「移植手術が終わって目が覚めたとき、私の人生は決まったも同然でした。凌空先輩が着ていた制服は瀧岡中学校のものでしたから、中高一貫校である瀧岡高校に入るために一心不乱に猛勉強しました」
「……ただでさえ外部入学は大変なのに……頑張ったんだな」
「はい、それはもう。努力が実って入学できて、校内で初めて凌空先輩に会えたときは本当に嬉しかったです。でも、私は一目惚れした体を装いました。先輩には体の弱い内気な私ではなく、『元気で明るい女の子』と認識してもらって恋をはじめたかったからです」
晴陽は息を吐いてから、もう一度背筋を伸ばした。
「だけど……私が菫さんの意思とは関係なく凌空先輩のことが好きだって証明に必要なら、こんな恥ずかしい昔話も曝け出してしまおうかと思いまして。要するに、なりふり構っていられないんです」
このまま凌空から距離を取られて顔も見られなくなってしまう可能性を危惧したら、晴陽が隠しておきたかった過去も、一目惚れした男の子を隠れて写生するなんて変質者まがいの行為をしていたことも、彼に知られて大いに引かれることくらい耐えられると思ったのだ。
「心臓移植後に初めて自分を振り返ってみて、実感しました。昔は食べられなかった納豆が大好きになっていたり、蜘蛛を怖がるようになったり、積極的にクラスメイトと交流しようとしたり、失敗しても切り替えが早かったり……確かに、私の性格や趣味嗜好は前向きで快活だった菫さんの影響を受けているからか、手術前後で変わっていると思います」
事実として認められるくらいに、今の晴陽の足元は安定していた。
「でもそれは心臓をもらって、人生を前向きにやっていこうと誓った私の決意も影響しているんです。ドナーが菫さんじゃなくたって、私は変わっていたはずです」
晴陽はスケッチブックを持つ凌空に一歩近づき、彼の瞳を真っ直ぐに見つめた。
「私はずっと昔から、心臓移植を受ける前から、凌空先輩のことが好きなんです。それだけは、菫さんの影響は関係ないと断言できます」
凌空は晴陽の視線から逃れるように目を逸らした。彼に話す隙も与えずに一方的な自分語りをしているのだ。与えられる情報の多さと、粘着質な好意の押しつけに戸惑うのも致し方ないと思う。
だが、凌空はこの場から逃げようとしなかった。
たとえ目を逸らしたとしても、彼は今もなお晴陽に向き合っている。それは晴陽の話を聞いてくれるという、意思表示の表明に他ならない。
たった一つのその事実が、晴陽に勇気をくれた。
凌空が1%でも好意を持ってくれているのなら、いくらでも頑張れる。
「凌空先輩。美術室まで移動しませんか? 見せたいものがあるんです」
凌空の沈黙を肯定だと捉えた晴陽は、準備室の内扉を開けて彼を美術室まで誘導した。
美術室に足を踏み入れた瞬間、凌空は足を止めた。自惚れが許されるならば、惹き込まれていると形容したいところだ。
「……青い……」
晴陽の手によって彩られた世界が、二人を出迎える。
美術室という四角い箱の中の天井と床、四方の壁にはすべて、晴陽が描いた絵画が敷き詰められていた。天井と壁面は空と海をイメージした青色、床は白を基調とした砂浜をイメージした色で。
そして教室の中央にただ一つ置かれたイーゼルには、先日凌空にモデルになってもらった、デッサンだけが終わったキャンバスがかけられている。
「もう一度、出会いからやり直そうと思いまして」
病院で盗み見たあの日ではなく、たとえば空と海がまるで一体化したかのような青く澄んだ世界で出会っていたならば。
勇気を出して自分から彼に声をかけて、会話を成立させていたならば。
目と目を合わせて、これから紡いでいく二人の物語に胸を弾ませられたならば。
晴陽が理想とする幻想の出会いを起点として新しい関係を築いていけたなら、もう過去とか菫の影響だとか難しいことは何も考えずに、ごくありふれた恋愛がはじめられると思ったのだ。
壁面に貼られた青い絵に触れた。
「本当は四方全部の壁にキャンバスを貼りたかったんですけど、大量のキャンバスを買うお金がなかったので、これらの絵は全部段ボールの上に描いているんです。段ボールに油絵具をそのまま使うとヘナヘナになってしまうので、ジェッソという白色の塗料を塗って補強してから重ね描きしています」
その塗料ですら高校生には決して安価ではなかったけれど、自分の思い描く世界を作りあげるためと考えれば必要な出費だった。
「苦肉の策でしたが、見栄えはそんなに悪くないと思いませんか?」
かかったのは金額だけではない。大量の段ボールに着色を施したので多くの時間と労力を費やした。晴陽の場合、体に負担をかけないために食事や睡眠時間は削ることはできない。だが逆にそれ以外の時間はすべてこの作業時間に充てた。
凌空に二週間近くも会うのを我慢して作り上げた、努力と情熱の結晶とも言える。
その成果もあって凌空はしばらく圧倒されていたようだったが、晴陽の世界に流されないようにだろうか。双眸に力を込めて真正面から晴陽を見据えた。
「……晴陽がずっと前から俺のことを好きだったってことは、わかった。でも、俺を描きたいっていう意思が、晴陽のものだっていう説明にはなってない。証明できていない」
「どうしてそう思うのですか?」
「性格や趣味が菫の影響を受けているのも、事実なんだろ? だったら……今の晴陽の俺への好意が、菫とは無関係だって、言えないだろ」
たとえ動揺していても脳内で冷静に情報を整理して、的確に晴陽の主張の穴を突いてくる凌空の理知的なところをたまらなく好きだと思う。だけどこんな張り裂けそうなほどに愛おしい気持ちすら、凌空は晴陽自身から発生したものではないと疑っている。
スケッチブックはあくまでも『晴陽が昔から凌空を好きだった証拠』であって、『今の晴陽が凌空のことを好きだという証明』とはまた別問題だからだ。
「そうですね、凌空先輩の言う通りです。それに……今ここで白状しますと、どれだけ考えてみても、私が先輩を好きだと思う気持ちの出処が、逢坂晴陽の脳味噌が発する指示なのか、二階堂菫の心臓が持つ意思なのかは判断できなかったんです」
晴陽は凌空のことが大好きだ。とても大切に思っている気持ちは、一度も揺らいだことはない。
だけど菫もまた凌空のことが大好きだったという気持ちは、他の誰よりも晴陽が一番よく知っていると思う。
だからこそ、晴陽だけが好意の出処を主張するのはフェアではない気がする。
