四
蓮華が輿入れをする当日の朝。巴家には黒塗りの自動車が停まっていた。風呂敷に数少ない私物を包み込み、蓮華は急ぎ足で邸宅の外に出る。見送りの際に、義母と姉たちの姿はなかった。
「くれぐれも粗相のないように」
「はい、藤三郎様」
千桜との縁談が成立してからというもの、義母や姉たちからの嫌がらせ行為はぱったりとなくなった。おそらくは、小鳥遊家側への心証が悪くなると不都合が生じるためであったが、蓮華の心は依然として晴れ晴れとはしなかった。
縁談という名目で、蓮華は巴家から追い出されていることに変わりはない。本来であれば、女郎屋に売り飛ばされるはずだった。それが今度は小鳥遊家となっただけ。
蓮華には、なぜ千桜が縁談の申し入れをしたのかが分からない。
物珍しさからか、それとも憐れみからか、いずれにせよ、自分の立場はわきまえねばならない。小鳥遊家を追い出されてしまったら、今度こそ野垂れ死ぬしかなくなってしまう。
自動車に乗り込むと、エンジン音がかかる。隣に座っている千桜は、変わらず冷たい表情を浮かべている。
「昨夜はよく眠れたか」
「えっ……」
「顔色がよくない」
「あ、あの……申し訳、ございません」
風呂敷を抱きかかえ、蓮華は俯いた。
「なぜ謝る」
「申し訳……ごさいません。きっと、お見苦しいかと」
千桜は切れ長の目を蓮華に向けると、淡々と告げる。
「そう自分自身を下げるな。眠れていないのなら、屋敷につくまででも目を閉じているといい」
蓮華は困惑した。主となる人の前で、目を閉じて休むなどとは考えもしない。現に、巴家では許されないことであった。
「で、ですが」
「かまわん。少し休め」
やがて自動車が動きだす。千桜は新聞を広げ、それ以降は一言も発さなかった。
巴家の敷地を抜けると、蓮華はほうと息をつく。蓮華ははじめて自動車に乗った。
これまでは自由に外出することも許されなかったため、移り行く帝都の街並みを眺めるのもまた不思議な心地がした。
なぜか、しばらく窓の外を眺めていると眠気が押し寄せてくる。眠りたいわけではなかったが、蓮華は数分も経つと風呂敷を抱きかかえたまま意識を手放していた。
千桜は読んでいた新聞から視線を上げ、隣で静かな寝息を立てている蓮華を見やった。
(あの家を出て、安堵したか)
ダンスホール‟カナリア‟の庭園でたった数言交わしただけの女。
小鳥遊家の当主である千桜に言い寄る人間は多くあったが、そのどれにも関心を抱かなかった。
むしろそういった下心あり気の誘いには興ざめする一方であり、舞い込む縁談も家令に命じてことごとく断っていた。くだらぬ見栄や欲望が犇めき合う社交場は好まない。あの夜も、ほんの数十分顔を出しただけであったのだが。
豪勢に飾り立てられたダンスホールを抜け出し、夜風に当たろうとした際に優しい歌声が聞こえてきた。
声をかけると、枝垂れ桜の下に淡い色をした着物姿の蓮華が立っていた。
その表情はどこか儚く、今に消えてしまいそうな気配すらあった。社交場を好む華族の令嬢とは明らかに異なる雰囲気をもつ蓮華を千桜はしばし見つめ、気づけば名を聞いていた。
家令によれば、蓮華は、かつての旧大名家である巴家の下女であるという。巴家の令嬢の千代と喜代が、夜会の見世物同然に蓮華を虐げていた事実が露呈した。
「そうか、あの家の」
巴家といえば、現当主藤三郎の代を中心に悠々自適な生活を送っていると聞く。
あまり良い噂は聞かない一族であったが。
「お名前は、巴蓮華様」
「巴……?」
千桜は文机から顔を上げ、家令を見やる。
「はい。世間的に秘匿されているようですが、どうやら藤三郎氏と使用人の間にできた、非嫡出子であるようです」
「非嫡出子……」
