帝都に構えるダンスホール‟カナリア‟は眠ることを知らない。
 
 美しくさえずる愛玩鳥の名からは到底結びつかぬ華やかさが、そこにはあった。
 春の風に揺れる朧月の下、巴蓮華(ともえれんげ)は絢爛豪華なダンスホールから抜け出し、敷地の外れにある庭園を訪れた。貴婦人たちの高らかな笑い声が遠のくと、とたんに胸が安堵する。

 小さな池のそばには、一本の枝垂れ桜が生えていた。

「……きれいだわ」

 上流階級が集う社交場とは真反対の静寂。桃色の花びらがひらり、ひらり、と風にのって揺れている。
 蓮華はそれをしばし見つめると、幼いころに母親が歌ってくれた唄を思い起こした。

「眠れぬ子よ、ねんねんころり」

 口ずさむと、今は亡きの母親の面影が浮かぶ。

「おはなのかおりで、ねんねんこ」

 優しい人だった、と蓮華は目を細める。池の湖面に朧月が浮かぶ。まるで、混沌とした世界から自分だけが切り離されたような静けさ。
 木々の揺れる音にのって、蓮華の控えめな歌声がこだまする。こうしていると、少しだけ息苦しさが和らぎ、安藤できるような気がした。

 枝垂れ桜の幹のそばで、蓮華がぼんやりと立ち尽くしていた時。

「そこに誰かいるのか」

 まるで春の風のよう。予期せず、謹厳な男の声が割って入った。蓮華ははっと肩を震わせ、恐る恐る振り返る。

「も、申し訳ございません!」

 敷地の外れであれ、ここは華族が集う社交場である。ただでさえこの場にふさわしくない人間であるというのに、ましてや人目を忍んで唄を歌ってしまった。
 姉たちの耳に伝われば、下品極まりない、ときつい仕打ちを受けるだろう。

 蓮華は俯いたままこの場を去ろうと身を翻す。

(いち早く去らねば。きっと、見苦しいと思われたはず)

 さらに加えれば、上流階級の社交場では洋装が基本だが、唯一蓮華だけが和装だった。蓮華はモダンなドレスなど所持していなかったのだ。

「今に去りますので」
「――待て」

 だが、再び声がかかり、呼び止められる。蓮華は足をとめて振り返る。
 夜風にのって、ひらひらと桜が舞う。

 やがて、月明りに照らされた男の輪郭が浮かび上がった。




「──貴殿の名を教えてくれないか」