ゆえに、晴陽には凌空の望む証明は困難だという結論に至ったのだ。
凌空に近づいていくと、彼の表情が困惑したものから、不満を露にした険しいものに変わっていく様子がよく見えた。
「だけど、私の体を作り上げている細胞の一つひとつが、あなたを渇望していることだけは紛れもない真実です」
「言葉を濁しているみたいだけど、結局証明はできないってことか?」
「はい、すみません。私には証明は困難です。だから……」
怒りや寂しさ、晴陽に対してのあらゆる失望を含有した瞳を向けてくる凌空にさらに一歩近づいて、力強く抱き締めた。
「代わりに、凌空先輩に証明してもらうことにします」
制服越しでも愛しい人の心臓の音が鮮明に伝わってくる。触れているだけでこの先の幸運をすべて使い果たしてしまったかのような、とてつもない幸福感が襲ってくる。
突き飛ばされることも覚悟の行動だったが、凌空は晴陽を受け入れて動かなかった。凌空の感触と愛おしさをいつまでも堪能していたい欲望を堪えて、薄い耳に唇を近づけた。
「凌空先輩も私のことが好きなら、抱き締め返してください」
自分の好意すら証明できなかったくせに偉そうに命令する晴陽に、普段の凌空なら冷たい視線を投げつけていただろう。
だが、今の凌空は戸惑っているように見えた。
「……離せよ」
「ダメです。離しません。抱き締め返すか振り解くか、凌空先輩の意思で選択してください」
晴陽からの好意でも菫からの好意でも、どちらでも受け入れてくれると凌空が口にしてくれない限り、晴陽はこの先何をやっても彼の信頼を得られないことを意味する。それは晴陽が望む恋人同士の在り方とは違う。
だから凌空が証明をしてくれない場合は彼を諦め、彼の前から姿を消すしかない。
それほどの強い覚悟を持って、晴陽は今、この場に立っている。
凌空は晴陽の腕から逃れようとはしなかった。希望的観測かもしれないが、凌空は晴陽を拒否する理由を考えているのではなく、晴陽が離れていかないためにどうすればいいかを模索しているようにも見えた。
どれくらいの時間が経っただろうか。凌空が唇を開く気配を感じて、耳を澄ませた。
「……晴陽がたくさん好きだと口にしてくれても、俺は……晴陽みたいにできない。晴陽の愛情の大きさに、応えられるとは思えない。……だからいつか、俺に飽きてしまうと思う」
「飽きません。ずっと好きです。だから、選んでください」
言葉を選びながら不安を吐露する凌空の邪魔をしないよう、息を潜めた。
これだけは、ここだけは、彼の言葉を聞く側に徹しなければならないのだ。
「……晴陽だけは、好きになりたくなかった」
語尾が過去形になっていることに気づき、全身に鳥肌が立った。
「軽薄に好きとか言ってくる女なんて、嫌いだったはずなのに。晴陽を最後まで嫌いでいられたらよかったのに。それなのに……俺のことをずっと好きでいてほしいと、勝手なことを思っている」
強張った晴陽の背中に、ゆっくりと凌空の手が回ってきた。それが彼の出した答えだった。
確かな幸福を噛み締めながら晴陽はより強く凌空を抱き締め、心音も、温もりも、声も、匂いも、彼のすべてをこの身に感じながら宣言した。
「約束します。これから先もずっと、私は凌空先輩のことが好きです。だから先輩も安心して、私のことを好きでいてください」
この人を生涯をかけて愛し抜くことを、神よりも先にこの心臓に誓った。
★
息をすることさえ忘れ、瞬きする時間すら惜しい。
それくらい一心不乱に描き続けていたから、時間の経過なんてすっかり失念していた。
完成と同時に絵筆を置いてからようやく壁時計を見ると、時刻は二十二時を回っていた。
生徒がこんな時間に校舎に残っていることについて、諏訪部先生はどうフォローしたのだろうか。もしかしたら面倒なことになるのかもしれないけれど、おかげで目的は達成できたわけだし、まずは感謝しておこう。
夜なのにやけに外が明るいと思って窓の外を見たら、はらはらと粉雪が舞っていた。
この辺りでは滅多に見られない雪に、そして『私』が鑑賞できるのが最後になる雪に、「さよならの舞台を整えてくれてありがとう」だなんて、興奮冷めやらぬ頭で自惚れる。
「見てよ凌空くん、雪だよ。っていうか、当たり前だけど暖房消えてるね。ごめんね気が利かなくて。寒くない?」
「……まあ寒いけど、平気だ。なあ、この絵は完成したのか?」
「うん。厳密にいえば油絵は、絵具がちゃんと乾いて修正がないと判断した時点で完成なんだけど……私は満足のいく絵が描けたと思ってる。だからこの絵はこれで、完成」
着色の終わったキャンバスを二人で見つめた。
デッサン時と比べて、凌空くんの表情は格段に柔らかくて優しいものに変わった。この表情を余すことなく描写するために、私は今まで絵筆を握ってきたのだと言い切れる。
小学四年生のとき、習字を辞める代わりに親に無理やり入会させられた絵画教室だったけど、凌空くんに出会って恋をして、彼を描きたいって目標を持ってからは下手な絵は描けないと思って物凄く練習した。
その成果もあってそれなりに評価をされるようにはなったけれど、まだ『晴陽』には及ばないな。この絵をこんなに満足度の高い絵に仕上げることができたのは、半分以上あの子のおかげだし。
今までの人生に思いを馳せる。短すぎたし未練も掃いて捨てるほどあるけれど、凌空くんの肖像画を描くという最大の夢を最高の形で叶えられた今、私の心は満たされている。
「……これでもう、何も思い残すことはないなあ」
噓偽りも強がりも何一つなく、自然とこの言葉が零れた。
私の本心を聞いた凌空くんはそっと、頭を撫でてくれた。彼が触れた箇所から熱が全身を溶かしていくようだった。
「……満足したのか? 『菫』は」
まさか自分の名前を呼んでくれるとは思わなかったから驚いた。
「……よく今の私が菫だって気づいたね。どうしてわかったの?」
「晴陽のことを好きだって自覚したからな。雰囲気も話し方も、菫と晴陽は全然違うって思う」
恋って、ここまで人を変えるんだなあ。晴れやかな表情で真っ直ぐに晴陽への好意を口にする凌空くんは、私が今まで見てきたどんな彼よりも美しく、輝いて見えた。
「凌空くんは私が出てきた理由とか聞かないの? もしかしたらこのまま、晴陽の体を乗っ取っちゃうかもしれないよ?」
「別に聞かない。ただ、晴陽の体を乗っ取ろうとか馬鹿なことを考えているんだったら、俺は菫を許さない」
