逢坂晴陽には、好きで好きで大好きで大大大好きで仕方のない、片想い中の人がいる。
語彙力を失ってしまうほどの恋をしている晴陽はいつも、彼の姿を見つけると、気持ちが抑えられなくなってしまって体が勝手に動き出す。
「好きです! 付き合ってください!」
「断る」
通算300回目の記念すべき愛の告白が300回目の失敗に終わり、晴陽は肩を落とした。
晴陽の告白を朝の挨拶程度にあっさりと流した眼前の青年――都築凌空は、一度も顔を上げずに頬杖をつきながらスマホを操作している。
朝のホームルームが始まる前の時間帯に二年生の教室に後輩が訪れて交際を申し込むなんて、わりと珍しい光景だと思う。だが晴陽から凌空への告白に限っては、この学校の生徒なら見慣れた日常の一つに過ぎないので誰一人反応することはなかった。
「なんで私じゃ駄目なんですか? 私はこんなに凌空先輩のことが好きなのに!」
「君がいくら俺のことを好きでも、俺が君のことを恋愛対象として見ていない」
目線は上げないまま、凌空はいつものように晴陽を一刀両断する。
だが、これまでに幾度となく振られ続けてきた晴陽はこれしきのことで折れはしない。落ち込む暇があったら、自分と付き合うメリットについてプレゼンテーションをした方が有意義だ。
「私は浮気なんて絶対しませんよ? めっちゃ尽くしますし、大切にします!」
「信用できない。大体、その言葉って君の主観でしか証明できないわけだろ?」
「はい、その通りです!」
「俺は君の魅力も、付き合う意味もわからない。だから付き合わない。以上」
「わかりました! また時間を改めて来ますね!」
めげずに笑顔を向けると、ずっと無表情だった凌空はその綺麗な顔を歪めて盛大に溜息を吐いた。そして今日初めて目を合わせてくれたかと思えば、
「鬱陶しいって言ってる。もう、来んな」
十六歳とは思えないほど冷酷な目で、晴陽を睨みつけた。
誰が見ても、誰に聞いても成就は不可能だと言われる恋をしている晴陽は、自分でも凌空に対する溢れんばかりの恋心について不思議に思うことがある。
凌空を一目見たその瞬間、恋に落ちていた。彼との未来以外考えられなくなった。
どうして彼に惹かれるのだろう、どうしてこんなにも好きなのだろう。
恋愛感情を抱く相手が凌空でなければならない理由を考えてみても、晴陽の中にある語彙では適切な表現ができなかった。だけどたとえ世界中の言葉を集めてみたところで、結局彼への想いを言い表すことなんて、できそうもない。
だけどきっと、世界中に溢れている『恋愛感情』も、理由や理屈で説明できる方が少ないのだと思う。
それゆえに――晴陽は今日も、愚直に好意を伝えていく。
好きな人が自分を好きになってくれる確率って、一体どれくらいなのだろう。
それはもしかしたら天文学的な数字かもしれないし、じゃんけんで勝つよりも勝算の見込める人だっているだろう。個人のスペックや環境によって大きく差が出る、統計の取りようのない数値である。
逢坂晴陽は、そんなあやふやなデータに振り回されない。
想い人は言う。「恋愛対象として見ていない」と。
それは日時を変えれば、「しつこい」「鬱陶しい」「いい加減にしろ」「通報するぞ」など、バリエーション豊富な拒否の言葉に置き換えられるパターンもある。
さて、どうしたら凌空の心を射止めることができるのだろうか。
今日も今日とてすげなく追い払われた晴陽が頭を捻りながら教室に戻ると、明美が前の席に座った。
「そんなに好きの安売りをしたって、男は振り向いてくんないって。女はミステリアスで何を考えてるのかわからないくらいの方が、絶対モテる」
「絶対? 明美の言葉に説得力なんてないけど」
彼氏いない歴=年齢のくせに、やけに上から目線で助言しようとしてくるのが友人である遠野明美の特徴だ。
「は? 男のことならよく知ってるっつの! あっくんの『絶対! 乙女式☆ラジオ』ヘビーリスナーであるあたしを見くびるなよ?」
明美は声優オタクである。明美が夢中になっている「あっくん」とは子役出身の若手人気ナンバーワン声優で、彼は自身の冠番組でよく私生活のことを話したり、同世代の男性声優をゲストに呼んでトークをしているらしい。
