「晴陽ちゃんを助けるために冬の川に飛び込むなんて凄いね。愛の力ってやつ? クールな凌空くんも随分変わったんだね」

「……俺は元々クールなんかじゃない。蓮さんにはどうしても冷たく当たってしまうから、そう見えてしまうのかもしれないけれど」

 凌空はハンカチを受け取らず、立ち上がって蓮を正面から見据えた。
 交錯する二人の視線には、晴陽にもわかるくらいに敵意が含まれていた。

「蓮さん。晴陽はもう、髪の毛一本から足の爪まで全部、俺のものだから。勝手に奪っていこうとすんな」

 晴陽は驚き、鋭い眼光で蓮を睨む凌空の横顔を見た。
 好きな人から独占欲を浴びせられることがこんなに幸せだなんて、知らないまま死ななくて本当によかった。

「勝手にじゃないよ。ちゃんと晴陽ちゃんにも許可もらったし。ね? 晴陽ちゃん?」

 蓮はわざとらしいあざとさで、顔を強張らせる晴陽に同意を求めた。
 凌空からの「本当か?」という意図で向けられた胡乱な視線に心が痛んで、噓を吐けない晴陽は正直に頭を下げた。

「ごめんなさい! でもわたし、菫さんを失った蓮さんの気持ちを考えると、自分だけ幸せになんてなれないと思って……」

「言い訳は聞きたくない。……っていうか、自分だけ幸せに? 違うだろ。晴陽は俺も幸せにしている。だから余計なことは考えるな。いいな?」

 こんなに明確に凌空が愛を口に出してくれたのは初めてだったから、思わず泣きそうになってしまった。

「は……はい!」

「ここは俺が話をつける。晴陽は少し待ってろ」

 凌空は冷酷な瞳を蓮に向けて、加減のない鋭い右ストレートを彼の頬に叩き込んだ。

「お前、俺の大事な彼女に何してくれてんの? 今後金輪際、晴陽を傷つけるような真似はすんな。もし晴陽に何かあったら、俺は絶対にお前を殺す。泣いて謝られても、土下座されても絶対に許さない。俺たちに関わったことを死んでからも後悔させるからな」

 今まで何度も何度も凌空に冷たい拒絶を繰り返されてきた晴陽ですら、震えてしまうほどの殺気が凌空から発せられている。いや、今まで晴陽が告げられてきた辛辣な言葉とは比較にもならない。警告の剣が蓮の皮膚を突き破り刺していくようだ。

 それでも、背筋が凍るような脅迫に震えているのは晴陽だけだったようで、蓮はつまらなそうに小さく息を吐いて殴られた左頬を優しく撫でた。

「……なんかなー、凌空くんは晴陽ちゃんのことをすっかり自分の所有物みたいに話すけど、それはちょっと天狗なんじゃないかなあ? 晴陽ちゃんの中にいた菫がいなくなっちゃったことで、彼女はオレを男だってちゃんと意識しているみたいだし?」

 晴陽を突き落としてから今まで、蓮は怖いくらいに穏やかだ。口元には常に笑みすら浮かべている。

「晴陽を殺そうとしたくせに、どの口が言うんだよ。これ以上人の彼女にちょっかい出すのはやめろ。お前が憎むべきなのは晴陽じゃなくて俺だろ? 落とし前は俺とつけろ」

「凌空くんは憎いっていうより嫌いっていうか、オレが一方的に嫉妬しているだけだしなあ。凌空くんに何かしようとすると、オレの醜さが際立っちゃう感じで諸刃の剣なんだよね」

「言いたいことがあるならハッキリ言え。お前の言い回しはいつも遠回りすぎる」

 眉間に皺を寄せる凌空から、蓮はわかりやすく目を逸らした。

「……オレは凌空くんが羨ましい。やりたいように生きて、ありのままの姿で菫にも晴陽ちゃんにも愛されて。……オレには何もない。将来の夢もないし、好きな女の子もいない。きっとこの先ずっと、菫を失った悲しみと臓器移植に反対しなかった後悔だけを抱えたまま、無意味な日々を生きていく。……そう考えると堪えられなくなってくるんだ」

 自虐的に心情を吐露する蓮がいたたまれなくて、晴陽は拳を握り締めた。
 悩み、苦しんでいる蓮に手を差し伸べてあげたい。何か力になれることがあれば、助けになってあげたい。
 だけど凌空という彼氏がいながら中途半端に手を貸すような行為は、凌空にも蓮にも無礼になる。

 どうすればいいのだろう。歯噛みする晴陽の横で、凌空は大きな溜息を吐いた。

「俺がやりたいように生きているって決めつけんなよ。お前は一体、俺の何を知ってそんなことを言ってんだよ。お前の行動こそ自分勝手で周りに迷惑をかけまくっているって自覚はないのか?」

 容赦のない物言いも凌空の魅力の一つだが、今の蓮の立場になれば酷だろう。
 もうこれ以上蓮を追い詰めるのはやめてあげてほしいと晴陽が間に入ろうとしたとき、

「とにかく、晴陽は渡せない。だから俺が、蓮さんと友達になるよ」

 凌空の口からは、あまりにも予想していなかった提案が発せられた。
 晴陽と蓮は同じような、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしているはずだ。

「……凌空くん、それってどういう……?」

 戸惑う蓮に対して、凌空は淡々と続ける。

「晴陽も蓮さんもそして菫も、俺が三人まとめて大事にするって言っている。俺が晴陽と一緒にいる限り菫のことを忘れることは絶対にないし、俺と蓮さんが友達になれば、晴陽を介さなくても気軽に連絡を取り合ったり、遊んだりできる。悪くない提案だと思うけど」

 話が飛躍しすぎているので困惑するが、凌空の意図はなんとなくわかる。
 伝わりにくい凌空の優しさに胸が温かくなり、彼女として誇らしい気持ちになる。

「……どうして、オレの嫉妬の話が凌空くんと友達になることに繋がんの? 理解できないのはオレだけ?」

 蓮に助けを求められた晴陽は、優しく微笑んだ。

「わたしは蓮さんの嫉妬に向き合ってあげることも、寂しさを紛らわすために付き合ってあげることもできません。だけど凌空先輩なら、それができるってことですよ」

 晴陽の説明を聞いて、蓮は唖然としながら再び凌空の方を見た。
 疑念を含んだ視線を向けられても、凌空は不機嫌な様子を見せることもなく、ふっと表情を緩めた。

「……俺は今まで、愛なんて信じられなかった。好きだの愛しているだのどれだけ口にしていても人は簡単に浮気するって、心を閉ざしていた。だけど……」

 目が合った凌空は、少しだけ照れくさそうな表情を浮かべていた。

「晴陽に愛されたことで……そして俺が晴陽を愛したことで、人を信じられるようになった。肩の力が抜けて、生きるのが楽になった。俺は蓮さんにも、今の俺と同じように自分を肯定できるようになってほしいって、思うから」

 凌空に望んでいた「自分を肯定してほしい」という、晴陽の願い。
 それはいつの間にか叶っていたようだ。こんなに嬉しいことはない。