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息をすることさえ忘れ、瞬きする時間すら惜しい。
それくらい一心不乱に描き続けていたから、時間の経過なんてすっかり失念していた。
完成と同時に絵筆を置いてからようやく壁時計を見ると、時刻は二十二時を回っていた。
生徒がこんな時間に校舎に残っていることについて、諏訪部先生はどうフォローしたのだろうか。もしかしたら面倒なことになるのかもしれないけれど、おかげで目的は達成できたわけだし、まずは感謝しておこう。
夜なのにやけに外が明るいと思って窓の外を見たら、はらはらと粉雪が舞っていた。
この辺りでは滅多に見られない雪に、そして『私』が鑑賞できるのが最後になる雪に、「さよならの舞台を整えてくれてありがとう」だなんて、興奮冷めやらぬ頭で自惚れる。
「見てよ凌空くん、雪だよ。っていうか、当たり前だけど暖房消えてるね。ごめんね気が利かなくて。寒くない?」
「……まあ寒いけど、平気だ。なあ、この絵は完成したのか?」
「うん。厳密にいえば油絵は、絵具がちゃんと乾いて修正がないと判断した時点で完成なんだけど……私は満足のいく絵が描けたと思ってる。だからこの絵はこれで、完成」
着色の終わったキャンバスを二人で見つめた。
デッサン時と比べて、凌空くんの表情は格段に柔らかくて優しいものに変わった。この表情を余すことなく描写するために、私は今まで絵筆を握ってきたのだと言い切れる。
小学四年生のとき、習字を辞める代わりに親に無理やり入会させられた絵画教室だったけど、凌空くんに出会って恋をして、彼を描きたいって目標を持ってからは下手な絵は描けないと思って物凄く練習した。
その成果もあってそれなりに評価をされるようにはなったけれど、まだ『晴陽』には及ばないな。この絵をこんなに満足度の高い絵に仕上げることができたのは、半分以上あの子のおかげだし。
今までの人生に思いを馳せる。短すぎたし未練も掃いて捨てるほどあるけれど、凌空くんの肖像画を描くという最大の夢を最高の形で叶えられた今、私の心は満たされている。
「……これでもう、何も思い残すことはないなあ」
噓偽りも強がりも何一つなく、自然とこの言葉が零れた。
私の本心を聞いた凌空くんはそっと、頭を撫でてくれた。彼が触れた箇所から熱が全身を溶かしていくようだった。
「……満足したのか? 『菫』は」
まさか自分の名前を呼んでくれるとは思わなかったから驚いた。
「……よく今の私が菫だって気づいたね。どうしてわかったの?」
「晴陽のことを好きだって自覚したからな。雰囲気も話し方も、菫と晴陽は全然違うって思う」
恋って、ここまで人を変えるんだなあ。晴れやかな表情で真っ直ぐに晴陽への好意を口にする凌空くんは、私が今まで見てきたどんな彼よりも美しく、輝いて見えた。
「凌空くんは私が出てきた理由とか聞かないの? もしかしたらこのまま、晴陽の体を乗っ取っちゃうかもしれないよ?」
「別に聞かない。ただ、晴陽の体を乗っ取ろうとか馬鹿なことを考えているんだったら、俺は菫を許さない」
これは妬けて仕方がない。晴陽のやつ、随分と愛されているじゃないか。
「冗談だよ。凌空くんには誤解されたくないから言い訳させてもらうけど、私は晴陽の体を乗っ取ろうとしているわけじゃない。今回入れ替わったのはなんていうか、どうしても絵を描きたかったのと……最期の挨拶をしたいと思ったからなんだ」
「そうか……。じゃあ、たくさん話をしよう」
その後、凌空くんとしたお喋りは本当に穏やかで、心地いい時間だった。
生きていた頃はいつも私のアタックを仏教面で流すだけだった凌空くんを変えてくれた晴陽の頑張りには、本当に感謝だ。
「ちなみに私、まだ凌空くんのこと好きなんだけど、失恋確定?」
「ああ。俺は菫じゃなくて、晴陽が好きだから」
数えきれないくらい振られ続けた挙句、結局この恋を実らせることはできずに終わってしまったけれど、昔とは違って結果に納得している私がいた。
「ま、悔しいけどしょうがないか! 晴陽はイイ奴だし、ずっと描きたかった凌空くんの絵も描けたわけだし、これ以上を望んだら罰が当たっちゃうよね」
