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 翔琉から指定された待ち合わせ場所は、大滝総合病院の近くにある小洒落た喫茶店だった。

 病院自体は晴陽にとって馴染み深く今も定期的に世話になっている場所だが、コーヒーとナポリタンが美味しいと評判のこの店に入るのは初めてだ。晴陽にとってはもっぱら、病室の窓から眺める建物だったから。

 それにしても、いくら人気があるといっても、晴陽の家からも翔琉の家からも高校からも決して近くにあるわけではないこの店を、翔琉が待ち合わせ場所として指定してきた理由はなんだろう。

 扉を開けて店内を見渡すと、窓際の最奥のテーブル席に腰かけていた翔琉が手を振っていた。

「ごめん、待った?」

「全然! っていうか、急に呼び出しちゃってごめんな。来てくれてサンキュ」

 コーヒーが有名な店だというのに、翔琉はミルクティーを飲んでいた。ここでコーヒーを頼まないとは、流行りに敏感な彼にしては珍しい。

「久川、コーヒーもしかして苦手なの? 子ど――」

「おれ、『高校生限定アートコンテスト』で入賞した。佳作だった」

 子どもだね、とからかおうとした晴陽が絶句するのには十分すぎる一言だった。

 高校生限定アートコンテストとは、ルベッタ画材株式会社が主催しているコンテストだ。指定画材が限定されることと高校生だけが対象であることから、応募数自体がそれほど多くなく比較的受賞しやすいと顧問の諏訪部先生が勧めていたが、絵筆を握ってから一年も経っていない翔琉が入選したのは快挙と言ってもいい。

「すごいじゃん! 本当におめでとう! 今日は私が奢る! 好きなもの頼んで!」

 部活を休んだことはなく、家でも練習を重ねてきた翔琉の努力を知っているからこそ、目一杯の賛辞を贈りたい。自分のことのように嬉しかった晴陽は、はしゃぎながら翔琉にメニューを手渡した。

「逢坂からしてみれば小さい賞かもしれないけど……おれ、超嬉しいんだ。やってきたことが報われたような達成感っていうか、肯定された喜び? みたいな。今までいろいろさ、描き方とか教えてくれてありがとな」

 喜びを噛み締めるようにそう言って、翔琉は頭を下げた。

「私は何もしてないよ! 全部久川の努力の賜物じゃん! あ、諏訪部先生には報告した? なんでも言うこと聞くっていう約束、守ってもらおうね! コンテストに出したのって鶏とひよこの油彩画だよね? 構図も描き込みも拘っていたもんね!」

 興奮冷めやらない晴陽が止まることなく話し続けていると、

「まだ先生には言ってない。もし賞を取れたら一番先に逢坂に報告するって、決めてたし。……あのさ、逢坂。実はコンテストに出した絵は、鶏のやつじゃないんだ」

「え? じゃあ一体、なんの絵を出したの?」

 鶏冠の質感を出すために真剣に色を重ねていた翔琉の姿を思い出して首を傾げると、彼は少しだけ恥ずかしそうに目を逸らし、ミルクティーのストローを咥えた。

「……ルベッタのホームページに入賞作品が載っているから、見てみろよ」

 晴陽は従順にスマホでホームページを検索し、入賞作品一覧が発表されているページをスワイプし――とある絵を見つけて、手を止めた。

 翔琉の作品は、血液のような赤い液体の中で眠る一人の少女の体が、泡になって消えていく様を描いたものだった。少々過激な色使いは人によっては顔を顰めてしまうものかもしれない。

 少女の顔や体はしっかりと描写されているわけではない。

 それなのに、晴陽はこの絵を一目見た瞬間に、この少女が自分であると理解していた。

「……どう思った? 率直な感想を教えてくれ」

 正直、この絵は技術的な面で評価するならば平凡としか言いようがない。
 だけど、技巧を超えて感情に殴り込みをかけられたこの表現しがたいほどの強い感動は、絶対に伝えなければと思った。

