担当の小林さんはホームルームが終わると寄り道をせず帰宅した。自分の部屋でスマホをいじっている。
時計の針は17時45分、来衣先輩との約束の時間が迫っていた。
行かないと決めたはずなのに、時計を何度も確認してしまう。生前に出会っていたら、なんの迷いもなく喜んで会いに行っていただろう。
たわいもない話を飽きるまでしたい。
生前ならば1歩踏み出せばすぐ叶えられたことも今の私には、叶えられない。
ぽつんぽつんと雨が屋根に落ちる音が聞こえた。さっきまでは、降っていなかったのに。
窓の外を見ると、まるで私の心を表すかのように雨が降り出していた。
窓を閉めていても、次第に雨風が強くなっていく。
来衣先輩、傘は持ってるかな。
雨の中、白杖を使って転ばないだろうか。
雨が強くなってきたらさすがに来衣先輩も諦めて帰るよね。
そうだよ。きっと、大丈夫。
雨が降ってきても自分でなんとか帰れるよね。
心配で仕方がなかったが、自分を納得させるために頭の中で繰り返し唱えた。
そうでなければ、私の足は来衣先輩の元へ向かってしまうから。
これでいいんだ。そう思うのに、来衣先輩のことが頭から離れてはくれなかった。
『……来るまで待ってるから』
最後に放たれた言葉を思い出す。
その言葉を思い出すと、私は走っていた。
もう、来衣先輩と関わらないって決めたのに。
ごめんなさい。
心の中で何度も謝罪する。
でも、足が勝手に向かいだす。
こんな気持ちになってごめんなさい。
ダメなことは分かってる。
分かっているけど、直接会って話したい。
指定された場所は、以前に話した、コンビニのすぐ横にある公園だった。
降り続ける雨で視界が悪い。いつもは公園で遊ぶ子供の笑い声が聞こえてくるが、今日は雨の音しか聞こえなかった。彼の姿を探すと、雨の中傘を指して立ち尽くす来衣先輩の姿が見えた。
彼の姿が視界に入ると同時に、心の底から愛おしさが込み上げてくる。
愛おしい。だめだとわかっていてもあふれ出す想い。
自分の気持ちを再確認してしまった。
――いや、気付かないようにしていただけで、この切なく想う気持ちはずっと前から恋だった。
この気持ちを認めてしまったら、もう戻れない。好きの感情が溢れてくる。
ただ、想うだけなら……許されますか?
来衣先輩は傘が斜めに傾いていて、気づいていないのか、右側の肩だけ濡れていた。
私は幽霊なので雨が降っているのに、傘を指していない。
この不自然さに来衣先輩は気づくだろうか。
来衣先輩は私の姿を感じてはいるけど視えてない。私の周りに放たれている灯りで私のことを判断しているので、例え私が雨の中傘を指していなくても、その異常さには気づけない。
神様が意地悪をしたように、私達は複雑に交差して、複雑な関係を生んでいるのだ。
「……遅くなってごめんなさい」
「未蘭は、来てくれると思ってた」
声を掛けると来衣先輩は目元をくしゃっとさせて、安心したように笑顔を浮かべた。その顔を見ると自分がしていることへの罪悪感が減るようだった。
「本当は、こないと思った。もう、会えないかも、って」
「ごめんなさい。……ちゃんと話そうと思ったの」
「その声の雰囲気は良い話じゃねぇよな。あー、聞きたくねえな」
彼の瞳は揺れていた。頬に滴り落ちる水滴は涙なのか、雨の雫なのかわからない。その表情に胸の奥がぎゅっと締め付けられるように痛い。
「ら、来衣先輩とは、もう会えません」
声が震えないように、泣いているのがばれないように、ゆっくり口を開いた。
私の頬を伝う水滴は雨じゃなく、零れ落ちる自分の涙だ。
零れ落ちる涙を止めようとはしない。来衣先輩にはその涙は見えていないから。
流れ落ちる涙に気を配るのではなく、鼻をすすったり、声が震えないように、ただそれだけを警戒した。泣いていることが彼にばれないように。
雨の降る音があってよかった。その雑音のおかげで声が震えていてもきっとばれない。雨の雫に私の涙も解けていく。
「……迷惑だよな。目が見えない奴に好かれても」
「……っち、ちが」
違う。目が見えないとか、目が見えるとか関係ない。来衣先輩は悪くない。そう言おうとして言葉を止めた。
どうしたって、私は来衣先輩を傷つけてしまうんだ。
担当以外を助けたり、関わったりしてはだめなのに。
ルール違反をした私がすべて悪いんだ。
「……ごめんなさい」
自分の感情を押し殺して伝えられる、今の私の精一杯の言葉だった。
「未蘭、告白もしないで、ふられたけど、出会ってくれてありがとな。助けてくれてありがとな」
「っ……、う……」
私の涙腺はすでに崩壊していた。嗚咽の声が漏れないように、唇をぎゅっと噛みしめて声を押し殺した。
聴覚で情報を得る来衣先輩は、少しでも嗚咽が漏れたら、泣いてることに気づくだろう。
本当は伝えたい言葉は山ほどあるのに、その言葉を伝えることはできない。今なにか言おうと口を開いたら、泣いてることを必死で隠しているのに、震える声で彼にばれてしまうから。
伝えたい言葉は雨に紛れて流れていく。
「……さよっ、なら」
必死に絞り出した声は震えていたかもしれない。振り返らずに歩き出した。来衣先輩を見てしまったら、きっと私の決意なんて簡単に崩れてしまいそうだったから。
こうして、私の初恋は消えた。