☆

 十一月最終週の日曜日。よく晴れた今日この日が、凌空と念願の初デート記念日になる。

 晴陽は凌空の自宅の最寄り駅にて約束時間の一時間ほど前から、シミュレーションという名の妄想を重ねていた。

 スマホで時間を確認したついでに、登録の一番新しい連絡先を眺めて緩む口元をマフラーで隠した。何かあったときに連絡が取れるようにと、晴陽は今までどんなに頼んでも教えてもらえなかった凌空の連絡先をついに入手したのだ。

 昨日までに晴陽が凌空に送った日常の小さな報告や愛のメッセージは、ことごとくスルーされている。だが返事が来なくても晴陽にとっては大きな前進、落ち込むはずもなかった。

 待ち合わせ時間の十一時ちょうどに、待ち人が走らず焦らず、ゆっくりとこちらに向かってくる姿が見えて晴陽はぶんぶんと手を振った。

「凌空先輩! おはようございます!」

「おはよう。で、どこに行く?」

「全然待ってないです! 今来たところです! ……あれ?」

 会話シミュレーションは完璧に済ませていたはずなのに、初手が予想と違ったせいでいきなり間違えてしまった。

 まあ、そんなミスは置いといて。今日も凌空は、見ているだけでオキシトシンが分泌されるほど素敵だった。

 細身のジーンズに白いセーター、上からキャメル色のコートを羽織った初めて見る私服は、シンプルゆえに小顔で足の長い彼のスタイルの良さを際立たせていた。

「凌空先輩、今日も最高に格好いいです!」

「行く所は決めてるのか?」

「素っ気ないですねえ、でもそんなところも素敵です! ささ、私に着いてきてください! 手を繋ぎましょう!」

 勢いで手を繋ごうという作戦は失敗。差し出した晴陽の右手を完全に無視して歩き出した凌空を慌てて追いかけた。

 目的地が見えてくると、凌空は小さく息を吐いた。

「ベタだな」

「でも初デートの行き先としては悪くないと思いますよ? それに私、こう見えて魚に詳しいのでいろいろ教えてあげられますし!」

 魚に詳しいというのは半分本当で、半分嘘だ。この日のために、凌空に何を聞かれてもスマートに答えられるように、魚や海について猛勉強してきた。少しでも博識だと思われたかったからだ。

「ふーん……じゃあ、早く入ろう。俺、水族館嫌いじゃないし」

 ベタだと小言を口にしたくせに、好きだったのか。内心で突っ込みを入れつつも、選んだ場所が悪くなかったことにひとまず安堵の息を漏らした。

 館内に入るとまず、幅が十メートルほどある水槽の中で小さな魚たちが遊泳しているエリアが二人を出迎えた。

「カラフルな魚が多いから華やかでいいですね! あ! ほら凌空先輩、クマノミですよ。ディズニー映画の――」

「ちょっと静かにしてろ」

 展示されている魚の説明を真剣に読んでいる凌空の横顔を見て、口を噤んだ。話をしたかったけれど、凌空のペースに合わせるのが最善だろう。

 お喋りできなかったのは残念だが、可愛い魚にはしゃぐカップルや家族連ればかりがいる空間で、静かに鑑賞する凌空の姿は見惚れてしまうほど絵になっていた。

 大水槽エリアでは晴陽たちを大きく囲うように、身を守るために様々な形へと群れを変化させる小型魚や彼らを狙う中型魚、さらにサメなどの大型魚まで回遊していて、晴陽は思わず感嘆の声を上げた。

 ちらりと隣の凌空を見ると、決して口には出さずとも感動しているように見えた。晴陽に対しては笑顔を見せてくれない凌空だけど、天井まである巨大な水槽に囲まれる彼の瞳はキラキラと輝いていた。