蓮華が輿入れをする当日の朝。巴家には黒塗りの自動車が停まっていた。風呂敷に数少ない私物を包み込み、蓮華は急ぎ足で邸宅の外に出る。見送りの際に、義母と姉たちの姿はなかった。
「くれぐれも粗相のないように」
「はい、藤三郎様」
千桜との縁談が成立してからというもの、義母や姉たちからの嫌がらせ行為はぱったりとなくなった。おそらくは、小鳥遊家側への心証が悪くなると不都合が生じるためであったが、蓮華の心は依然として晴れ晴れとはしなかった。
縁談という名目で、蓮華は巴家から追い出されていることに変わりはない。本来であれば、女郎屋に売り飛ばされるはずだった。それが今度は小鳥遊家となっただけ。
蓮華には、なぜ千桜が縁談の申し入れをしたのかが分からない。
物珍しさからか、それとも憐れみからか、いずれにせよ、自分の立場はわきまえねばならない。小鳥遊家を追い出されてしまったら、今度こそ野垂れ死ぬしかなくなってしまう。
自動車に乗り込むと、エンジン音がかかる。隣に座っている千桜は、変わらず冷たい表情を浮かべている。
「昨夜はよく眠れたか」
「えっ……」
「顔色がよくない」
「あ、あの……申し訳、ございません」
風呂敷を抱きかかえ、蓮華は俯いた。
「なぜ謝る」
「申し訳……ごさいません。きっと、お見苦しいかと」
千桜は切れ長の目を蓮華に向けると、淡々と告げる。
「そう自分自身を下げるな。眠れていないのなら、屋敷につくまででも目を閉じているといい」
蓮華は困惑した。主となる人の前で、目を閉じて休むなどとは考えもしない。現に、巴家では許されないことであった。
「で、ですが」
「かまわん。少し休め」
やがて自動車が動きだす。千桜は新聞を広げ、それ以降は一言も発さなかった。
巴家の敷地を抜けると、蓮華はほうと息をつく。蓮華ははじめて自動車に乗った。
これまでは自由に外出することも許されなかったため、移り行く帝都の街並みを眺めるのもまた不思議な心地がした。
なぜか、しばらく窓の外を眺めていると眠気が押し寄せてくる。眠りたいわけではなかったが、蓮華は数分も経つと風呂敷を抱きかかえたまま意識を手放していた。
千桜は読んでいた新聞から視線を上げ、隣で静かな寝息を立てている蓮華を見やった。
(あの家を出て、安堵したか)
ダンスホール‟カナリア‟の庭園でたった数言交わしただけの女。
小鳥遊家の当主である千桜に言い寄る人間は多くあったが、そのどれにも関心を抱かなかった。
むしろそういった下心あり気の誘いには興ざめする一方であり、舞い込む縁談も家令に命じてことごとく断っていた。くだらぬ見栄や欲望が犇めき合う社交場は好まない。あの夜も、ほんの数十分顔を出しただけであったのだが。
豪勢に飾り立てられたダンスホールを抜け出し、夜風に当たろうとした際に優しい歌声が聞こえてきた。
声をかけると、枝垂れ桜の下に淡い色をした着物姿の蓮華が立っていた。
その表情はどこか儚く、今に消えてしまいそうな気配すらあった。社交場を好む華族の令嬢とは明らかに異なる雰囲気をもつ蓮華を千桜はしばし見つめ、気づけば名を聞いていた。
家令によれば、蓮華は、かつての旧大名家である巴家の下女であるという。巴家の令嬢の千代と喜代が、夜会の見世物同然に蓮華を虐げていた事実が露呈した。
「そうか、あの家の」
巴家といえば、現当主藤三郎の代を中心に悠々自適な生活を送っていると聞く。
あまり良い噂は聞かない一族であったが。
「お名前は、巴蓮華様」
「巴……?」
千桜は文机から顔を上げ、家令を見やる。
「はい。世間的に秘匿されているようですが、どうやら藤三郎氏と使用人の間にできた、非嫡出子であるようです」
「非嫡出子……」