これは妬けて仕方がない。晴陽のやつ、随分と愛されているじゃないか。
「冗談だよ。凌空くんには誤解されたくないから言い訳させてもらうけど、私は晴陽の体を乗っ取ろうとしているわけじゃない。今回入れ替わったのはなんていうか、どうしても絵を描きたかったのと……最期の挨拶をしたいと思ったからなんだ」
「そうか……。じゃあ、たくさん話をしよう」
その後、凌空くんとしたお喋りは本当に穏やかで、心地いい時間だった。
生きていた頃はいつも私のアタックを仏教面で流すだけだった凌空くんを変えてくれた晴陽の頑張りには、本当に感謝だ。
「ちなみに私、まだ凌空くんのこと好きなんだけど、失恋確定?」
「ああ。俺は菫じゃなくて、晴陽が好きだから」
数えきれないくらい振られ続けた挙句、結局この恋を実らせることはできずに終わってしまったけれど、昔とは違って結果に納得している私がいた。
「ま、悔しいけどしょうがないか! 晴陽はイイ奴だし、ずっと描きたかった凌空くんの絵も描けたわけだし、これ以上を望んだら罰が当たっちゃうよね」
短い人生だったけれど、友人や家族に恵まれたこと、凌空くんに出会えたこと、そして晴陽に心臓をプレゼントできたことを考えれば、いい人生だったと断言できる。
晴陽の体の中で力強く脈を打ち続ける心臓を自慢するように胸を張ると、
「菫の心臓で晴陽の全身に血を送るってことは、二人は運命共同体だ。だから晴陽が言う『体を作り上げている細胞一つひとつ』の中には、菫も存在している。だから安心しろ。晴陽も菫も、俺が大切にしていくから」
凌空くんは私の心臓を指差し、大好きな声で明言した。
十二歳のとき、同じクラスだった凌空くんを好きになった私に「よくやった」と言って褒めてやりたい。中学校上がりたての子どもだったくせに、男の子を見る目は十分に備わっていたようだ。
「それいいね! いや、むしろ最高かも!」
こんな素敵な男の子を最期まで愛し抜けたことを、誇りに思う。このまま二人きりの空間にい続けたら名残惜しくなってしまうだろうし、それに晴陽が嫉妬するかもしれないから、そろそろ退散するとしよう。
窓を開けて、美術室に劈くような冷たい風を入れて空気を入れ替えよう。夏に息絶えた私がもう一度雪に触れられるなんて、思ってもみなかった。
「ありがとう。……さようなら、菫」
凌空くんの別れの挨拶を背中で聞きながら、私は粉雪に手を伸ばした。もうこれ以上の会話は望まない。死に方は選べなかった分、去り際は格好つけさせてもらおう。
別れの言葉は口には出さずに、ただ心の中で彼へと言葉を贈った。
お礼を言いたいのは私の方だよ。ありがとう、凌空くん。晴陽と仲良くね。
お母さんとも少しずつ話せるようになれたらいいね。
来年は受験だね。凌空くんなら心配ないと思うけど、晴陽との恋愛に溺れて勉強を疎かにはしないようにね。
それからできれば――できれば、ちょっと周りが見えなくなっちゃってる私のお兄ちゃんを救ってあげてほしい。
凌空くんや晴陽に迷惑なちょっかいをかけていると思うんだけど、本当は人の痛みに寄り添ってあげられる優しさを持った人だから。
……あ! 時間になっちゃった。最後に一言だけ。
とにかく、私と関わってくれた皆が幸せになりますように!
肌の上で溶けた雪と同時に、私のボーナスステージは終わりを告げた。
「……あたしはダイヤの原石を発見してしまった……見てよこのイケメン!」
明美が目を爛々と輝かせながら見せてきたスマホの画面には、色白の中性的な男の子がピースサインで写っていた。
「デビューしたばっかの子なんだけどさ、超可愛くない? SNSも早速フォローしたんだけど、不慣れな感じがまたいいのよ!」
「確かにイケメンだと思うけどさ、あっくんにはもう飽きちゃったの?」
「あっくんは殿堂入りしてるから好きの次元が違うの! 今はとにかくこの子に貢ぎたい! 推したい! ブルーレイ第一巻にはイベント抽選券が同封されるから積まないと!」
「明美の愛って、見返りを求めないよね。格好いいわ」
凌空からの愛が欲しくてあの手この手を尽くして藻掻いた欲望丸出しの自分が、醜く思えてくる。ただその必死さがあったからこそ、凌空と交際に至ることができたわけだけど。
「晴陽もようやくあたしの器のでかさに気づいたか。イベントに当選したら一緒に連れていってあげてもいいよ!」
「ううん、遠慮しとく。……凌空先輩が妬いちゃうかもしれないし!」
名前を口にするだけで頬が緩む最愛の彼を想いながら、スマホに目を落とした。
「あ、メッセージ来てる。『今日の放課後諏訪部から呼び出されているけど、待っててくれるか?』だってさ。一緒に帰りたいってことだよね? わたしの彼氏、かわいいー!」
美術室で凌空に愛を証明してもらってから、一週間が経過していた。
凌空はまだ晴陽に対して一度も「好き」だとか「一緒にいたい」だとか、付き合いたての恋人同士が交わすような甘い言葉を囁いてくれたことはない。だけど、晴陽を見つめる眼差しや口調から、愛情を抱いてくれていることが確かに伝わってくる。
毎日のメッセージのやり取りだとか、部活のない日は待ち合わせて一緒に帰ったりだとか、何気ない日常の中で特別な関係になれたのだと実感することも増えた。
凌空と歩幅を合わせて生活する毎日はとても愛おしく、晴陽は以前よりもさらに増して、一分一秒を大事に生きていきたいと思うようになった。
目尻を下げまくって返信する晴陽を、明美は観察するかのように見ていた。
「……なんか、人が変わったみたいだよね」
「……え、わたしが?」
突然の指摘に心臓がどきりと跳ねて、体が強張った。
晴陽を悩ませた菫との境界線問題は、本当に不思議なのだが、凌空の絵を完成させたあと菫の存在感が完全に消失したことで自然と解決していた。
理由はわからない。ただ、凌空を描くために絵筆を持ったあたりから美術室を出るまでの間、晴陽の記憶が曖昧であることは無関係ではないだろう。
後日、完成されたキャンバスを目にした晴陽は、そのあまりの完成度の高さに自作ながら見惚れて鳥肌を立てた。いや、自作というのは語弊があるのかもしれない。
あの絵は晴陽が今までに積み上げてきた絵画の技術と、迸る菫の情熱が乗算されて完成した産物なのだろうと推測している。
晴陽は今確固たる自信をもって自分が逢坂晴陽だと断言できるけれど、心臓という大きな核の中にいた『菫』を失い、少なからず自分の性格がまた変化したことも自覚していた。