明美が男を語るときにベースとなる情報源は、すべてここからだった。
「そのラジオのリスナーであることと、明美が男を知ってることに因果関係は全くないから。っていうか、振られたって決めつけんなっつの」
「晴陽が振られたかどうかなんて、超能力者じゃなくても余裕でわかるし。なんなら、明日の結果も予想できるけど?」
「明日の予想くらい私にだってできる。凌空先輩は明日も絶対に格好いい。そんで、明後日はもっともっと格好いい」
日を追うごとに魅力を増す凌空を想って頬を緩めると、明美の瞳が大きく開かれた。
「あれ? 都築先輩のこと名前で呼んでたっけ? ……ありえないとは思うけど、ちょっとは関係が進展したとか?」
「聞いてくれる? 昨日の放課後にね、凌空先輩の方から『苗字で呼ばれるのは好きじゃないから、どうせしつこく付きまとうならせめて名前で呼んでくれ』って言われたの!」
「……嬉しそうだけど、先輩が仕方なく妥協したってだけだからね? 入学してすぐに一目惚れした相手に半年間毎日告白し続けるなんて、晴陽は周りから見たらそこらのチャラ男もメンヘラもドン引きするレベルのやべー奴だからね?」
「溢れる愛が抑えられないんだよね。一日は二十四時間しかなくて、一時間は六十分しかなくて、一分は六十秒しかないんだよ? 私の気持ちを知ってもらうためにはどう考えても足りない。だから少しでも多く好きだって伝えたいの」
一秒も無駄にしたくないというのは大袈裟でもなんでもなく本心だ。明日が来るかどうかを不安に思ったり、命があることに感謝したりする気持ちを、晴陽は同級生たちよりも強く持っていると自覚していた。
☆
小学校入学と同時に与えられた自室にあるベッドは東側の窓に沿って配置してあるため、これでもかというくらいに朝日が入り込んでくる。
晴陽は朝が好きだし、早起きも好きだ。今日も目覚ましが鳴る前に目を覚ました晴陽は、ぐっと背伸びをしながら胸の前で手を合わせた。晴陽には毎日、起床時と就寝前に神様に感謝を告げる習慣がある。
――神様、今日も私を生かしてくれてありがとうございます。
命があるからこそ、凌空を見ることができる。この気持ちを伝えることができる。
当たり前のように過ごす一日は、かけがえのない奇跡の結晶であると晴陽は知っている。
季節は十一月。段々と寒さが厳しくなってきても、晴陽は布団から出ることを躊躇しない。
「おはよう晴陽。今、お味噌汁温めるからね」
居間に顔を出すと、母はそう言ってガスコンロに火をつけた。ダイニングテーブルに腰かけた晴陽はサラダに箸をつけながら、忙しく動き回る母の様子をぼうっと眺めた。
朝からパートがあるのにもかかわらず、『健康な体は食から作る』というモットーを掲げる母は、毎食栄養バランスが完璧に整った食事を用意してくれる。
納豆をかき混ぜていると、母はテーブルの上に味噌汁の入ったお椀を置いた。
「体調はどう? 辛くない?」
「大丈夫だよ。今日も楽しく過ごせそう」
毎朝恒例の質問にも面倒臭がらずに答えると、母は安心したように笑って対面に座り、晴陽が食事をする様子を見つめた。高校一年生の娘に対しては些か過保護な行動に、将来子離れできるのか心配になってしまう。
ただ、過去に迷惑をかけてしまったという負い目からだろうか。晴陽が母を邪険にできないことも過保護を増長させてしまっているなと自覚はしている。
「ごちそうさま。じゃあ、行ってくる」
コップに水を注いで、複数の錠剤を胃の中に流し込む。ルーティン化された作業を素早く済ませて、玄関まで見送りに来る母に背を向けて扉を閉めると、外のひんやりとした空気が晴陽の肌を活性化させたような気がした。
今日の凌空は一体、どんな顔を見せてくれるだろう。
期待に胸を膨らませながら学校へ向かった。
「おはようございます凌空先輩! 今日も世界で一番素敵です!」
挨拶を返されることはなかった。凌空の通学路で待ち伏せして彼と登校を共にするのは、晴陽にとっては『好意の主張』だが、凌空にとっては『迷惑な付きまとい行為』だ。凌空が返事をする道理はないだろう。
