「おはようございます凌空先輩! 今日も世界で一番素敵です!」

 挨拶を返されることはなかった。凌空の通学路で待ち伏せして彼と登校を共にするのは、晴陽にとっては『好意の主張』だが、凌空にとっては『迷惑な付きまとい行為』だ。凌空が返事をする道理はないだろう。

「私、凌空先輩に謝らないといけないことがあります。……わかったんです、先輩がなかなか私に振り向いてくれない理由が……」

「……やっと? 遅すぎるんだけど」

 凌空が反応してくれたことが嬉しかった晴陽は、胸を張って告げた。

「遊びの恋は嫌なんですよね? 私の中では当たり前のことすぎて、言葉にするのをすっかり失念していましたが、私は凌空先輩とちゃんと結婚するつもりで交際を申し込んでおりますので! どうかご安心ください!」

 凌空はとてつもなく大きな溜息を吐いた。

「……全然、わかってない。つーか、俺は結婚なんて絶対するつもりないから。結婚したいとか子どもが欲しいとかそういう幸せを望むなら、さっさと他の男に切り替えた方がいい」

「私は凌空先輩以外の男の人なんて考えられないです」

 太陽が東から昇るのと同じくらい当然のことを口にしただけなのに、凌空の顔は一層険しくなった。

「知名度の高い大学を出て安定した収入が得られる企業に就職して、都心に1DKのマンションと猫を買って、一人で生きていくのが俺の夢だ。俺の未来に君はいない」

「現実的な将来設計を立てているんですね! 凄いです! でもその設計は変わりますよ! 私がいる未来に変えてみせますから!」

「本当にしつこい。君と交際するとか考えられないから」

 今日こそは笑顔が見たいと思っていたのに失敗した。悲しいことに、凌空が見せたのは晴陽の見慣れた、心底うんざりした表情だった。

「どうしてダメなんですか? 私は凌空先輩だけを生涯愛し抜きます。絶対に浮気しません。稼げる女になれるように勉強も頑張っていますし、料理も練習していますし、苦労をかけるつもりはありません!」

「……確認しておくけど、君の目標は俺と付き合って、何年も交際を続けて、いずれは結婚したいってことで合ってる?」

「はい! 私の未来に凌空先輩がいないなんて考えられないんです!」

 晴陽を一瞥した凌空は、口の端を吊り上げた。

「神様の前で永遠の愛を誓おうが、女なんて皆浮気するじゃん。少しでも良い遺伝子を持った子孫を残したいっていう本能が働くんだろ? だからしょうがないって言ってたし」

「誰がですか? 芸能人ですか? ……ま、まさか元カノですか⁉」

 元カノだったら地球の反対側まで凹むし、その子が羨ましすぎて髪の毛が抜け落ちてしまうほどの衝撃だ。というより、凌空と付き合っておきながら他の男と浮気するなんて、脳のどこかに大きな問題があるとしか思えないほど、晴陽からすれば理解不能な思考回路だ。

「……母親だよ。あいつが不倫ばっかりするせいで、愛想を尽かせた父さんは家を出ていった。正式に離婚してからも男の所に入り浸って俺のことは完全放置だ。……だから俺は、恋愛も結婚も絶対にしないって決めている」

 口に出すのも汚らわしいとでも思っているように、凌空は歩みを止めないまま綺麗な顔を歪めていた。毎日足蹴にされている晴陽ですら見たこともない、怖い表情だった。

「……お母さんと先輩は、仲が悪いんですか?」

「俺はあの人が大嫌いだし、あの人は俺に関心がない。金さえ出していればそれでいいと思ってるんだろうな。ちゃんと顔を見て話をしたのって、三年前あの人が入院している病院に仕方なく見舞いに行ったときくらいだし」

 凌空の口から語られたそのエピソードに、晴陽の心臓が反応して大きな脈を打った。

 彼の知らない、晴陽の物語。一生話すことはないであろう過去に凌空の言葉が掠ったことに運命めいたものを感じつつ、彼の目を真正面から見つめた。

「そんなお母さんを近くで見てきたから、凌空先輩は愛を信用できないと思っているんですか?」

「愛とか簡単に口にすんな。寒気がする」

 晴陽は凌空が好きだ。どんなに袖にされても、毎日学校に行くのが楽しいと思えるくらい大好きだ。

 恋心は間違いなく人生に彩りを与えてくれているのに、彼はこんな気持ちを知ろうともしないでいつも眉間に皺を寄せる。

 気持ちを真っ向から否定されたのはとても悲しい。だけどそれよりも、恋愛は悪いことばかりではないと知ってほしいという気持ちが強くなっていた晴陽は、

「じゃあ私が凌空先輩への愛を証明できたら、デートしてくれますか?」

 恋は理屈じゃないと自分でもわかっているくせに、自ら難題を提示していた。

 自分本位でしか物事を考えられないのは、晴陽の欠点だ。凌空から幸せを与えられてばかりの晴陽が良かれと思った行動は、凌空にとっては当然、鬱陶しくて仕方のないお節介になった。

「は? どうやって? ……いや……もういい。疲れた。やれるもんならやってみろよ」

 凌空は吐き捨てるようにそう言って、いつの間にか到着していた学校の中に入って行った。

 母親に大事にされている実感がある晴陽は、凌空が母親を憎む理由はわかっても、根本的な部分で彼の気持ちを理解できないのかもしれない。

 それでも、晴陽は凌空を諦めない。育ってきた環境が違うのは当然、これくらいの壁で彼に近づくことを諦めるようなら好きになる資格すらないと思った。

 昇降口で立ち止まる晴陽を、登校してくる友人たちは適度な距離を保ったまま通り過ぎていった。