だから明美に「人が変わったみたい」と指摘されて、彼女が菫の消失を見抜いたのではないかと驚いたのだ。
「違う、都築先輩が。あんなにツンツンして怖い印象だったのに、晴陽と付き合ってからはデレッデレじゃんね」
安堵の息を零した。以前、「偽物だったらどうする?」と尋ねたときに「晴陽は晴陽」と答えた明美が、些細な変化を察するはずもなかった。
それは紛れもなく信頼に裏付けされた、鈍感という名の友情だ。
「第三者から見ても、凌空先輩がわたしのことを好きだって伝わってるんだ……感激だわ……」
目を瞑れば今でも、凌空が晴陽に向けてきた嫌悪の表情が思い出される。そんな彼が今は晴陽のことを好いているだなんて、ほんの一ヶ月前には夢にも思わなかった。
「でも言われてみれば、晴陽もちょっと変わったかも。ちょっと大人しくなったっていうか……」
「大人しい? ……大人っぽくの間違いじゃなくて?」
わざと含みを持たせて口元に笑みを浮かべると、明美の目は見開かれた。
「は……? まさかあんた、都築先輩と……?」
晴陽は否定も肯定もせずに、ただ明美の目を見ながら穏やかに微笑んだ。本当は、まだキスすらできていないわけだが。
「えー⁉ ちょっと! 詳しく教えてよ!」
「おっと、予鈴だ。さあ、午後の授業も張り切っていきましょうか」
そう言ってわざとらしいほどの優雅な振る舞いで席に戻った晴陽とは対照的に、授業中集中力を欠いた明美は教師に注意を受けたのだった。
今日も明日も明後日も、晴陽は晴陽のまま、自分らしく充実した日々を過ごしていける。そう信じて疑わなかった。
大きな問題を解決して気の緩んでいた晴陽は、拡張型心筋症を告知されたときに思い知らされた教訓をすっかり失念していた。
――人生は、何があるのかわからないのだ。
☆
『それじゃ、行ってきます。凌空先輩も来週の模試に向けて、勉強がんばってくださいね。あとで美味しいお菓子を持って伺いますから』
愛しい彼にメッセージを送ると、勉強に集中できていないのか、凌空からはすぐに返信があった。
『ありがとう。生クリームが食べたい気分だ』
『了解です! 解散したらまた連絡しますね』
そう返すと蟹のスタンプが送られてきて、晴陽はふっと笑みを零した。凌空の中では蟹のスタンプはピースサインを表現していて、すなわち肯定的な意味を含んだメッセージであることを理解できるほどに、晴陽は彼とやり取りを繰り返してきたのだ。
見かけによらず甘党なところも可愛い。いや、甘いのが苦手だったとしても、それはそれで可愛い。
日曜日。最寄り駅のロータリー前で、晴陽はある人物を待っていた。
待ち合わせ時間の五分前、現れたスカイブルーの軽自動車に近づいていくと、運転席に座るその人は満面の笑みを見せた。
「おはよー晴陽ちゃん! ごめんね、待たせちゃった?」
「い、いえ、全然。急だったのに付き合わせてしまって、すみません」
促されて助手席に座ると、流行りの音楽と香水の匂いが晴陽の体を包み込んだ。
蓮はいつものように話しかけてくれただけなのに、晴陽は緊張していた。これは菫が消失した後だからこその変化なのだろう。蓮を見て初めて強烈に「格好いい年上の男性」だと意識してしまったのだ。
「いいんだよー、菫のお墓参りにはどっちみち行くつもりだったし、晴陽ちゃんから誘ってくれて嬉しいし」
凌空と付き合っているのにもかかわらず、休日に別の男性を呼び出したのにはちゃんとした理由がある。
一つは、菫の墓参りがしたかったから。
本来であれば知ることもできないドナーとそのご家族と偶然か奇跡か関わることができたのだ。墓前に挨拶に行かない選択肢はなかった。
「ありがとうございます。あ、これは今日付き合わせてしまったお礼です。よかったらご家族で召し上がってください」
「わ、ありがとー! ……あれ? 晴陽ちゃん、なんか雰囲気変わった?」
「……あ、わかりますか? 実はわたし、凌空先輩とお付き合いすることになったんです」
そしてもう一つは、凌空と正式に交際に至ったことを直接蓮に報告したかったからだ。
蓮には以前、『晴陽』として生きるなら徹底的に恋路を邪魔すると宣言されている。だからこそ、結果をあえて報告したうえで、凌空との交際に余計な茶々を入れられないよう対策を講じていきたいと考えたのだ。
話を振られたので早速報告してしまったが、車のハンドルもとい、命の手綱を握られているこのタイミングでわざわざ話す必要はなかったのかもしれないと、急に焦ってきた。
冷や汗を流しながら横目で反応を窺ってみると、晴陽の視線に気づいた蓮は強張った表情をすぐに明るい笑顔に変えた。
「そうなんだ! おめでとう! ついにだね! やったね!」
「ありがとうございます。……あの……怒っていますか?」
なぜこんな馬鹿な質問をしてしまったのか。自分の無神経さを後悔している晴陽の手を、凌空は左手でぎゅっと握った。
「まさか! オレは菫を溺愛しているから恋敵である晴陽ちゃんには冷たい態度を取っちゃったけど、女の子の恋の成就も祝福できないような小さい男じゃないよ! 菫の分も、凌空くんを大切にしてあげてね!」
「ま、前向いてください! わたしから手を離してください! 危ないですっ!」
蓮の危険な運転を咎めつつも、晴陽は内心安堵していた。よかった。蓮は妹が失恋しても恋敵に恨みを抱くような男性ではなかったらしい。
「ね、どうやって凌空くんを口説き落としたの? 話聞かせてよ!」
「口説き落としたと言うか、諦めずに好意を伝え続けた結果、ようやく想いが届いたというか……」
「あのツンツンボーイの心を打ち抜いたのは、一途な気持ちだったってことかー! すっごいありきたりなラブストーリーだけど、オレは嫌いじゃないよ! 愛の告白の言葉はどんなの? 『あなたに毎日味噌汁を作ってあげたい』とか?」
「……少し、ジェネレーションギャップとやらを感じています」
「冗談だよ、冗談! ……え、古いかな?」
蓮の少しだけ不安そうな表情がなんだか可笑しくて笑みを零すと、彼も楽しそうに笑っていた。
さっきの言葉通り、蓮は自分たちのことを本当に祝福してくれているのだろう。
反応や言動からそう確信した晴陽は、ところどころ二人だけの秘密にしておきたい部分などは端折りながら、凌空と付き合うまでの経緯などを話した。