「私、凌空先輩に謝らないといけないことがあります。……わかったんです、先輩がなかなか私に振り向いてくれない理由が……」
「……やっと? 遅すぎるんだけど」
凌空が反応してくれたことが嬉しかった晴陽は、胸を張って告げた。
「遊びの恋は嫌なんですよね? 私の中では当たり前のことすぎて、言葉にするのをすっかり失念していましたが、私は凌空先輩とちゃんと結婚するつもりで交際を申し込んでおりますので! どうかご安心ください!」
凌空はとてつもなく大きな溜息を吐いた。
「……全然、わかってない。つーか、俺は結婚なんて絶対するつもりないから。結婚したいとか子どもが欲しいとかそういう幸せを望むなら、さっさと他の男に切り替えた方がいい」
「私は凌空先輩以外の男の人なんて考えられないです」
太陽が東から昇るのと同じくらい当然のことを口にしただけなのに、凌空の顔は一層険しくなった。
「知名度の高い大学を出て安定した収入が得られる企業に就職して、都心に1DKのマンションと猫を買って、一人で生きていくのが俺の夢だ。俺の未来に君はいない」
「現実的な将来設計を立てているんですね! 凄いです! でもその設計は変わりますよ! 私がいる未来に変えてみせますから!」
「本当にしつこい。君と交際するとか考えられないから」
今日こそは笑顔が見たいと思っていたのに失敗した。悲しいことに、凌空が見せたのは晴陽の見慣れた、心底うんざりした表情だった。
「どうしてダメなんですか? 私は凌空先輩だけを生涯愛し抜きます。絶対に浮気しません。稼げる女になれるように勉強も頑張っていますし、料理も練習していますし、苦労をかけるつもりはありません!」
「……確認しておくけど、君の目標は俺と付き合って、何年も交際を続けて、いずれは結婚したいってことで合ってる?」
「はい! 私の未来に凌空先輩がいないなんて考えられないんです!」
晴陽を一瞥した凌空は、口の端を吊り上げた。
「神様の前で永遠の愛を誓おうが、女なんて皆浮気するじゃん。少しでも良い遺伝子を持った子孫を残したいっていう本能が働くんだろ? だからしょうがないって言ってたし」
「誰がですか? 芸能人ですか? ……ま、まさか元カノですか⁉」
元カノだったら地球の反対側まで凹むし、その子が羨ましすぎて髪の毛が抜け落ちてしまうほどの衝撃だ。というより、凌空と付き合っておきながら他の男と浮気するなんて、脳のどこかに大きな問題があるとしか思えないほど、晴陽からすれば理解不能な思考回路だ。
「……母親だよ。あいつが不倫ばっかりするせいで、愛想を尽かせた父さんは家を出ていった。正式に離婚してからも男の所に入り浸って俺のことは完全放置だ。……だから俺は、恋愛も結婚も絶対にしないって決めている」
口に出すのも汚らわしいとでも思っているように、凌空は歩みを止めないまま綺麗な顔を歪めていた。毎日足蹴にされている晴陽ですら見たこともない、怖い表情だった。
「……お母さんと先輩は、仲が悪いんですか?」
「俺はあの人が大嫌いだし、あの人は俺に関心がない。金さえ出していればそれでいいと思ってるんだろうな。ちゃんと顔を見て話をしたのって、三年前あの人が入院している病院に仕方なく見舞いに行ったときくらいだし」
凌空の口から語られたそのエピソードに、晴陽の心臓が反応して大きな脈を打った。
彼の知らない、晴陽の物語。一生話すことはないであろう過去に凌空の言葉が掠ったことに運命めいたものを感じつつ、彼の目を真正面から見つめた。
「そんなお母さんを近くで見てきたから、凌空先輩は愛を信用できないと思っているんですか?」
「愛とか簡単に口にすんな。寒気がする」
晴陽は凌空が好きだ。どんなに袖にされても、毎日学校に行くのが楽しいと思えるくらい大好きだ。
恋心は間違いなく人生に彩りを与えてくれているのに、彼はこんな気持ちを知ろうともしないでいつも眉間に皺を寄せる。
気持ちを真っ向から否定されたのはとても悲しい。だけどそれよりも、恋愛は悪いことばかりではないと知ってほしいという気持ちが強くなっていた晴陽は、
