菫の存在を感じることはなくなったが、日常に大きな変化があったわけではない。

 起床時と就寝前に神様に感謝することも、ごはんをしっかり食べて余裕を持って登校することも、クラスメイトに一日一回は必ず声をかけるようにしていることも、毎食後に必ず服薬することも、ベッドの中で寝落ちするまでスマホを触っていることも、今までの晴陽の生活と何一つ変わりはしない。

 とはいえ、変わったことがあるのも事実だ。

 夜になったら凌空と電話をするのが習慣になった。

「あ、目線は動かさないでください。……はい、ありがとうございます。とっても素敵です。いつもですけど」

 それから、晴陽は本格的に絵に取り組むようになった。

 今もこうして、放課後の美術室で熱心に絵筆を走らせている。芸術は時間をかけた分比例して結果の出る分野ではないけれど、努力は必ず上達に繋がるはずだと、十年間描き続けてきた晴陽は信じて疑っていない。

「凌空先輩、髪伸びてきましたね」

 キャンバス越しに見える凌空(モデル)に声をかける。

「晴陽が短い方が好きだっていうなら、切るけど」

「わたしは先輩がどんな髪型でも大好きですよ。あ、でもいろんな髪型の先輩を描いてみたいとは思います」

「じゃあ、大学生になったら伸ばしてみるか……なあ、まだかかりそうか?」

「すみません、あとちょっと……あ、もう少し右の方を向いてもらえますか?」

 凌空は従順に右を向いて動きを止めた。飽きることのない綺麗な顔に興奮しながらキャンバスに色を重ねていく。

 初めて凌空の肖像画を描き終えたときのことは、よく覚えていない。

 ただ、完成した絵を見たときに感じた喜びが体中を駆け巡るような達成感と、世界中の何もかもが美しく見えたほどの満足感は、今でも忘れられない。

 菫はそれに満足して消えてしまったけれど、まだこれからも命が続いていく晴陽は欲が出た。新たな夢を抱いたのだ。

 あのとき抱いた気持ちを超えられるくらいの絵を、描き続けていくこと。

 一枚の絵は確かに、晴陽の人生を変えたのだった。

「もう四月も終わりそうだけど、六月末のなんとか展の締め切りには間に合うのか?」

「だ……いじょうぶだと、思います。凌空先輩、見ていてくださいね。今度は菫さんの力なしにわたし一人で先輩を描き上げて、入賞という結果を残して先輩の魅力をたくさんの人たちに証明しますからね!」

「証明はもういい。それより、晴陽が納得できる絵を描く方が大事だろ。将来絵で食べていきたいんだったら、目先よりもっと先まで見ないといけないと思う」

 二年生に進級する直前に、晴陽は進路を変更した。美大への現役合格を目指して夏からは美術予備校にも通う予定だ。

「……仰る通りです。凌空先輩は進路希望調査票、書けましたか? というより、お母様と話はできましたか?」

「ああ。昨日の夜、少しな。……応援するから、好きなことをやれってさ。母親らしいことをしたいって気持ちを押しつけられた感じもするけど」

 凌空の目指す進路の方向性はぶれなかったが、それよりも大きく変わったのは母親に対する態度の方だった。

 まだまだ親子としての距離は遠いし、相変わらず皮肉っぽいというか捻くれたことを口にするけれど、凌空が母親と少しずつでも向き合うようになったことが晴陽は嬉しかった。

「……よし。キリのいいところまで描けたので、今日はここまでにしますね」

 絵筆を置いて、キャンバスに描かれた凌空を見つめた。

 美しい凌空の姿を目と記憶に焼きつけながら、絵画として形に残すことの許される日々のなんと幸せなことか。溢れんばかりの喜びを噛み締めながら、長時間モデルになってくれた凌空を労うために駆け寄った。

「凌空先輩、ありがとうございました。また明日もよろしくお願いします」

「わかった。……晴陽の手、荒れてないか?」

 そう言って晴陽の手を優しく取った凌空は、ブレザーのポケットからハンドクリームを取り出して手の甲に塗り込んでいった。それは去年、晴陽が凌空の誕生日にプレゼントしたものだった。

「これ、使ってくれているんですね! 嬉しいです!」

「まあ……好きな人から初めて貰ったプレゼントだからな」

「……うわー……なんか、感動しちゃいました。あの……り、凌空先輩。先輩は、その……わたしの、どこが好きなんですか?」

 握られた手の温かさと、ふいに浴びせられた「好き」という単語が、晴陽の背中を押したのかもしれない。今までは怖くて聞けなかった質問をぶつけていた。

「どこがって聞かれても……上手く答えられない。俺の細胞の一つひとつが、逢坂晴陽という人間を渇望している。だから晴陽は晴陽のまま、なんの不安もなく俺に愛されていればいい」

 堂々と口にする凌空の姿は本当に格好よかったけれど、その言葉に含まれた仕掛けに気づいた晴陽は、顔から火が出そうで大いに狼狽えた。

「……凌空先輩って、結構恥ずかしいこと言いますよね」

「ただの受け売りだよ。……顔を真っ赤にしてるってことは、気づいてるんだろ? 今の口説き文句が誰かさんの受け売りだってこと」

「……違いますよ。大好きな人にそんな情熱的な愛の言葉をもらって、照れているんです」

 自分が口にした一世一代の告白に悶えさせられるなんて、なんて恥ずかしい。

 自業自得。因果応報。身から出た錆? いろんな言葉を連想することで羞恥を忘れようと努めてみたものの効果はなく、赤くなった頬をこれ以上からかわれるのを防ぐために凌空から顔を背けた。

「晴陽」

「な、なんですか?」

 目を逸らしていた隙を突かれた。無言で晴陽に顔を近づけた凌空は、形のいい唇を重ねてきた。

 柔らかくて温かい、彼を好きになったときから妄想していたそれは、晴陽にとって初めての行為だった。ゆえに、脳味噌は見事にキャパオーバーし、心臓は爆発寸前の状態に陥った。

「証明とかなんとか頭でっかちに考えてばかりだったけど……案ずるより産むが易しって、本当だよな」

 上手く言葉を発せない晴陽を見た凌空は、彼自身も頬を朱色に染めながら微笑んだ。

 凌空が何を言いたいのかは、すぐにわかった。

 以心伝心だと自惚れているわけではない。太古から愛のコミュニケーション手段として使用されてきた、キスの効果を思い知っただけの話だ。

「……凌空先輩。心臓が持たないって言葉、知ってます?」

「晴陽が言うと洒落にならないな」

「でしょう? でも、菫さんも喜んでいる気がします」

「そうか。でも……」

 凌空は晴陽を優しく抱き締め、耳元で告げた。

「好きだよ、晴陽。この言葉は、晴陽だけのものだ」

 体中の細胞から溢れ出してくるその感情を余すところなく伝えたくて、彼と同じ行動を取った。柔らかくて甘美な感触。唇が離れ、目と目が合った。

 愛の証明完了だなんて、気障ったらしく〆られたらよかったけれど、晴陽がそれを口にするなんて百年早い。

 だから、ただ一言。ありのままの気持ちを愛しい人に伝えようと思う。

「わたしも好きです、大好きです、凌空先輩」

 心臓は今日も、今この瞬間も、力強く鼓動している。            (了)