相変わらず聞き上手な蓮は共感してくれたり男性目線での感想をくれたり、出会った頃のように明るいお兄さんとして車中の会話を盛り上げてくれた。
そうして車を走らせること数十分。菫の墓がある隣市の墓地に到着した。
月に一度は訪れるという蓮に案内され、晴陽はついに菫の墓石の前に立った。
生前の菫を知らない晴陽は、墓を実際にこの目で見ても感傷的にはならなかった。晴陽が産まれる前に亡くなっていた祖父の墓参りに来たときと、同じような感情を抱いただけだ。
だけど心臓を移植されてから今この瞬間も、多大な感謝を抱いていることだけはずっと変わらない。
墓と周辺を掃除してから打ち水をして、持参した花と菫が好きだったと聞いていた菓子と、そして――凌空を描いたときに使用した絵筆を供えた。
それから両手を合わせて目を瞑り、一方的ではあるものの約束を交わした。
――わたしと菫さんが夢中になって恋をした彼を、この命尽きるまで必ず大切にします、と。
「さて……と。菫との話は終わった? ねえ晴陽ちゃん、まだ時間ある? 凌空くんとのお付き合い記念に、お兄さんがお祝いしてあげるよ! 美味しいものでも食べに行こう。もちろん奢るし!」
「え……いや、でも……」
「あ、凌空くんに余計な心配はかけたくない感じ? もちろんあの子が反対するなら無理にとは言わないから、一応聞いてみて?」
有無を言わさぬ強引さで促され、晴陽は凌空にメッセージを送った。今までとは異なり、晴陽と凌空は恋人同士という関係にある。余計な心配をかけないように墓参りのことは伝えてあったけれど、食事を共にするのはやはり凌空の許可が下りないかもしれない。
『了解』
反対されたら蓮との食事は断るつもりだったが、返信内容は予想よりもずっと素っ気ない一言だった。少しくらいヤキモチを焼いてほしかったかもなんて、苦笑してしまう。
「どうしたの晴陽ちゃん? 凌空くんの愛を感じられなくて、寂しくなっちゃった?」
「ち、違いますよ! さあ行きましょう! わたし、お腹減ってきちゃいました!」
考えていることが顔に出やすいのは、菫ではなく、晴陽自身の特徴のようだった。
三十分かけて移動し、蓮は有料駐車場に車を停めた。
「着いたよ。ここから少しだけ歩くけど、大丈夫だよね?」
「あ……ここって……」
車を降りて、駐車場から見える木々や遊具を視認して現在地を把握した。
先日、菫との境界線が曖昧になったときに、菫のことを知るために縁のある場所を回っていた際に訪れた泉彩公園だ。
子どもからお年寄りまで幅広い年代が訪れると聞く公園だ。晴陽は馴染みがないので周辺情報にも疎いが、彼らをターゲットにした食事処がたくさんあるのだろう。
そう思った晴陽はなんの疑いもなく、公園内に入っていく蓮に子鴨のように従順に付いていった。
「やっぱ川が近いと寒いですね」
「そうだね。寒いけどもう少しだけ、ほとりの方まで行ってみない?」
周辺の店に行く気配もなく時間をかけて懐かしむように散歩する蓮に、次第に晴陽はそこはかとない不安を抱き始めた。だけど「お祝いがしたい」と言ってくれている手前、余計なことを言って蓮を不快な気持ちにさせるのは憚られた。
「オレたちの関係ってさ、周りから見たらどう推測されているんだろうね? 恋人、友人、親子、兄妹、親戚……ね、晴陽ちゃんはどう思う?」
「うーん、顔や雰囲気が似ていないので血縁関係は除外されそうですよね。かといって、恋人にしては距離感がありますから……友人、でしょうか」
「正しいけど、嬉しくない回答だなあ」
笑ってはいるけれど、どうやら晴陽は選択肢を間違えたらしい。蓮の機嫌は少々斜めになってしまったようで、それからは晴陽が何を話しかけても素っ気ない反応しか返ってこなかったため口を閉じることにした。
この時期、川のほとりに近づく物好きは晴陽たち以外にはいなかったらしく、肌を刺す冷たい風に身を縮めながら二人で水の音を聞きながら歩いていた。
「オレね、自分のものさしで勝手に物事を決めつける人が嫌いなんだ。『アイコスだったら吸っていいだろ?』とか言って、許可も出してないのに喫煙しようとする奴とか、『消化にいいんだよ』って皆が食べている唐揚げにレモンをかけるお節介な女の子とかね」
沈黙が続く中、不機嫌だと思っていた蓮が始めた突然の自分語りに目を瞬かせつつも、向こうから振ってくれた雑談を嫌がる理由はない。
「わたしは未成年なのでよくわかりませんが、蓮さんは自分勝手な人が苦手ってことですね」
「うん。アイコスだろうがオレは煙草が嫌いだし、消化に悪くても唐揚げはそのまま食べたい。――だからね晴陽ちゃん。オレは凌空くんの、他人の性格や思考を勝手に決めつけてくるところが嫌いなんだ」
周囲に人がいない状況と、凌空が嫌いという発言が晴陽の不安に拍車をかけた。蓮は何が言いたいのだろう。
岩場を歩いていた彼は、足を止めて振り向いた。
「凌空くんを描きたいっていう菫の願いは、叶ったの?」
予想していなかった質問に一瞬体が強張ったが、頭の中はまだ冷静だった。
誠意を持って答えるべく、静かに息を吸って彼と対峙する。
「はい。満足のいく絵に仕上がったと、わたしは……いえ、菫さんは、そう思っています」
まるで審判するかのごとく、晴陽から目を逸らさない蓮の瞳を見つめ返した。
視線が交錯する数十秒間の沈黙を破ったのは、蓮の微笑だった。
「そっか、よかった。これであの子のやりたいことは全部終わった。もう、オレに未練はない。この世になんの執着もないや」
目を離した瞬間に消えてしまいそうな蓮の異様な雰囲気に、胸騒ぎを覚えた。
「しゅ……執着がないなんて大袈裟ですって。蓮さんにはこれから先、楽しいことがたくさん待っているじゃないですか」
「晴陽ちゃんの上辺だけの言葉を信じる根拠はないよ。菫が死んじゃったとき、何もかもが受け入れられなかった。生きていられないと思った。……でも、たくさん未練を残したまま逝ってしまった菫のためにも、あの子の望みはできるだけ叶えてあげたいってそう思ってきた。それがオレの生きるモチベにもなっていた」
「……菫さんの願いが叶ったから、もういいってことですか……?」
「うん。菫も一人じゃ寂しいだろうし、早く側にいってあげようかなって」
蓮の意図を悟り、蒼白した。岩場に立つ蓮の真後ろには川が流れていて、軽く飛ぶだけで簡単に入水できる。生きる理由を失った彼は今、自ら命を絶とうとしているのだ。