「じゃあ私が凌空先輩への愛を証明できたら、デートしてくれますか?」
恋は理屈じゃないと自分でもわかっているくせに、自ら難題を提示していた。
自分本位でしか物事を考えられないのは、晴陽の欠点だ。凌空から幸せを与えられてばかりの晴陽が良かれと思った行動は、凌空にとっては当然、鬱陶しくて仕方のないお節介になった。
「は? どうやって? ……いや……もういい。疲れた。やれるもんならやってみろよ」
凌空は吐き捨てるようにそう言って、いつの間にか到着していた学校の中に入って行った。
母親に大事にされている実感がある晴陽は、凌空が母親を憎む理由はわかっても、根本的な部分で彼の気持ちを理解できないのかもしれない。
それでも、晴陽は凌空を諦めない。育ってきた環境が違うのは当然、これくらいの壁で彼に近づくことを諦めるようなら好きになる資格すらないと思った。
昇降口で立ち止まる晴陽を、登校してくる友人たちは適度な距離を保ったまま通り過ぎていった。
☆
輝かしい成績を残しているわけでも、伝統があるわけでもない。それどころか、現在部員は晴陽を含めて二人しかいない廃部直前の美術部に所属している晴陽だが、火曜日と木曜日の部活動の日は真面目に美術室へと足を運んでいる。
夕陽が差し込む放課後の美術室には、油絵の独特なにおいが充満している。換気のために開放した窓から入り込んでくる霜月の冷たい風に体を震わせながら、イーゼルにキャンバスを立てかけた晴陽は考え込んでいた。
さて。凌空に愛を証明するには一体、何をどうすればいいだろうか。
好意を言葉にしても残念ながら全く伝わらないことは、毎日の告白をことごとく断られている晴陽が一番よく知っている。ならば、百本の薔薇を用意してみようか。いや、現実的な凌空には生花よりも、いつまでも形に残る物の方がいいだろうか。だったら奮発して、両親に頭を下げて借金して、ブランド物の高級時計でも渡してみようか。
そこまで暴走した思考を巡らせつつも、晴陽だって本当はわかっている。
高価なものをプレゼントしたところで、凌空は絶対に受け取らない。彼に証明しなければならない『愛』とは、心情的なものだ。目には見えない抽象的なそれを、片想いの立場で証明するのは容易なことではない。
真っ白なキャンバスを前に唸る晴陽に、翔琉が話しかけてきた。
「逢坂、なんか難しい顔してんな? 何か悩みでもあんの?」
「うん……愛を証明する方法について考えてた」
「……何を描くか真剣に悩んでると思って、声をかけたおれが馬鹿みてえ」
美術部の久川翔琉はこの中高一貫校の瀧岡高校においては数少ない外部受験組であり、晴陽と同じ中学校出身の唯一の生徒であり、そしてたった一人の部活仲間だ。
金色の髪に何個も開いているピアス、制服の着崩し方や言動は所謂『チャラ男』そのもので、一見晴陽とも美術とも無縁の存在に思われるのだが、翔琉はなぜか、晴陽の絵の熱心なファンだった。
「逢坂の絵はマジで繊細で大胆で……中学のときと比べると作風は変わったとはいえ超イイのにさあ、作者の頭が残念すぎんだよな」
「絵と顔はいいのにって? そんなに褒めんなよ照れるじゃん」
「お前、将来絵で食っていく気があるなら絶対人前で話したりしない方がいいぞ。画商もファンも離れていくって」
「いや何度も言ってるけど、絵は好きだけどそれで食べていける人間なんて一握りだし、私は普通に大学出て安定した職に就くつもり。一番の夢は凌空先輩のお嫁さんだけどね!」
晴陽が凌空を追いかけているときはこき下ろしてくるくせに、晴陽が絵で生計を立てていくものだと信じて疑っていない。貶すときと褒めるときのギャップが激しいため、そのアンバランスさが反応を鈍らせて戸惑わされることが多い。
「お前の自己中心的な夢の話は、都築先輩にはしてんの?」
「うん。でも凌空先輩、誰とも結婚しないで仕事して猫とマンション買って、独りで生きていきたいんだって」
「都築先輩のお母さんって、どっかの大きい会社の社長なんだろ? おれだったら結婚しようがしまいが親の脛齧りまくりそうだけど、働きたいなんてしっかりした人だな」