 話しかけたいところだが、凌空の鑑賞を邪魔するわけにはいかない。うるさいって怒られたばかりだし、水を差すなんて野暮な真似はやめておこう。

「水族館のサメって、どうして周りの魚を食べないんだろうな」

 なんて思っていたら、凌空の方から話しかけられて驚いた。なんて難しい人だろう。そんなところも可愛いけれど。

「飼育されているサメは、与えられた餌でお腹がいっぱいだからですよ。もし餌がもらえなくてお腹が空けば、周りを泳いでいる魚を食べちゃいます」

「へー……ずっと一緒に泳いでいる顔見知りの魚を食べるなんて、サメって薄情なんだな」

 綺麗な顔をして、発想が幼い子どもみたいに純粋だから可愛すぎて過呼吸を起こしそうだ。心の中では悶えまくりながらも、晴陽は博識ぶって話を振った。

「知っていますか? 白身魚って、脂の量とイノシン酸という旨味成分の量に違いがあるだけで、味はほとんど一緒なんですよ。それに魚は直前に食べた餌にかなり影響されるので、この水族館にいる鯖なんかは完全に味が一緒ってことになりますね」

 凌空は「ふーん」と呟いた後、水槽を見ながら何も言わなくなった。会話を切り上げたいのだと判断した晴陽も口を閉じて悠々と泳ぐ魚たちを見ていると、

「……同じような話なんだけど、カキ氷のシロップって色や香りが違うだけでベースの味は一緒だって知ってるか?」

「いえ、知りませんでした! 教えてください!」

 凌空から話を振ってくれたのが嬉しくて、食い気味に返した。

「人間って、目の前にある食べ物の色や香りで『この食べ物はこんな味に違いない』って思い込むんだってさ。赤い色ならイチゴ、黄色ならレモン、みたいな。人間も一緒だと思う。外見や雰囲気の思い込みで、他人からどのように評価されるかが決まっていくし」

 凌空が何を言いたいのかなんとなく察した晴陽は、彼の言葉に集中するために息を止めた。

「だから晴陽から見えている俺は、本当の俺じゃないかもしれない。本当の俺を見たときに、それでも晴陽は俺のことが好きだって言えるか? 幻滅する可能性もゼロじゃない。それなのに、俺のことを永遠に愛するって誓えるのか?」

 凌空の後ろでは大きなエイが会話を盗み聞きしているかのように、水槽の際まで接近して白い腹を見せつけていた。凌空にも見てほしいと思ったが、晴陽に話を逸らす選択肢はない。

 軽く話を振っているように見せて、凌空は今、二人の関係の根幹についての大事な話をしているのだ。それに気づかないほど晴陽は呆けてはいない。

「私が見ているのがたとえ幻想の凌空先輩だとしても、愛せます。私にとっては、この目に見えているのが凌空先輩であるという事実だけが真実なんです。カキ氷のシロップだって、色と香りで違いを出しているだけでベースは一緒ですから」

「……俺のことを何も知らないくせに、よくそんな大口が叩けるな。ここで愛せるなんて言える人間には、不信感しか抱けないけど」

 立ち止まっていた凌空は再び歩き出し、大水槽エリアから出て行ってしまった。

 慌てて追いかけた先にあったのは、深海魚エリアだった。太陽の光が届かない場所で生きる彼らのために、このエリアは極力電光が抑えられていてとても暗い。

 凌空は自分の中に残ったしこりをなくすためにデートすると言っていたが、本当は晴陽を完膚なきまで振るための建前だったのだろうか。最後に一度だけ晴陽にいい思いをさせてやろうという、凌空なりの優しさだったのではないだろうか。

 館内の暗さもあって、どんどん悪い方向へ思考が進んでいく晴陽を見て、凌空は小さく息を吐いた。

「まあ、でも……どんな俺でも好きだって断言してくれたのは、悪い気はしなかった……かな」

「……へ?」

「二度も言うわけないだろ、バカ」

 基本的にクールでぶっきらぼうなのに口元を緩ませたその表情に、告げられた言葉の威力に、心臓を押さえて蹲った。

「ど、どうした? 大丈夫か?」

「……すみません……凌空先輩が好きすぎて……発作が起きてしまいました」

 冷ややかな目で「心配して損した」と先に行ってしまった凌空の後ろ姿を見ながら、晴陽はドクドクいってる脈拍を整えるために深呼吸を試みた。

 オーバーリアクションでも誤魔化せなかったかもしれないし、ここが暗い深海魚エリアで良かった。普段から好意を全面に出している晴陽が凌空の言葉一つでこんなに赤面してしまったなんて、恥ずかしすぎて絶対に見られたくはない。

 目が合った気がしたチョウチンアンコウに、早く頬の熱よ引いてくれと祈った。