会計をしている蓮の後ろ姿を眺めながら、明美が呟いた。

「あんまりこういうこと言いたくないけどさ……蓮さん、絶対晴陽のこと好きだよね」

「明美の絶対って当てにならないけどね」

「……あのさ、凌空先輩じゃなくて蓮さんにしといたら? ちょっと変なところもあるけど、格好いいし、話しやすいし、優しいし、超優良物件じゃん」

 明美の顔を見た。冗談かと思ったが、真剣な顔をしていた。

「いや、なんで? 私が凌空先輩一筋だっていうのは、明美だってよく知ってるでしょ?」

「……あたしは、人の色恋沙汰に首を突っ込むのはSNSで声優同士のやりとりに絡む第三者くらい野暮だと思ってる。でも、いくら好きでも振り向いてもらえない人を追い続けるより、自分のことを大切にしてくれる人を好きになった方が幸せだと思うわけよ」

 ここまで言われて、ようやく明美の真意を悟った。

 つまりは明美なりに、毎日取り付く島もなく振られ続ける晴陽の精神面を心配してくれているらしい。友人の優しさに、心がじわりと温かくなる。

「心配してくれてありがと。でも私は凌空先輩のことを諦めるつもりはないし、それに……蓮さんは私を恋愛対象として好きなわけじゃないから。近いうちに明美には話そうと思ってる。……信じてもらえるかはわかんないけど」
 
 ドナーの恋心や人格が患者に影響を与えるだなんて非医学的で非科学的な話、自分の中でも全く整理がついていないのに人に話せるはずもない。だけどいつか、明美には必ず、自分の口からすべてを伝えたいと思っている。

 明美は少しだけ照れ臭そうに笑って、自慢気に腕を組んだ。

「あたしはあっくんが異様に仲のいい妹の話を頻繁にしていても、『彼女いない』って言えば信じる! 気持ちよく騙されるのもファンとしての誠意だし!」

 相変わらず例えがマニアックでわかりにくいが、明美がとてもいい奴だということは改めて実感した。

「お待たせー。じゃあ、帰ろっか」

 戻ってきた蓮に奢ってくれた礼を述べると、彼は柔らかく微笑んだ。

「じゃあ、オレと晴陽ちゃんは今からデートだから。明美ちゃんはまた今度一緒に遊ぼうね。送っていくから家を教えてくれる?」

「え? 初耳ですよ。……初耳ですよね? え、今からですか?」

 あたかも最初から約束していた体で話すから流されそうになるが、そんな約束は晴陽の脳味噌が正しく機能していると仮定するならば、まるで記憶にない。

「で、デート⁉ うらやま……じゃなくて、もう夜ですよ? いくらイケメンでも、未成年を連れ回すのはマズいんじゃないですか?」

「大丈夫だよ。オレは二十歳だから保護者扱いになるから」

 嫉妬に見せかけて晴陽を守ろうとした明美の忠告を軽く流した蓮は、有無を言わさず聞き出した家の前で明美を降ろし、晴陽に助手席に座るように指示をした。

 凌空にあられもない誤解をされる前に車に乗らない手段も頭を過ぎったのだが、「オレから二度も菫を奪わないで」という蓮の脅迫が晴陽の判断を鈍らせた。

 結局晴陽は、蓮の要求に応じて助手席に座り直す選択を取った。

 機嫌良さそうに鼻歌を歌い始めた蓮の行動は我儘な子どもそのものなのに、運転しているその横顔は大人っぽく見えた。

「あー、今日は楽しかったなあ。菫ともよく一緒にカラオケに行ったんだよ。あの子、盛り上げ上手だけど歌はあんまり上手くなくてね、晴陽ちゃんみたいにどんどんリズムが乱れていくから笑っちゃうんだよね」

