小鳥遊邸の敷地外に出ると、閑静な住宅街が広がっている。
華族の邸宅や、帝都大学の学生たちが住んでいるアパートメント。自動車が往来し、中からほろ酔いの男女が出てくる場面。学生運動をしているのか、学帽とマント姿の学生たちも見受けられた。
蓮華は、ぼうっと辺りを見回した。思えば、あの晩餐会をのぞいて、夜に出歩いたことがなかったのだ。
「最近は学生運動が盛んだな」
「……学生運動」
「近頃の政治はよくない。だから学生たちは、ああやって抗議をしているんだ」
蓮華は、このような時に己の無力さを痛感する。世俗をあまりに知らない出来損ないの人間なのだ。本来ならば、街中をともに歩けるような人間ではない。
蓮華は、俯きながら千桜の半歩後方を歩いた。
千桜の紺桔梗色の髪がしなやかに揺れている。糸のように細く、痛みひとつない綺麗な髪だ。
「民主主義と宣いながらも、政の実権を握っているのは結局のところ華族なのだ。貴族院などと……馬鹿馬鹿しい」
千桜がため息をつく。蓮華は黙ったまま、先を進む主人のあとをついて歩く。
「すまない。つまらん愚痴だ」
「いえ……旦那様は、ご立派でございます」
自動車が走り抜けてゆく。千桜はさりげなく車道側に立った。
「ずいぶんと買いかぶられているな」
「そのようなことはございません……! お国のために、軍人様としてご立派にお勤めされております。私にはとても……」
前方を歩いている千桜の背中を見つめる。
「そうか」
「……はい」
蓮華は、夜道を歩きながら終始そわそわしていた。千桜とは婚約をしている仲ではあるが、婚前の男と女が公共の場を歩くとは。
しかもついて歩いているのは、気品あふれる令嬢ではなく、蓮華のような地味な女だ。せめて、千桜が指をさされて笑われることのないよう、差支えのない距離を保った。
「最近は、どうだ」
「え」
「こちらに越してきて、一週間ほど経つな。顔色がずいぶんとよくなった」
急に話題を振られて、蓮華は肩を震わせた。
蓮華は、毎日三食食べさせてもらっている。そればかりでなく、巴家では許可されなかった入浴も毎日。夜はあたたかく柔らかい布団で眠ることができ、巴家で酷使していた蓮華の躰は日に日に回復していった。
「あの、私はとても……ご厚意に見合った働きをしていないのです」
「そんなこと、考えずともよい」
「なりません。ただお世話になるだけでは……私の気が、とても」
近くの邸宅から高らかな笑い声が聞こえてくる。この辺りは、大きな屋敷が多く建ち並んでいる。おそらくは華族の持ち家だろう。蓮華は無意識に千桜と距離をとって歩いた。
「私は、お前に見返りを求めているわけではないのが」
「……」
「ただ――私は、帰宅した時にお前が出迎えてくれるだけで十分だと思っている」
少し先で千桜が立ち止まり、振り返る。蓮華の足取りが遅くなる一方であることに、千桜は気づいていた。
「え……」
蓮華はふと立ち止まる。ガス灯が千桜を美しく縁取った。
「すまない。歩く速さを合わせるべきだった」
千桜は蓮華のもとまで歩み寄ると、隣に並んで再び歩き始めようとする。
「あ、あの」
「なんだ」
「妙齢の男女が夜道で並んで歩くなど、ましてや軍人将校であられる旦那様の心証を悪くしてしまうのではないでしょうか」
蓮華がとっさにうつむくと、再び頭上からため息が聞こえてくる。
「近いうちに夫婦となる相手と歩いていて何が悪い」
「で、ですが、相手が私のような女だと知れたら、社交場での旦那様のご評判にかかわるのでは」
華族の邸宅や、帝都大学の学生たちが住んでいるアパートメント。自動車が往来し、中からほろ酔いの男女が出てくる場面。学生運動をしているのか、学帽とマント姿の学生たちも見受けられた。
蓮華は、ぼうっと辺りを見回した。思えば、あの晩餐会をのぞいて、夜に出歩いたことがなかったのだ。
「最近は学生運動が盛んだな」
「……学生運動」
「近頃の政治はよくない。だから学生たちは、ああやって抗議をしているんだ」
蓮華は、このような時に己の無力さを痛感する。世俗をあまりに知らない出来損ないの人間なのだ。本来ならば、街中をともに歩けるような人間ではない。
蓮華は、俯きながら千桜の半歩後方を歩いた。
千桜の紺桔梗色の髪がしなやかに揺れている。糸のように細く、痛みひとつない綺麗な髪だ。
「民主主義と宣いながらも、政の実権を握っているのは結局のところ華族なのだ。貴族院などと……馬鹿馬鹿しい」
千桜がため息をつく。蓮華は黙ったまま、先を進む主人のあとをついて歩く。
「すまない。つまらん愚痴だ」
「いえ……旦那様は、ご立派でございます」
自動車が走り抜けてゆく。千桜はさりげなく車道側に立った。
「ずいぶんと買いかぶられているな」
「そのようなことはございません……! お国のために、軍人様としてご立派にお勤めされております。私にはとても……」
前方を歩いている千桜の背中を見つめる。
「そうか」
「……はい」
蓮華は、夜道を歩きながら終始そわそわしていた。千桜とは婚約をしている仲ではあるが、婚前の男と女が公共の場を歩くとは。
しかもついて歩いているのは、気品あふれる令嬢ではなく、蓮華のような地味な女だ。せめて、千桜が指をさされて笑われることのないよう、差支えのない距離を保った。
「最近は、どうだ」
「え」
「こちらに越してきて、一週間ほど経つな。顔色がずいぶんとよくなった」
急に話題を振られて、蓮華は肩を震わせた。
蓮華は、毎日三食食べさせてもらっている。そればかりでなく、巴家では許可されなかった入浴も毎日。夜はあたたかく柔らかい布団で眠ることができ、巴家で酷使していた蓮華の躰は日に日に回復していった。
「あの、私はとても……ご厚意に見合った働きをしていないのです」
「そんなこと、考えずともよい」
「なりません。ただお世話になるだけでは……私の気が、とても」
近くの邸宅から高らかな笑い声が聞こえてくる。この辺りは、大きな屋敷が多く建ち並んでいる。おそらくは華族の持ち家だろう。蓮華は無意識に千桜と距離をとって歩いた。
「私は、お前に見返りを求めているわけではないのが」
「……」
「ただ――私は、帰宅した時にお前が出迎えてくれるだけで十分だと思っている」
少し先で千桜が立ち止まり、振り返る。蓮華の足取りが遅くなる一方であることに、千桜は気づいていた。
「え……」
蓮華はふと立ち止まる。ガス灯が千桜を美しく縁取った。
「すまない。歩く速さを合わせるべきだった」
千桜は蓮華のもとまで歩み寄ると、隣に並んで再び歩き始めようとする。
「あ、あの」
「なんだ」
「妙齢の男女が夜道で並んで歩くなど、ましてや軍人将校であられる旦那様の心証を悪くしてしまうのではないでしょうか」
蓮華がとっさにうつむくと、再び頭上からため息が聞こえてくる。
「近いうちに夫婦となる相手と歩いていて何が悪い」
「で、ですが、相手が私のような女だと知れたら、社交場での旦那様のご評判にかかわるのでは」