「忘れられなかった、と伝えたはずだ」

 千桜の抑揚のない声が、静まり返った居間によく響く。

「妻に迎えるならば、其方がいいと思った」
「……」
「それに私は、皆が羨むような人間ではないのだ」

 千桜はそっと口にすると、縁側の外を眺めた。

「疎まれながらに育った、というのならば、私もそう変わらない」

 視線の先には枝垂れ桜が咲いている。
 鮮やかなまでの桃色。樹齢いくばくになるのか、幹がずっしりと太い。おそらくは、この家を長い間見守ってきたのだろう。

 春を迎え、夏を迎え、秋を迎え、冬を迎え、何年も何年も。
 蓮華はほうっと息を吐き、妖艶に揺れる桜の木を見つめる。

 刹那──ブワッと強い風が吹きつけた。

 蓮華の髪がすべてなびくほどの旋風。ひらひらと桜の花びらが舞う。千桜のしなやかな髪も風になびき、ようやくはじめて美しい輪郭が露わになる。

 蓮華は息をのんだ。

 糸のような紺桔梗の髪で隠れていた左眼は、日本人特有の黒や茶といった瞳をしていなかった。
 
 それはまるで、鮮やかな──。

「桜──……」

 千桜の左眼は、桃色をしていた。

 咲き誇る桜の花をそのまま閉じ込めたかのような瞳。だが、春の訪れを感じさせぬ冷たい瞳でもある。
 このような瞳の色を蓮華ははじめて見た。食い入るように見つめ、やがて、へたりと腰を抜かした。

「驚くのも無理はない。不気味だろう」
「い、いえ」

 そうではない。
 滅相もない、と首を振ると、千桜ははっと鼻で笑った。

「これは、 虹彩異色症(こうさいいしょくしょう)というらしい」
「こうさい……」
「生まれた時からこうだった。祖母はこれを桜の神からの祝福だと言っていたが……まさか。まるで、呪いだ」
 
 虹彩異色症とは、左右の眼で虹彩の色が異なる、もしくは、一方の瞳の虹彩の一部が変色する形質のことだ、と千桜が説明する。

 千桜の場合は先天性であり、産まれた時から左眼の色素異常が確認された。突然変異とも、劣勢遺伝ともされ、黄色や緑、青が出ることが多い中でも桃色を宿す例は極めて稀だという。

 蓮華は、千桜の瞳をまじまじと見つめた。

「いいえ、呪いなどと、そのようなことはございません」
「世辞はいい。母は、私を恐れて遠ざけたからな」

 風が止み、千桜の左目は流れた前髪の下に。普段は、人を驚かせぬようあえて髪で隠して見せてはいないのだろう。

 千桜は、再び何事もなかったように湯呑みを手に取った。

「あの」

 片目の色が異なるというのは、人によっては受け取り方はさまざまだろう。蓮華でもそれは理解できた。
 たしかに初見は驚いたものの、桜色の輝きを不気味であるとは思わなかった。

「とても……きれいでした」

 ただそれだけだ。

 蓮華が告げると、千桜がすっと目を細める。

「よい、無理はするな」
「無理などしておりません」
「……」
「とても、おきれいです」

 細い紺桔梗の髪がさらりと流れる。蓮華は姿勢を正して、千桜と向かい合った。

 なぜ、そのような大切なものを蓮華に見せてくれたのか。理解するには至らなかったが、ただ、この気持ちだけは伝えなければならないと思った。

「申し訳ございません。出過ぎたことを」

 お膳の横に座り直し、深々と頭を下げる。

 今日からここが蓮華の生きる場所。

 尽くさねばならない場所。

「落胆されぬよう、努力します。何でもいたします。粗相がないよう、細心の注意を払います。不束者でございますが、この巴蓮華をどうぞよろしくお願いいたします、旦那様」

 蓮華はこれから、少しずつ愛を知っていくことになる。