短い人生だったけれど、友人や家族に恵まれたこと、凌空くんに出会えたこと、そして晴陽に心臓をプレゼントできたことを考えれば、いい人生だったと断言できる。
晴陽の体の中で力強く脈を打ち続ける心臓を自慢するように胸を張ると、
「菫の心臓で晴陽の全身に血を送るってことは、二人は運命共同体だ。だから晴陽が言う『体を作り上げている細胞一つひとつ』の中には、菫も存在している。だから安心しろ。晴陽も菫も、俺が大切にしていくから」
凌空くんは私の心臓を指差し、大好きな声で明言した。
十二歳のとき、同じクラスだった凌空くんを好きになった私に「よくやった」と言って褒めてやりたい。中学校上がりたての子どもだったくせに、男の子を見る目は十分に備わっていたようだ。
「それいいね! いや、むしろ最高かも!」
こんな素敵な男の子を最期まで愛し抜けたことを、誇りに思う。このまま二人きりの空間にい続けたら名残惜しくなってしまうだろうし、それに晴陽が嫉妬するかもしれないから、そろそろ退散するとしよう。
窓を開けて、美術室に劈くような冷たい風を入れて空気を入れ替えよう。夏に息絶えた私がもう一度雪に触れられるなんて、思ってもみなかった。
「ありがとう。……さようなら、菫」
凌空くんの別れの挨拶を背中で聞きながら、私は粉雪に手を伸ばした。もうこれ以上の会話は望まない。死に方は選べなかった分、去り際は格好つけさせてもらおう。
別れの言葉は口には出さずに、ただ心の中で彼へと言葉を贈った。
お礼を言いたいのは私の方だよ。ありがとう、凌空くん。晴陽と仲良くね。
お母さんとも少しずつ話せるようになれたらいいね。
来年は受験だね。凌空くんなら心配ないと思うけど、晴陽との恋愛に溺れて勉強を疎かにはしないようにね。
それからできれば――できれば、ちょっと周りが見えなくなっちゃってる私のお兄ちゃんを救ってあげてほしい。
凌空くんや晴陽に迷惑なちょっかいをかけていると思うんだけど、本当は人の痛みに寄り添ってあげられる優しさを持った人だから。
……あ! 時間になっちゃった。最後に一言だけ。
とにかく、私と関わってくれた皆が幸せになりますように!
肌の上で溶けた雪と同時に、私のボーナスステージは終わりを告げた。
息をすることさえ忘れ、瞬きする時間すら惜しい。
それくらい一心不乱に描き続けていたから、時間の経過なんてすっかり失念していた。
完成と同時に絵筆を置いてからようやく壁時計を見ると、時刻は二十二時を回っていた。
生徒がこんな時間に校舎に残っていることについて、諏訪部先生はどうフォローしたのだろうか。もしかしたら面倒なことになるのかもしれないけれど、おかげで目的は達成できたわけだし、まずは感謝しておこう。
夜なのにやけに外が明るいと思って窓の外を見たら、はらはらと粉雪が舞っていた。
この辺りでは滅多に見られない雪に、そして『私』が鑑賞できるのが最後になる雪に、「さよならの舞台を整えてくれてありがとう」だなんて、興奮冷めやらぬ頭で自惚れる。
「見てよ凌空くん、雪だよ。っていうか、当たり前だけど暖房消えてるね。ごめんね気が利かなくて。寒くない?」
「……まあ寒いけど、平気だ。なあ、この絵は完成したのか?」
「うん。厳密にいえば油絵は、絵具がちゃんと乾いて修正がないと判断した時点で完成なんだけど……私は満足のいく絵が描けたと思ってる。だからこの絵はこれで、完成」
着色の終わったキャンバスを二人で見つめた。
デッサン時と比べて、凌空くんの表情は格段に柔らかくて優しいものに変わった。この表情を余すことなく描写するために、私は今まで絵筆を握ってきたのだと言い切れる。
小学四年生のとき、習字を辞める代わりに親に無理やり入会させられた絵画教室だったけど、凌空くんに出会って恋をして、彼を描きたいって目標を持ってからは下手な絵は描けないと思って物凄く練習した。
その成果もあってそれなりに評価をされるようにはなったけれど、まだ『晴陽』には及ばないな。この絵をこんなに満足度の高い絵に仕上げることができたのは、半分以上あの子のおかげだし。
今までの人生に思いを馳せる。短すぎたし未練も掃いて捨てるほどあるけれど、凌空くんの肖像画を描くという最大の夢を最高の形で叶えられた今、私の心は満たされている。
「……これでもう、何も思い残すことはないなあ」