「私、やっぱり音痴ですか? うわー、自覚したくなかった……」

「ふふっ、そうだね。……菫はオレと一緒に出掛けることも隣を歩くことも、恥ずかしがらずに付き合ってくれたんだよね。優しくて家族思いで、本当にいい子だったな……」

 そう言って目を細める蓮を見たら、心臓に熱が宿ったように感じた。晴陽の中にいる菫が反応しているとしか思えなかった。

 この心臓が菫のものだったと知ってからは、客観的に『この反応は自分のものではない』とわかるようになったのだが、特に蓮と接しているときに顕著に現れていた。

「私は菫さんとは違っていい子じゃないと思います。凌空先輩が好きすぎて、友人や親にまで心配されていますし」

「そんなことないよ。それより、晴陽ちゃんはオレが明美ちゃんと二人で話しているところを見てどう思った? ヤキモチ焼いた?」

 悪戯っ子のような笑みを浮かべて尋ねられたものの、その質問の意図が心底理解できない晴陽は小首を傾げた。

「なんでですか? 別に妬きませんよ。蓮さんとは一緒にいて楽しいけど、異性として好意を抱いているわけではないので」

 大袈裟にショックを受けたフリをした蓮は、袖口で目元を押さえる真似をした。

「えー、そうなの? そんなこと言われたらオレ、悲しくて泣いちゃうよ?」

「危ないですからちゃんと前見て! 運転に集中してください! ……っていうか、蓮さんは私のことが好きってことですか?」

 冗談のつもりだった。蓮も軽く返してくれるか否定してくると思っていたのに、ちょうど赤信号で止まった車内で彼は晴陽の顔をじっと見つめて、真面目な顔で口にした。

「好きだよ。大好き」

「……あ、ありがとうございます」

 予想に反して真剣に返されたものだから、少したじろいでしまった。

 たとえ心が別の人のところにあっても、手を伸ばせば簡単に触れられる距離で好意を告げられれば照れ臭くなるのだと知った。

 ただ、脳は思春期の女として正常な反応を指示しているのに心臓だけはいつも通りのペースで脈を打っていることから、菫にとっては兄からの愛情表現など日常の一部に過ぎないのだろうと推測できる。

「ねえ。今って、心臓はドキドキしてるの?」

「え? していませんよ」

 言葉を選ばずに正直に言ってしまった。男心を傷つけてしまっただろうかとおそるおそる蓮の様子を窺ってみると、意外にも嬉しそうだった。

「ふーん、そっか。そうなんだね。やった、予想的中!」

「……もしかして、私を何かの実験台にしようとしてます? このままどこかの研究所に拉致されるとか?」

「あはは、しないよそんなこと。だって、晴陽ちゃんは妹みたいに大事だもん」

 口ではそう言いながらも、右折した車はそのまま大通りに入っていった。晴陽の家からはどんどん遠ざかって行くことになる。

「あのー、ちなみにどこへ行くつもりですか?」

「んー? イイところだよ?」

 会話の流れ的に何やら嫌な予感がして、冷や汗が流れた。

「……あの、冗談抜きで家に帰してもらえませんか?」

「ん? 今のオレは優しそうなお兄さんから誘拐犯にジョブチェンジしたんだ。犯人の言うことを聞かないと、どうなっても知らないからね?」

 晴陽の抗議を無視してアクセルを踏み込む蓮の横顔を見て、言葉を呑み込んだ。軽い口調に反比例するかのごとく、彼の表情は真剣そのものだったからだ。

 菫という存在を盾に取られている以上、元々強い反論はできない。

 晴陽は流れに身を任せることに決め、車窓から見えるオレンジ色の街灯をぼんやりと眺めた。

 車はついに首都高速に乗り、どんどん都心に近づいていく。そうしてやって来たのは、晴陽のような平凡な高校生が「都会っぽい建物は何か」と問われたら真っ先に回答するくらい有名な『六本木ヒルズ』だった。

 森タワー屋上のスカイデッキへ行くと言う蓮に連れられ、上昇するエレベーターに運ばれて二人は目的の場所に辿り着いた。