晴陽は愚直に好意をぶつけるだけの単純な行動しかできないため、周りから情報収集をするといった行為をしていない。ゆえに、凌空が話さない情報は全く知らずに第三者に「ストーカーのくせにそんなことも知らないの⁉」と驚かれることも多い。
現に今も、凌空が毛嫌いしているという母親が社長だなんて初耳だった。
「そ、そうなの? え、どこの会社とかわかる? なんで久川は知ってんの?」
「逆に逢坂はあんなに都築先輩に付きまとっているくせに、なんで知らねえの?」
「そっか……凌空先輩、私がお金目当てで迫ってきていると思いたくないから、隠していたんだね。そんな心配しなくても、私は凌空先輩が借金していたって余裕で結婚するのに!」
曇りのない眼で拳を握り締める晴陽を、翔琉は同情するかのような目で見つめていた。
「……都築先輩が自分から話してないのなら、おれからも言わない」
「チャラいくせにしっかりしてる!」
「そんなどうでもいいことよりさー、『高校生限定アートコンテスト』の締め切りまであと一ヶ月だけど、間に合うか?」
晴陽の熱意を「どうでもいいこと」と流したことに文句を言いたくなったが、ほとんど完成している翔琉のキャンバスを見て口を閉ざした。
翔琉は描きはじめて一年未満の初心者でデッサンに不安定なところはあるが、晴陽にはない色彩感覚を持っている。奇抜で華やかなのに決して下品にならない美しさを表現できるのは、素直に凄いと思う。
「私は見送ろうかと思ってる。今から描き始めたところで満足のいく仕上がりになるとは思えないし。久川はもう少し描き込むの?」
「ああ。今回の賞には懸けているとこあるからな。今のおれにできる技術と情熱をすべて注ぎ込んで、絶対に入賞してみせる」
そう宣言する翔琉の瞳は燃えていた。どんなコンテストでも受賞できれば内心点が上がって、大学進学に有利になる。油絵のみ、それも高校生だけを対象としたコンテストは数少ないので、賞が欲しいならこのアートコンテストは実に狙い目なのだ。
応募できるならいろんな賞に出すべきだと美術部の顧問である諏訪部先生も言っていたけれど、今、晴陽が描きたい絵は一つしかない。
だが『とある事情』によってまだ描くことができないので、見送らざるを得ないのだ。
「うん、頑張れ。応援してるよ」
無難で、ごくありふれた晴陽の返答を聞いた翔琉は、つまらなそうに小さな溜息を吐いた。
「逢坂、本当に変わったな。都築先輩のことで頭がいっぱいでさ……昔はもっと、絵に対して真面目に取り組んでいた気がしたのに」
「そういう久川だって、中学の頃は美術部とか文化部全体を馬鹿にしてたじゃんか。そんなあんたが、今や一生懸命油絵に青春を捧げてくれてるんだもん……私は感動したよ」
小中学校が同じだった翔琉は、晴陽の過去を知っている。過去をあまり詮索されたくない晴陽が話題を変えるためにわざとらしく涙を流す素振りをして見せると、怒った翔琉に形だけの軽いチョップを食らった。
「おう、どうだい調子は。二人とも相変わらず仲がいいな」
珍しいこともあるものだ。顧問の諏訪部先生がやって来た。
高い志を持って美術教師になったわけでも情熱を持って後進への指導に当たっているわけでもない彼は、週二の部活動にすら基本的には顔を出すこともない、良くいえば放任主義、悪くいえばやる気のない顧問だった。
晴陽も翔琉も干渉されて絵を描きたいタイプではないし、技法なんかは聞けば面倒臭そうにではあるが教えてくれるから今のところ別段文句もないけれど、もう少し美術部に対して熱意と興味を持ってくれたら、部員はもっと増えるのにと歯がゆい気持ちはある。
「今日はどうしたんですか? 呼んでもないのに先生が部室に来るなんて、明日は先生に縁談でも降ってくるんじゃないですか?」
「そこは雪って言うだろ普通は。離婚ホヤホヤの俺を慰めているつもりか? ……ああ、そうだよな。雪だとこの時期そんなに驚くことでもないもんな。上手い上手い」
「全っ然上手くねーよ。で、先生? マジで用があったんじゃ?」