「惹きつけられる。目が離せない。……私はこの絵が、好き」

 翔琉は安堵したように息を吐き、目を細めた。

「……よかった。絵のことはお前に褒められるのが、一番嬉しい」

「……このモデルは、私でしょ? どうして私を描こうと思ったの?」

 同じ中学校出身の、部活仲間。ただそれだけの関係性でモデルにしてもらうには動機も理由も薄いだろう。

「描きたかったから。絵を描くのに、それ以外の理由っているのか?」

 説得力のありすぎる言葉にハッとして、かぶりを振った。

 凌空を描きたくてたまらない晴陽は、内側から迸る欲望の堪え難さを誰よりも知っていたから。

「前にも言ったけど……おれは、逢坂に憧れて美術部に入った。だからおれにとっての逢坂晴陽の価値と条件はそれだけであって、お前がどう変わっていこうが問題じゃないんだ。……上手く言えねーんだけど、お前の悩みの解決のヒントになったらこの絵も報われる」

 翔琉が言いたいことは、作品が雄弁に物語っている。

 晴陽が成し得なければならない『証明』には直結しないかもしれないけれど、逢坂晴陽として胸を張って生きるためには十分すぎるほどの励ましと、自信をもらった。

「ありがとう。久川にはこの店のお代を払うだけじゃ足りないくらい、たくさんもらっちゃった。ちゃんとお礼がしたいんだけど、私に何かしてほしいこととかある?」

「……んー、大丈夫。おれ、実はもうお前にもらってんだ」

 すでにもらっていると言われたものの、翔琉に何をあげたのか全く心当たりがない。絵筆? 油絵具? それとも購買の超レアクリームパンだろうか?

 小首を傾げていると、翔琉は苦笑した。

「……本当は渡したくないんだけど。これ、逢坂からもらったやつ」

 翔琉に手渡されたのは、年季の入った一冊のスケッチブックだった。晴陽が昔から愛用しているメーカーのものだったが翔琉にあげた記憶はなく、本当に自分のものなのか半信半疑でページを捲って、目を見開いた。

「思い出したか? おれが逢坂の家に千羽鶴と色紙を渡しに行ったとき……お前の絵に惚れたときに、頼み込んでもらったやつなんだ。……手元に置いておきたかったっていうか」

 翔琉の声は耳には聞こえているけれど、頭にまでは届いてこなかった。ページを捲る度に、晴陽は『あの頃』の世界に没入していったからだ。

「このスケッチブック、もらって嬉しかったけど……ちょっと失敗したなーって思ったよ。おれがもらっちゃいけないやつっしょ、こんなん。でもさー、中身も見ないでくれって言ったおれも悪かったけど、逢坂も一言くらい忠告してくれてもよくね?」

 翔琉から受け取ったスケッチブックの一番古いページ。

 そこには、晴陽自身が忘れていた――いや、忘れようとしていた、とある過去の秘密が描かれていた。

「逢坂。お前の都築先輩への愛は、自信を持っていいと思う」

 断言されたことで、腹が決まった。もう迷いはない。スケッチブックを閉じて息を吐き、友人に誓う。

「約束する。凌空先輩を描き終えたら、次は絶対に久川を描くから」

 翔琉は一瞬目を瞬かせてから、いつものように口を大きく開けて笑って小指を立てた。

「おう。絶対、ガチの約束だかんな!」

 絡ませた小指を離してから、千円札を置いて晴陽は先に店を出た。

 凌空へ証明をするための材料は揃い、同時に方法も定まった。ならば一秒でも早く行動したい。行動せずにはいられない。

 このせっかちな性質も菫のものなのだろうか。いや、今はどちらでも構わない。

 凌空への想いが確かなのであれば、この先揺らぐことはないのだから。



 帰りの電車の中でもう一度、翔琉の入選作品を見た。

 その絵のタイトルは一見、モチーフとは全く無縁に思えるものだった。

『憧憬』と名付けられたその絵画は、晴陽の背中を強く押してくれた。