蓮を強く刺激しないように、晴陽はゆっくりと彼の側まで近づいて手を差し出した。
「そんなことを言わないでください。わたしは――」
「その目でオレを見るな!」
さっきまでの消え入りそうな雰囲気から一転、ひどい剣幕に驚いた晴陽は、伸ばした手を咄嗟に少しだけ引いてしまった。
そんな晴陽を見て、蓮は心底憎いものを語るかのように声を荒らげた。
「オレにはわかる。凌空くんを描き上げるという目的を達成した今、君という器の中から菫はいなくなってしまった。君が、二度もあの子を殺した! ……許せない。好きな人と結ばれて、一人だけ幸せそうに生きようとしている君が!」
菫の消失はとっくに見透かされていた。憤怒と憎悪をその瞳に滾らせ晴陽を睨みつける蓮からは、いつもの明るくて爛漫な彼の影を微塵も感じず、ゾッとさせられる怖さがあった。
いや、勝手に人格を決めつけること自体、蓮に対して無礼だった。自分や相手が傷つくことがわかっていても、容赦なく憎しみをぶつけられるような好戦的で感情的な今の姿こそ、彼の本来の姿かもしれないのだ。
凌空に夢中で、凌空しか見ようとしてこなかったから知らなかった。
逃げないでほしいと懇願されたとき、菫として生きてほしいと言われたとき――蓮の中にある危うい思想に気づいて、手を差し伸べる機会は何度もあったはずなのに。
それなのに晴陽は、菫というフィルターを通して『妹を溺愛する優しい兄』という肩書でしか蓮を見てこなかった、蓮の気持ちを考えてこなかった報いを今、受けているのだろうと思った。
晴陽の動揺を煽るように、蓮は薄ら笑いを浮かべながら捲くし立てた。
「もっと動揺して。もっと困り果てて。オレの言葉一つひとつにくるくると踊らされてよ。晴陽ちゃんの思考や感情がオレの言動で左右されるのが、たまらなく気持ちいいんだ」
菫の存在が体内から消えた今、素直な感想を述べてしまえば、蓮を怖いと思った。
一つでも選択肢を間違えて彼の逆鱗に触れてしまったら、大切なものを失ってしまう予感しかなかったからだ。
「……わたしもこの間まで、自分がわからなくなって藻掻いたんです。いろいろと調べて知ったんですけど、人格は先天性と後天性の二つによって決まるらしいんです。逢坂晴陽は菫さんだけで作られているわけではありません。だから――」
「そんな話は聞きたくないんだよ」
ピシャリとした拒絶に口を噤んだ。理解してもらうために話をしようとしたが、失敗だったようだ。
「はい、ここで問題です! オレが晴陽ちゃんにちょっかいをかけ続けてきた理由は二つあるんだけど、もうわかったかな? 一つは『菫』への嫌がらせですが、さて、もう一つはなんでしょう?」
クイズ番組の司会者のような明るい声色で、蓮は目に見えないマイクを晴陽に向ける仕草をしてみせた。
「……凌空先輩のことが、気に入らないからですか?」
蓮さんは「せいかーい」と言って、拍手した。
「オレはね、この身が黒い炎で焦げてしまうほど凌空くんに嫉妬してたんだ。だから八つ当たりしたかったんだよね」
嫉妬。言葉にすればたった三文字の世の中にごくありふれた感情であり、菫を可愛がっていた蓮が妹の想い人である凌空に対して嫉妬する理由はわかる。
だが、彼がさらりと口にした一つ目の答えについては腑に落ちず、引っ掛かりを覚えて気持ちが悪い。
「待ってください。わたしへの嫌がらせなら理解できるんですけど、菫さんへの嫌がらせが目的だったってどういうことですか? 蓮さんは菫さんのことが大好きで、大切だったんじゃないんですか?」
「嫌だなあ、オレを噓吐きみたいに言わないでよ。もちろんオレは菫のことが大切だし、大好きだよ? でもね……だからこそ菫に対してものすごく、怒っていたんだよ」
そう言って蓮は晴陽――いや、晴陽の心臓を指差した。
「心臓だけになった菫は、凌空くんへの好意だけを覚えていた。だから晴陽ちゃんの体を使って、恋を実らせようと努力していた! そんな酷い話があるか⁉ 家族のことは全部忘れた? どうでもよかった? オレから関わろうとしなければ無視するつもりだったんだろうよ!」
今にも泣きそうな顔で辛そうに叫ぶ蓮を見て、かつて菫のものだった心臓は痛んだ。
違う。誤解だ。大切な人にこんな顔をさせたいはずがない。
晴陽が凌空を好きな気持ちが相乗効果となっていたせいか、蓮から見れば家族をないがしろにして凌空を追いかけてばかりいるように見えたかもしれないが、決してそんなことはない。
菫はずっと家族を想っていた。蓮のことも、本当に大切にしていたのだ。
異様な威圧感を纏って近づいてきた蓮は、両手で晴陽の頬をそっと挟んだ。
「菫に聞いてくんない? どうしてオレのことは覚えていてくれなかったの? オレたち、仲のいい兄妹じゃなかったの? ……そう思っていたのは、オレだけだった?」
「覚えていないわけがないじゃないですか。忘れるはずがないじゃないですか!」
だけど、それを蓮に理解してもらえる術はない。歯がゆいけれど『証明』できないのだ。
「……だったら、どうして……」
蓮の手はゆっくりと晴陽の頬から下に降りてきて、その細い指を首にかけた。
至近距離で見る蓮の瞳に、きっと晴陽は映っていない。彼はいつも、どこでも、どんなときでも、愛する妹の姿を探し求めている。
「蓮さんは……菫さんの心臓を使って生きているわたしが、憎いですか?」
「菫を感じられたときの晴陽ちゃんは、好きだったよ。だけど……もう、菫はいないから」
目の前にいるのに晴陽を否定する蓮に対して、腹が立つとか悲しいとか、そういった感情は抱かなかった。このままだと消えてしまいそうな彼を繋ぎ止めることだけに、思考回路を必死に働かせていた。
「菫さんの家族であるあなたになら、わたしは殺されても文句は言えません。……もしわたしが死ぬことで菫さんの心臓を『返せる』なら、蓮さんは憎しみから解放されますか? これからも生きていくって約束してくれますか?」
愛する妹が奪われる悲しみを二回も与えてしまった晴陽には、それくらいの責任を負う義務があるのかもしれない。これも運命だと自分に言い聞かせ、蓮の黒い感情を一人で受け止めようという結論に至った。
蓮は歪な笑みを零して、晴陽の首にかけている指に少しずつ力を入れていった。
「……ありがとう。それから、ごめんね晴陽ちゃん。自分でももう、どうしたらいいのかわからないんだ」
