「失礼いたします。旦那様」

 日が落ち、千桜が軍部より帰宅すると、居間で夕食をとった。普段と変わらず、交わされる言葉はなかったが、夜中になって私室に呼ばれた。

 襖をあけ、深く頭を下げる。顔を上げると、文机の前に腰を下ろしている千桜の姿があった。文書に視線を落としたまま、「入っていい」と告げる。

 蓮華は中に入り、襖を閉める。何か粗相をしたのではないか、と少しばかり狼狽したが、千桜の表情はいたって通常通りだ。

「今日は、花を生けたようだな」
「……は、はい。ですが、うまくゆきませんでした。申し訳ございません」

 とっさに蓮華が謝罪すると、千桜はふと文書から視線を上げる。

「はじめてにしては、上出来だと思ったが」
「ご、ご覧になられたのですか」
「なんだ、見てはいけないのか」

 蓮華は畳を見つめたまま、生唾をのんだ。

(あのような見苦しいものを……きっと、ご不快になられたはず)

 巴家で下女をしていた時は、勝手に蓮華が花を飾っただけで叱責されたものだ。花瓶の中身を頭の上からかけられることは日常茶飯事であった。

「私は褒めているつもりなのだが」
「え……」

 慌ててひれ伏すと、頭上からため息が聞こえてくる。

「そう軽々しく謝罪をするな」
「申し訳──」

 蓮華が顔を上げると、千桜が躰の向きを変えている。お互いに向き合うようにして、その場に座している。

「自分を安売りしない。これは、生きるうえで最も大事にすべき矜持だ」
「は……い……」

 蓮華は、千桜の氷のごとき瞳をぼうっと見つめた。

「それからあの生け花だが、私の私室に飾ろうと思うのだが」
「えっ、あのっ……それはっ!」

 恐る恐る口を開くと、千桜は無表情のままに蓮華を見る。

「あまりに不出来ではと……。これは、私自身を下げているのではなく、単純に恥ずかしいのでございます」

 高貴な千桜の私室に、己が生けた不格好な花が飾られるとは……と震え上がった。

 生け花は、帰宅をして私室に入った時に一番はじめに目に入る。

 文机で書物に目を通している時や、夜眠る際に灯りを消す時、そして朝目覚めた時。千桜の日常生活に入り込む花が、粗末なものであっていいはずがない。

「あの、私などが烏滸がましく……失礼いたしました」
「いや」
「……」
「そうか、ならば無理強いはしない。満足のいくものができたら、私に見せなさい」

 そう言って、千桜は立ち上がり、壁にかけてあった羽織を肩にかけた。

「少し外を歩くか」

 蓮華はおずおずと腰をあげ、千桜のあとをついていく。

 輿入れをしてからというもの、千桜とは必要最低限の会話しか交わしていなかった。
 私室に呼ばれることは何度かあったが、その日何をしていたのかを報告するのみ。一通り蓮華が話し終えると「そうか」と返答があるだけで、何もすることなくそのまま自室に帰される。

 千桜は日々忙しくしている。帝国陸軍少佐という立場もあり、帰宅後も書類の山と向き合っている場面がしばしばある。
 本来であればほんの一秒ですら惜しむべきところだ。
 千桜の時間は国のためにある。

 それなのに、蓮華のために時間を割かせてしまっている。唐突に後ろめたい気持ちになった。