呆れたような口振りで、翔琉が時計を一瞥した。早く絵を描き進めたい翔琉にとって、晴陽と諏訪部先生のやり取りなんて苛つく要素しかないのだろう。
「まあ、事務連絡と進捗確認だ。なあ逢坂、アートコンテストには応募するつもりはないって言ってたけど、意思は変わったか? 俺としてはお前にも応募してもらいたいんだよな。お前が受賞してくれたら、俺の美術教師としての評価も上がるし」
「そんな不純な動機で若人の創作意欲を削がないでくださいよ」
「動機はなんだっていいだろお? 逢坂だって、ウチのクラスの都築と付き合いたいっていう動機でいろんなことを頑張ってるだろうが」
「私の凌空先輩に対する愛と、諏訪部先生の棚ぼた思考を同列に語らないでください!」
「だがな、どんな情熱的な愛も長くて三年しか持たないって科学的にも証明されてんだよなあ。だから逢坂がよく口にする『一生都築を愛する』って言葉は嘘だと思うぜ」
「何言ってんだ? 逢坂の重すぎる愛をそこらの女と一括りにすんじゃねーよ」
晴陽が言い返すより先に翔琉が怒った。晴陽が愛を語るときには厳しい言葉を投げることの多い翔琉だが、諏訪部先生をはじめ誰かが晴陽の凌空への気持ちを馬鹿にしてくるようなときには、庇ってくれることが多い。
要は、とてもいい奴なのだ。
「なんで久川が怒るんだよ。逢坂、お前は来年の六月末締め切りの夕羅展に向けて準備しておけよ。特に学生部門とか設けられていないから受賞は難しいだろうが、もしも受賞できたら絵で食っていくための足掛かりになるし、俺も一生自慢できるしな」
「先生、おれも美術部員なんですけど? おれにも期待してくれたっていいんじゃねえの?」
「久川に? ……もしお前が何かの賞を取れたら、なんでも言うこと聞いてやるよ」
鼻で笑った諏訪部先生の感じの悪さは、翔琉の怒りに火を注いだ。
「マジむかつく! 絶対見返してやる! 今の言葉忘れんなよ⁉」
「おう、いいぞお。あ、でも高い物は買ってやるとセクハラだの贔屓だの問題になりそうだからなあ。俺の一発芸とか物真似とか、そっち系にしてくれ」
「先生には去年光の速さで消えていった一発屋芸人のギャグをやってもらって、SNSで拡散してやる。今のうちに練習しとけよ!」
晴陽が知る限り、翔琉は相当な負けず嫌いだ。いつか本当に諏訪部先生は吠え面をかく羽目になるだろうと思った。
「先生は事務連絡と進捗確認しに来たんですよね? 事務連絡の方は?」
諏訪部先生は「おお」と呟いて、思い出したかのようにスラックスのポケットから折り畳まれたメモ用紙を取り出した。
「学校に不審者情報が回ってきたんだ。今日の十六時前後に、おそらく二十代であろう男が女子中学生を車に連れ込む事件があった。犯人はまだ捕まっていないらしい。というわけで、二人とも今日は早めに帰れ。そんで、できれば一人で帰るのは避けろ」
「はあ? 最悪なんだけど……まあ、しょうがねえか。今日は家で描く」
早速片付けを始める翔琉を横目に、晴陽はもう少し残って描いて行こうと企んでいた。自分の通学路は明るいし人通りも多いし、帰宅が少し遅れるくらいなら大丈夫だろう、と。
そう判断した晴陽は、翔琉の絵の梱包と片付けを手伝って友人たちと下校する姿を見送ってから、美術室を独占することに成功した。
眼前のキャンバスに鉛筆で平面上の世界を創り上げていく。集中して絵を描いているといつも、晴陽は不思議な感覚に陥る。
第三者の視点で客観的に作品を捉えることができるくらい、この右手を動かしているのが自分ではないような錯覚を覚えるのだ。
ただ、今この絵を描いているのがたとえ自分ではなくとも、晴陽が描きたい絵はずっと前から変わらない。
晴陽の人生の目標の一つに、この手で凌空の肖像画を描き上げることが挙げられる。
初めて凌空を見たとき、全身に衝撃が走った。
癖のない艶やかな黒髪と虹彩の薄い大きな瞳には、本人が望まずとも人を惹きつける魅力があり、どこから見ても美しいと称賛される顔立ちをしていた。この人をキャンバスの中に収める作業は、人生で絶対に成し遂げなければならない目標だと瞬時に察した。
目を瞑って息を吐く。晴陽は凌空のことが好きだ。世界一好きだ。