そう口にした蓮の瞳からは、一筋の涙が流れた。もう『妹』ではない晴陽が何を言ったところで、あの蕩けるような温かい笑顔を見せてくれることはないのだろう。そう思うと、ただただ寂しい気持ちになった。
ああ、そうだよね。一度親しくなった人の態度が変わってしまうのは寂しいことだ。
姿形は晴陽だとしても、家族として愛し愛されてきた菫の態度が変わったように見えたなら、蓮にとっては発狂しそうなほどに辛く、寂しかっただろう。
だんだんと頭に血が通わなくなっていく中で、不思議と覚悟が固まっていった。
元々、失うはずだった命だ。突然の事故で多くの未練を抱えたまま亡くなった菫のことを思えば、少しの間だけでも生の喜びを感じながら日々を過ごせたし、大好きな凌空と心を通じ合わせることもできたのだ。
わたしは本当に幸せ者だったといえる。俗っぽく表現するならば、ウルトラハッピーエンドじゃないか。
虚ろな目で見る蓮の口が微かに、動くのを見た。
「……さよなら晴陽ちゃん。向こうで、菫と仲良くしてあげてね」
蓮は晴陽の首から手を離した。急に気道が確保された晴陽が思いっきり息をして咳込んだタイミングで、蓮は晴陽が後ろへ倒れるように体を――いや、正確に言うなら胸部、心臓の真上を強く押した。
元より無抵抗を決めていた晴陽の体は簡単によろめき、背後にある冬の冷たい川に向かって一直線に落下していった。
走馬灯というのだろうか。死を予感したとき、頭の中を駆け巡るのは十六年間の人生だった。
小学生の頃、遊んでいた友人たちは元気だろうか。今はすっかり疎遠になってしまったけれど、皆はどこの高校に進学し、何をしているのだろう。一度くらい連絡を取ってみればよかったかもしれない。
十年間続けてきた絵も、もっと真剣に取り組んでおけばよかった。
描き終えた凌空の肖像画を見たとき、自分の中で確実に絵に対する情熱が変わった。これからはより勉強を重ね、練習して、向上した技術と熱い情熱を持って、たくさんの絵を描いていきたいと思ったのに。
高校に入ってからは友達がたくさんできたけれど、中でも明美は本当に馬が合う奴だった。
互いに譲れないことがあるから稀に本気の喧嘩にもなったが、一緒にいて居心地がよくて、くだらないことで腹を抱えて笑える最高の友人だった。
濃い付き合いをしてきたとは思うが、月日で換算すると一年も共に過ごすことは叶わなかったのが悔しい。もっといろんなところに行って、いろんな馬鹿をやりたかった。
翔琉には感謝してもしきれない。過去と向き合うきっかけを与えてくれたうえに、告白のための背中を押してもらったのだから。それに何より、晴陽の描いた絵をずっと肯定し続けてくれたことは、今の自分を確立する大きな要素になっていると思う。
両親の心情を考えると、本当に酷なことをしてしまったと申し訳なさで苦しくなる。
心臓移植を受けられると聞いたとき、移植後の拒絶反応で晴陽が命を落とさなかったとき、二人ともどれだけ喜んでくれたことだろう。
十分に愛情を注いでもらって育ったのに、二人の愛情に報いるどころか、最悪の親不孝で返す形になってしまった。
もし生まれ変わることができたなら、どんな形でも二人に恩返しがしたいと強く願う。
いよいよ皮膚が着水しようとする直前になって、脳裏に凌空の顔が浮かんだ。
その瞬間、ようやく理性よりも本能が上回り、生に対する欲望が晴陽の体を熱く駆け巡った。
凌空に会いたい。凌空の声が聞きたい。凌空に触れたい。
もっとずっと一緒にいたい。幸せにしたい。幸せになりたい。
死にたくない。嫌だ。死にたくない!
全細胞が強く訴えて目を見開いたけれど、すでに晴陽は陸に戻れる体勢ではなく、遅すぎる抵抗もあっけなく川に落ちていった。
激しい運動を禁止されてきた晴陽は泳げない。藻掻けば藻掻くほど水の中に押し込まれていく恐怖が晴陽を混乱させ、ますます手足が動かなくなる悪循環にもはや為す術はなかった。
冷水が容赦なく晴陽の体温を奪い、命の終わりを生々しく実感する。晴陽にはもう、祈ることくらいしかできなかった。
助けて。誰か助けて。助けて。凌空先輩……!
心の中で呼んだ、愛しい人の名前。
――晴陽……!
返事がくるはずもないのに、凌空の声が聞こえた気がした。
もしかしたら脳味噌が最期の情けでサービスしてくれたのかもしれない。
――晴陽……!
だけどその幻聴は、朦朧とする意識の中で何度も晴陽の鼓膜を叩いてくる。
――晴陽! しっかりしろ!
そしてついにその声ははっきりとした輪郭を持って、晴陽の胴体を掴んだのだ。
……胴体?
「起きろこのバカ! 晴陽!」
空気を介して愛しい人の声を直接浴びたことで、晴陽は自分が水面から顔を出していることに気がついた。晴陽を抱えながら岸まで泳いで砂利の上に横たわらせた凌空は、晴陽の体を川に入る前に脱ぎ捨てたであろうコートで拭いていった。
されるがままの晴陽は寒さでぼうっとする頭で、自分は凌空によって助けられたのだとようやく理解したのだった。
「……凌空先輩……す、すみません、でした……」
誠意を持って謝りたいのに、あまりの寒さに歯がカチカチと鳴ってしまって情けない声が出た。叱られ、そして呆れられるだろう。申し訳なさと嫌われたらどうしようという不安で、体はますます震えてしまう。
「……勝手に死なれちゃ、困る」
だけど晴陽の自分本位な予想は、凌空の泣きそうな声と瞳に浮かぶ涙で覆された。
凌空に多大な心配をかけてしまったことに胸が痛むと同時に、生きてもう一度彼に会えた喜びで、今しがた発したばかりの謝罪とは似て異なる言葉が唇から零れた。
「すみません……もう、凌空先輩を悲しませるような真似は、二度としません……」
そう言って体を起こした晴陽を、凌空は強く抱き締めた。
「……でも、凌空先輩は、どうしてここに……?」
「……菫のお墓参りだけなら、晴陽と蓮さんが二人で出かけることも我慢できたんだけど……飯に行くって聞いたら、その……家でじっとしていられなくて……」
濡れた体は痛みすら感じるほど冷たいのに、口ごもりながら嫉妬を見せる凌空を見て、こんな状況下にもかかわらず口元が緩んでしまった。
「なんだか幸せそうだね、二人とも」
明るいのに冷たさを隠し切れていない声色に、背筋が凍った。
声のした方に顔を向けると、蓮が凌空にハンカチを差し出しながら微笑んでいた。
「晴陽ちゃんを助けるために冬の川に飛び込むなんて凄いね。愛の力ってやつ? クールな凌空くんも随分変わったんだね」