噓偽りも強がりも何一つなく、自然とこの言葉が零れた。
私の本心を聞いた凌空くんはそっと、頭を撫でてくれた。彼が触れた箇所から熱が全身を溶かしていくようだった。
「……満足したのか? 『菫』は」
まさか自分の名前を呼んでくれるとは思わなかったから驚いた。
「……よく今の私が菫だって気づいたね。どうしてわかったの?」
「晴陽のことを好きだって自覚したからな。雰囲気も話し方も、菫と晴陽は全然違うって思う」
恋って、ここまで人を変えるんだなあ。晴れやかな表情で真っ直ぐに晴陽への好意を口にする凌空くんは、私が今まで見てきたどんな彼よりも美しく、輝いて見えた。
「凌空くんは私が出てきた理由とか聞かないの? もしかしたらこのまま、晴陽の体を乗っ取っちゃうかもしれないよ?」
「別に聞かない。ただ、晴陽の体を乗っ取ろうとか馬鹿なことを考えているんだったら、俺は菫を許さない」
これは妬けて仕方がない。晴陽のやつ、随分と愛されているじゃないか。
「冗談だよ。凌空くんには誤解されたくないから言い訳させてもらうけど、私は晴陽の体を乗っ取ろうとしているわけじゃない。今回入れ替わったのはなんていうか、どうしても絵を描きたかったのと……最期の挨拶をしたいと思ったからなんだ」
「そうか……。じゃあ、たくさん話をしよう」
その後、凌空くんとしたお喋りは本当に穏やかで、心地いい時間だった。
生きていた頃はいつも私のアタックを仏教面で流すだけだった凌空くんを変えてくれた晴陽の頑張りには、本当に感謝だ。
「ちなみに私、まだ凌空くんのこと好きなんだけど、失恋確定?」
「ああ。俺は菫じゃなくて、晴陽が好きだから」
数えきれないくらい振られ続けた挙句、結局この恋を実らせることはできずに終わってしまったけれど、昔とは違って結果に納得している私がいた。
「ま、悔しいけどしょうがないか! 晴陽はイイ奴だし、ずっと描きたかった凌空くんの絵も描けたわけだし、これ以上を望んだら罰が当たっちゃうよね」
短い人生だったけれど、友人や家族に恵まれたこと、凌空くんに出会えたこと、そして晴陽に心臓をプレゼントできたことを考えれば、いい人生だったと断言できる。
晴陽の体の中で力強く脈を打ち続ける心臓を自慢するように胸を張ると、
「菫の心臓で晴陽の全身に血を送るってことは、二人は運命共同体だ。だから晴陽が言う『体を作り上げている細胞一つひとつ』の中には、菫も存在している。だから安心しろ。晴陽も菫も、俺が大切にしていくから」
凌空くんは私の心臓を指差し、大好きな声で明言した。
十二歳のとき、同じクラスだった凌空くんを好きになった私に「よくやった」と言って褒めてやりたい。中学校上がりたての子どもだったくせに、男の子を見る目は十分に備わっていたようだ。
「それいいね! いや、むしろ最高かも!」
こんな素敵な男の子を最期まで愛し抜けたことを、誇りに思う。このまま二人きりの空間にい続けたら名残惜しくなってしまうだろうし、それに晴陽が嫉妬するかもしれないから、そろそろ退散するとしよう。
窓を開けて、美術室に劈くような冷たい風を入れて空気を入れ替えよう。夏に息絶えた私がもう一度雪に触れられるなんて、思ってもみなかった。
「ありがとう。……さようなら、菫」
凌空くんの別れの挨拶を背中で聞きながら、私は粉雪に手を伸ばした。もうこれ以上の会話は望まない。死に方は選べなかった分、去り際は格好つけさせてもらおう。
別れの言葉は口には出さずに、ただ心の中で彼へと言葉を贈った。
お礼を言いたいのは私の方だよ。ありがとう、凌空くん。晴陽と仲良くね。
お母さんとも少しずつ話せるようになれたらいいね。
来年は受験だね。凌空くんなら心配ないと思うけど、晴陽との恋愛に溺れて勉強を疎かにはしないようにね。
それからできれば――できれば、ちょっと周りが見えなくなっちゃってる私のお兄ちゃんを救ってあげてほしい。
凌空くんや晴陽に迷惑なちょっかいをかけていると思うんだけど、本当は人の痛みに寄り添ってあげられる優しさを持った人だから。
……あ! 時間になっちゃった。最後に一言だけ。
とにかく、私と関わってくれた皆が幸せになりますように!
肌の上で溶けた雪と同時に、私のボーナスステージは終わりを告げた。