「どうぞお坊ちゃま、白湯でございます」
「ああ、ありがとう」

 家令の呼びかけがあり、蓮華は居間に案内された。お膳を挟んで正面には千春が姿勢よく座している。家令から湯呑を受け取ると、一口喉に流し込む。

 蓮華は黙ったまま千桜を見つめた。千桜は冷たい雰囲気があるものの、使用人に対して態度を大きくすることはない。川のせせらぎのように静かで、ほんのわずかでも波音を立てない。

小鳥遊家が巴家と比べて素朴であるのも、当主の千桜の趣向なのだろう。財力は巴家以上に有しているのに、驕らない。蓮華は、主人に感謝された試しは一度すらなかった。

 ぼうっと見つめていると、千桜と視線がかち合った。

 流れる沈黙。物音ひとつ立たぬ粛然とした空気。氷のような瞳を前にして、蓮華は少しばかり居たたまれなくなった。

「遠慮なら無用だ」

 湯呑が畳みの上に置かれ、千桜が箸を手に取った。

「で、ですが……」

 蓮華は押し黙って、お膳を見つめる。艶のある白米、だしの香る卵焼き、茄子のみそ汁、もやしのお浸し。ご馳走といてもいいほどだった。それを、主となる千桜と向き合いながら食すとは考えにも及ばない。

「腹が減っていないのなら、無理にとは言わないが」
「申し訳ございません……分からないのです」

 千桜がちらりと蓮華に視線を向ける。前髪で隠れていない右目からはひんやりとした冷たさを感じたが、ほかの華族の者たちのような棘のあるそれとは違った。
 
 華族の者と、一般庶民の……それも下女あがりの娘がともに食事などとは、言語道断だ。はたして本当に気障りではないものか。

 蓮華はそればかりが気がかりだった。
 
「私などが召し上がっても、よいものなのでしょうか」
「かまわんから、出している」
「……」

 蓮華はしばし、その場で黙り込んだ。よいはずがない。どう考えても無礼だ。

 どれほど時間が経過したのか、蓮華は躊躇いながらゆっくりと箸に手を伸ばす。湯気がたつみそ汁を見つめる。「いただきます」と呟き、ひと口に含んで、動きを止めた。

 優しい、そして、じんわりとあたたかい。

 冷えていない食事など、生まれてはじめて口にした。

 蓮華のために準備された食事も、はじめてだった。

 これまでは台所のすみっこで、冷えた白米にお湯をかけて食べた。箸の進みが遅いと途中で取り上げられることもあった。蓮華には、空腹も満腹も区別がつかない。食欲も感じなかった。

 だが、卵焼きを口に入れた瞬間、みそ汁を啜った瞬間、あたたかい白米を歯ですりつぶした瞬間、あらためて今、自分が腹を空かせていたことに気づいた。

「旨いだろう」
「……はい」

(おいしい)

 味覚。嗅覚。蓮華が忘れ去っていたもの。口にすればするほど腹が減っていく。

 千桜は、茶碗を片手に蓮華を見やった。

「このような……」

 蓮華は箸をとめ、改まって正座をする。

「このような美味な食事は、はじめてでございます」
「そうか」
「はじめてで……あの」
「普段は? どのようなものを食っていたんだ」

 千桜の冷ややかな視線が向けられる。蓮華は俯き、巴家での生活を思い出す。

「冷えた白米にお湯をさしたものを、三日にいっぺんほどでございます」

 巴の屋敷とは間反対の静けさ。千桜は茶碗をお膳に置き、すうっと目を細める。

「これからは、旨いものを好きなだけ食うといい」
「それは」
「私の妻となるのだから、つまらん遠慮などするな」

 蓮華ははっと息をのむ。

(妻……)

 感情の読み取れない千桜の顔。妻とはいったい何をすべきなのか、蓮華は考えた。

 蓮華にできることなどたかが知れている。これでは、ただ飯食らいだ。そうなってしまっては、役立たずだとしてすぐに追い出されてしまうかもしれない。

 だが、千桜は労働を望まない。妻であるとは、どういうことなのか。なぜ、千桜は蓮華を妻として迎え入れたのか。

「私には……なんの後ろ盾も、ございません」
「……」
「そればかりか、誰からも望まれずに生まれた、愚かで醜い私生児です。妻として迎えるにはなんの利点もなく、むしろかならず、あなた様の面汚しと……なりましょう」

 俯く蓮華を、千桜は黙って見据えた。

「芸事も持っておらず、また、読み書きも……できません。このような私に、ご立派な軍人であられる御方が、どうして縁談など」

 ひらひらと花びらが舞い落ちる。

 中庭に植えられている枝垂れ桜は、居間からもよく見渡せた。