「……俺は元々クールなんかじゃない。蓮さんにはどうしても冷たく当たってしまうから、そう見えてしまうのかもしれないけれど」
凌空はハンカチを受け取らず、立ち上がって蓮を正面から見据えた。
交錯する二人の視線には、晴陽にもわかるくらいに敵意が含まれていた。
「蓮さん。晴陽はもう、髪の毛一本から足の爪まで全部、俺のものだから。勝手に奪っていこうとすんな」
晴陽は驚き、鋭い眼光で蓮を睨む凌空の横顔を見た。
好きな人から独占欲を浴びせられることがこんなに幸せだなんて、知らないまま死ななくて本当によかった。
「勝手にじゃないよ。ちゃんと晴陽ちゃんにも許可もらったし。ね? 晴陽ちゃん?」
蓮はわざとらしいあざとさで、顔を強張らせる晴陽に同意を求めた。
凌空からの「本当か?」という意図で向けられた胡乱な視線に心が痛んで、噓を吐けない晴陽は正直に頭を下げた。
「ごめんなさい! でもわたし、菫さんを失った蓮さんの気持ちを考えると、自分だけ幸せになんてなれないと思って……」
「言い訳は聞きたくない。……っていうか、自分だけ幸せに? 違うだろ。晴陽は俺も幸せにしている。だから余計なことは考えるな。いいな?」
こんなに明確に凌空が愛を口に出してくれたのは初めてだったから、思わず泣きそうになってしまった。
「は……はい!」
「ここは俺が話をつける。晴陽は少し待ってろ」
凌空は冷酷な瞳を蓮に向けて、加減のない鋭い右ストレートを彼の頬に叩き込んだ。
「お前、俺の大事な彼女に何してくれてんの? 今後金輪際、晴陽を傷つけるような真似はすんな。もし晴陽に何かあったら、俺は絶対にお前を殺す。泣いて謝られても、土下座されても絶対に許さない。俺たちに関わったことを死んでからも後悔させるからな」
今まで何度も何度も凌空に冷たい拒絶を繰り返されてきた晴陽ですら、震えてしまうほどの殺気が凌空から発せられている。いや、今まで晴陽が告げられてきた辛辣な言葉とは比較にもならない。警告の剣が蓮の皮膚を突き破り刺していくようだ。
それでも、背筋が凍るような脅迫に震えているのは晴陽だけだったようで、蓮はつまらなそうに小さく息を吐いて殴られた左頬を優しく撫でた。
「……なんかなー、凌空くんは晴陽ちゃんのことをすっかり自分の所有物みたいに話すけど、それはちょっと天狗なんじゃないかなあ? 晴陽ちゃんの中にいた菫がいなくなっちゃったことで、彼女はオレを男だってちゃんと意識しているみたいだし?」
晴陽を突き落としてから今まで、蓮は怖いくらいに穏やかだ。口元には常に笑みすら浮かべている。
「晴陽を殺そうとしたくせに、どの口が言うんだよ。これ以上人の彼女にちょっかい出すのはやめろ。お前が憎むべきなのは晴陽じゃなくて俺だろ? 落とし前は俺とつけろ」
「凌空くんは憎いっていうより嫌いっていうか、オレが一方的に嫉妬しているだけだしなあ。凌空くんに何かしようとすると、オレの醜さが際立っちゃう感じで諸刃の剣なんだよね」
「言いたいことがあるならハッキリ言え。お前の言い回しはいつも遠回りすぎる」
眉間に皺を寄せる凌空から、蓮はわかりやすく目を逸らした。
「……オレは凌空くんが羨ましい。やりたいように生きて、ありのままの姿で菫にも晴陽ちゃんにも愛されて。……オレには何もない。将来の夢もないし、好きな女の子もいない。きっとこの先ずっと、菫を失った悲しみと臓器移植に反対しなかった後悔だけを抱えたまま、無意味な日々を生きていく。……そう考えると堪えられなくなってくるんだ」
自虐的に心情を吐露する蓮がいたたまれなくて、晴陽は拳を握り締めた。
悩み、苦しんでいる蓮に手を差し伸べてあげたい。何か力になれることがあれば、助けになってあげたい。
だけど凌空という彼氏がいながら中途半端に手を貸すような行為は、凌空にも蓮にも無礼になる。
どうすればいいのだろう。歯噛みする晴陽の横で、凌空は大きな溜息を吐いた。
「俺がやりたいように生きているって決めつけんなよ。お前は一体、俺の何を知ってそんなことを言ってんだよ。お前の行動こそ自分勝手で周りに迷惑をかけまくっているって自覚はないのか?」
容赦のない物言いも凌空の魅力の一つだが、今の蓮の立場になれば酷だろう。
もうこれ以上蓮を追い詰めるのはやめてあげてほしいと晴陽が間に入ろうとしたとき、
「とにかく、晴陽は渡せない。だから俺が、蓮さんと友達になるよ」
凌空の口からは、あまりにも予想していなかった提案が発せられた。
晴陽と蓮は同じような、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしているはずだ。
「……凌空くん、それってどういう……?」
戸惑う蓮に対して、凌空は淡々と続ける。
「晴陽も蓮さんもそして菫も、俺が三人まとめて大事にするって言っている。俺が晴陽と一緒にいる限り菫のことを忘れることは絶対にないし、俺と蓮さんが友達になれば、晴陽を介さなくても気軽に連絡を取り合ったり、遊んだりできる。悪くない提案だと思うけど」
話が飛躍しすぎているので困惑するが、凌空の意図はなんとなくわかる。
伝わりにくい凌空の優しさに胸が温かくなり、彼女として誇らしい気持ちになる。
「……どうして、オレの嫉妬の話が凌空くんと友達になることに繋がんの? 理解できないのはオレだけ?」
蓮に助けを求められた晴陽は、優しく微笑んだ。
「わたしは蓮さんの嫉妬に向き合ってあげることも、寂しさを紛らわすために付き合ってあげることもできません。だけど凌空先輩なら、それができるってことですよ」
晴陽の説明を聞いて、蓮は唖然としながら再び凌空の方を見た。
疑念を含んだ視線を向けられても、凌空は不機嫌な様子を見せることもなく、ふっと表情を緩めた。
「……俺は今まで、愛なんて信じられなかった。好きだの愛しているだのどれだけ口にしていても人は簡単に浮気するって、心を閉ざしていた。だけど……」
目が合った凌空は、少しだけ照れくさそうな表情を浮かべていた。
「晴陽に愛されたことで……そして俺が晴陽を愛したことで、人を信じられるようになった。肩の力が抜けて、生きるのが楽になった。俺は蓮さんにも、今の俺と同じように自分を肯定できるようになってほしいって、思うから」
凌空に望んでいた「自分を肯定してほしい」という、晴陽の願い。
それはいつの間にか叶っていたようだ。こんなに嬉しいことはない。