かせるようなものではありませんでした」
合唱用の歌ではなく、一般庶民の子守唄だ。軍人将校である千桜には到底聴かせられなかった。そればかりか、蓮華は歌に自信がない。
名を尋ねられ、とっさに逃げ帰ってしまった無礼を考えると、蓮華の表情は一層曇る。
「お母上は、すでに他界されていると聞いたが……」
「はい」
おそらくは、死の詳細も千桜は知っているのだろうと蓮華は思った。
「朝目覚めると、母は私の目の前で首を吊って死んでおりました。私を産んだことを、死んで、詫びたのです」
蓮華は遠くで輝いているガス灯の光を見つめる。
蓮華はこれまで、母親の死を他人に語ったことはなかった。そもそも、蓮華が関わるのは巴家の人間のみ。
友人もいなければ、恋人と呼べる者もいなかった。
また、特段話したいと思うこともなかったのだ。誰にも明かさず、痛みや悲しみ、憂いごと心に蓋をした。
だが、なぜ千桜に打ち明けたのか。他人とまともな会話すらしたことがなかった蓮華にとって、己をさらけ出した相手は、千桜がはじめてだった。
「さぞ辛かっただろうな」
千桜の抑揚のない声が蓮華の鼓膜を揺らす。
(辛い……)
蓮華はいつからか感情が分からなくなっていたため、当時の記憶をたどるのは難しい。ひどい喪失感を覚えたのはたしかだが、蓮華は母親が死んでからというもの、一度も泣いたことがなかったのだ。
「母は真に、私を産んだことを悔やんだのでしょう。だから、自ら命を絶った。巴家の皆さまに、償った。私は、それを受け止めるしかないのです」
感情が欠落している。淡々と口にする蓮華を見て、千桜は小さく息を吐く。
「甚だおかしい世だ」
「おかしい?」
蓮華がきき返すと、千桜は大きくため息をついた。
「人を人とも思わぬ、傲りの塊がそこら中に沸いている。思うに、このような腐った階級制度は、今に撤廃されるべきだろう」
「そのような、こと」
「……何度も上奏しているのだがな。一筋縄ではいかない」
蓮華は、じっと千桜を見つめる。今まで蓮華の周りには、階級制度そのものを否定する者はいなかった。誰もが特権に酔いしれ、これを保持することを美徳としていた。天上天下の世界があるのは当たり前であり、一般庶民として――それも禁忌の子として生をうけた蓮華は、一生をかけて彼らにつき従わねばならぬのだと思っていた。
だが。
千桜は違うという。まるで、桜吹雪のように。わあっと吹き荒れ、蓮華の胸の中に入ってくる。なぜだろう。今、この瞬間、蓮華は隠れている千桜の左眼が見たいと思ってしまった。
「せめてお前くらいは、お前自身を愛してやれ……というのは、難しいかもしれないが」
千桜の言葉は、冷え切った蓮華の心を少しずつ溶かしてゆく。抑揚がなく、ひどく淡々としているそれが、どうにも蓮華には心地が良かった。
「愛す……」
「生まれるべきではない命など、どこにもないのだ」
涼しい夜風が吹き付ける。
「もし自愛できぬというのなら、私がお前の分まで――愛してやると誓おう」