「菫さんの家族であるあなたになら、わたしは殺されても文句は言えません。……もしわたしが死ぬことで菫さんの心臓を『返せる』なら、蓮さんは憎しみから解放されますか? これからも生きていくって約束してくれますか?」

 愛する妹が奪われる悲しみを二回も与えてしまった晴陽には、それくらいの責任を負う義務があるのかもしれない。これも運命だと自分に言い聞かせ、蓮の黒い感情を一人で受け止めようという結論に至った。

 蓮は歪な笑みを零して、晴陽の首にかけている指に少しずつ力を入れていった。

「……ありがとう。それから、ごめんね晴陽ちゃん。自分でももう、どうしたらいいのかわからないんだ」

 そう口にした蓮の瞳からは、一筋の涙が流れた。もう『妹』ではない晴陽が何を言ったところで、あの蕩けるような温かい笑顔を見せてくれることはないのだろう。そう思うと、ただただ寂しい気持ちになった。

 ああ、そうだよね。一度親しくなった人の態度が変わってしまうのは寂しいことだ。

 姿形は晴陽だとしても、家族として愛し愛されてきた菫の態度が変わったように見えたなら、蓮にとっては発狂しそうなほどに辛く、寂しかっただろう。

 だんだんと頭に血が通わなくなっていく中で、不思議と覚悟が固まっていった。

 元々、失うはずだった命だ。突然の事故で多くの未練を抱えたまま亡くなった菫のことを思えば、少しの間だけでも生の喜びを感じながら日々を過ごせたし、大好きな凌空と心を通じ合わせることもできたのだ。

 わたしは本当に幸せ者だったといえる。俗っぽく表現するならば、ウルトラハッピーエンドじゃないか。

 虚ろな目で見る蓮の口が微かに、動くのを見た。

「……さよなら晴陽ちゃん。向こうで、菫と仲良くしてあげてね」

 蓮は晴陽の首から手を離した。急に気道が確保された晴陽が思いっきり息をして咳込んだタイミングで、蓮は晴陽が後ろへ倒れるように体を――いや、正確に言うなら胸部、心臓の真上を強く押した。

 元より無抵抗を決めていた晴陽の体は簡単によろめき、背後にある冬の冷たい川に向かって一直線に落下していった。

 走馬灯というのだろうか。死を予感したとき、頭の中を駆け巡るのは十六年間の人生だった。


 小学生の頃、遊んでいた友人たちは元気だろうか。今はすっかり疎遠になってしまったけれど、皆はどこの高校に進学し、何をしているのだろう。一度くらい連絡を取ってみればよかったかもしれない。

 十年間続けてきた絵も、もっと真剣に取り組んでおけばよかった。

 描き終えた凌空の肖像画を見たとき、自分の中で確実に絵に対する情熱が変わった。これからはより勉強を重ね、練習して、向上した技術と熱い情熱を持って、たくさんの絵を描いていきたいと思ったのに。

 高校に入ってからは友達がたくさんできたけれど、中でも明美は本当に馬が合う奴だった。

 互いに譲れないことがあるから稀に本気の喧嘩にもなったが、一緒にいて居心地がよくて、くだらないことで腹を抱えて笑える最高の友人だった。

 濃い付き合いをしてきたとは思うが、月日で換算すると一年も共に過ごすことは叶わなかったのが悔しい。もっといろんなところに行って、いろんな馬鹿をやりたかった。

 翔琉には感謝してもしきれない。過去と向き合うきっかけを与えてくれたうえに、告白のための背中を押してもらったのだから。それに何より、晴陽の描いた絵をずっと肯定し続けてくれたことは、今の自分を確立する大きな要素になっていると思う。

 両親の心情を考えると、本当に酷なことをしてしまったと申し訳なさで苦しくなる。

 心臓移植を受けられると聞いたとき、移植後の拒絶反応で晴陽が命を落とさなかったとき、二人ともどれだけ喜んでくれたことだろう。

 十分に愛情を注いでもらって育ったのに、二人の愛情に報いるどころか、最悪の親不孝で返す形になってしまった。

 もし生まれ変わることができたなら、どんな形でも二人に恩返しがしたいと強く願う。

 いよいよ皮膚が着水しようとする直前になって、脳裏に凌空の顔が浮かんだ。

 その瞬間、ようやく理性よりも本能が上回り、生に対する欲望が晴陽の体を熱く駆け巡った。

 凌空に会いたい。凌空の声が聞きたい。凌空に触れたい。

 もっとずっと一緒にいたい。幸せにしたい。幸せになりたい。
 
 死にたくない。嫌だ。死にたくない!


 全細胞が強く訴えて目を見開いたけれど、すでに晴陽は陸に戻れる体勢ではなく、遅すぎる抵抗もあっけなく川に落ちていった。

 激しい運動を禁止されてきた晴陽は泳げない。藻掻けば藻掻くほど水の中に押し込まれていく恐怖が晴陽を混乱させ、ますます手足が動かなくなる悪循環にもはや為す術はなかった。

 冷水が容赦なく晴陽の体温を奪い、命の終わりを生々しく実感する。晴陽にはもう、祈ることくらいしかできなかった。

 助けて。誰か助けて。助けて。凌空先輩……!

 心の中で呼んだ、愛しい人の名前。

 ――晴陽……!

 返事がくるはずもないのに、凌空の声が聞こえた気がした。

 もしかしたら脳味噌が最期の情けでサービスしてくれたのかもしれない。

 ――晴陽……!

 だけどその幻聴は、朦朧とする意識の中で何度も晴陽の鼓膜を叩いてくる。

 ――晴陽! しっかりしろ!

 そしてついにその声ははっきりとした輪郭を持って、晴陽の胴体を掴んだのだ。

 ……胴体?

「起きろこのバカ! 晴陽!」

 空気を介して愛しい人の声を直接浴びたことで、晴陽は自分が水面から顔を出していることに気がついた。晴陽を抱えながら岸まで泳いで砂利の上に横たわらせた凌空は、晴陽の体を川に入る前に脱ぎ捨てたであろうコートで拭いていった。

 されるがままの晴陽は寒さでぼうっとする頭で、自分は凌空によって助けられたのだとようやく理解したのだった。

「……凌空先輩……す、すみません、でした……」

 誠意を持って謝りたいのに、あまりの寒さに歯がカチカチと鳴ってしまって情けない声が出た。叱られ、そして呆れられるだろう。申し訳なさと嫌われたらどうしようという不安で、体はますます震えてしまう。

「……勝手に死なれちゃ、困る」

 だけど晴陽の自分本位な予想は、凌空の泣きそうな声と瞳に浮かぶ涙で覆された。

 凌空に多大な心配をかけてしまったことに胸が痛むと同時に、生きてもう一度彼に会えた喜びで、今しがた発したばかりの謝罪とは似て異なる言葉が唇から零れた。

「すみません……もう、凌空先輩を悲しませるような真似は、二度としません……」

 そう言って体を起こした晴陽を、凌空は強く抱き締めた。

「……でも、凌空先輩は、どうしてここに……?」

「……菫のお墓参りだけなら、晴陽と蓮さんが二人で出かけることも我慢できたんだけど……飯に行くって聞いたら、その……家でじっとしていられなくて……」

 濡れた体は痛みすら感じるほど冷たいのに、口ごもりながら嫉妬を見せる凌空を見て、こんな状況下にもかかわらず口元が緩んでしまった。

「なんだか幸せそうだね、二人とも」

 明るいのに冷たさを隠し切れていない声色に、背筋が凍った。

 声のした方に顔を向けると、蓮が凌空にハンカチを差し出しながら微笑んでいた。