独占したいし、大切にしたいし、ずっと側にいてほしいと思う存在だ。
それなのに、頭の中ではいつだって凌空の顔を明確に思い出せるというのに、妄想や写真を見て描く気は起こらない。いや、描いてはいけない気すらしている。凌空の魅力を最も引き出せる絵を描けるのは、晴陽に特別な感情を抱いてくれた彼がキャンバスの前に立ってくれたときだと、本能が知っているからなのだろう。
だから晴陽は、凌空が自分を特別な存在だと認めてくれるようになったら改めて膝を折って、描かせてくださいとお願いするつもりでいる。
目を開いて、再びキャンバスに視線を落とした。いつその日が来てもいいように、凌空を少しでも上手く美しく描き上げるための腕を磨き続ける努力と準備を怠ることだけはしない。
晴陽の彩る四角い世界の中は、凌空の存在を最大限に引き出すための背景から先に描かれている。
今日も、彼のいない、彼のための絵を描き続ける。
☆
少しだけ描いて帰るつもりが、あっという間に下校時刻になってしまった。
持ち運びが面倒だから普段はあまりやらないが、キャンバスバッグに描きかけの絵を入れて学校を後にした。
十九時を回った夜風は冷たく、冬の始まりのにおいがする。いつもより人の少ない駅までの道を少しだけ感傷的な気持ちで歩いていた晴陽だったが、誰よりも美しい後ろ姿を見つけて一気にテンションが上がった。
「まさか凌空先輩とこんな時間に会えるなんて! これって運命じゃないですか? それとももしかして、私のことを待っていてくれたんですか⁉」
ご主人様を見つけて尻尾を振りまくる子犬のごとく駆け寄った晴陽を、凌空は冷淡な目で睨みつけた。
「……なんで君がここに? 俺をつけて来たのか? ……警察に相談するから覚悟しろ」
「ご、誤解ですよ! 私はほら! 部活で遅くなっただけです!」
今日に限ってキャンバスバッグを持ち歩いていて良かった。説得力があったのか、凌空は無言で再び歩き出した。
「凌空先輩はどうしてこんな時間に学校の近くに? 忘れ物ですか?」
「明日図書館に返す予定の本を、机の中に忘れて……って、答える必要なかった。記憶から抹消しろ」
「うっかり屋さんな可愛らしい一面があることも、未来永劫私の脳味噌に記録しておきます!」
「……帰るからついて来んな」
「今度の日曜日、私とデートしませんか?」
晴陽としては、今ここで会えた幸運にあやかろうという考えと、苛々している凌空の気分を変える意味も込めてここしかないというタイミングで誘ったつもりだったのだが、会話の流れを無視した突拍子もない打診に凌空は目を丸くしていた。
「……すごいな君は。絶対断られるってわかってるくせに、変なタイミングで躊躇なく誘えるんだもんな」
「もう、何度も言っているじゃないですか! 私のことは親しみを込めて、晴陽と呼んでください!」
「じゃあ、晴陽」
「えっ! 絶対却下されると思ってたのに、嬉しい!」
こんなにあっさり名前呼びイベントがクリアできるとは思わなかった。“晴陽”という自分の名前に急に愛着が湧いてくるから凌空効果は本当に凄まじい。
「俺だけ名前で呼ばれるのは負けた気がして嫌だと思ってたから」
「勝ち負けじゃないですよ! でも子どもみたいな先輩も可愛い!」
「で? デートに誘ってきたってことは、愛とやらは証明できたのか? 条件に挙げたはずだけど、まさか忘れてたってことはないよな?」
「もちろん覚えてますよ! だけどすみません、証明はまだです! 勢いで誘っちゃいました! でももしOKをもらえるのであれば、デートの中で証明したいと思っています!」
申し訳なさそうにするでもなく、むしろ胸を張って謝罪する晴陽に凌空は盛大な溜息を吐いた。
「新手の押し売りだな……っていうか、なんで俺に拘る? 恋愛ごっこがしたいなら別の男を口説いた方が打率は高いぞ」
「なんでそんなこと言うんですか。前にも言いましたけど、私は凌空先輩じゃなきゃダメなんです。先輩以外考えられないんです」
「それも聞き飽きた。……もういい。じゃあな。ついて来たら本気で通報するからな」
晴陽を睨みつけ、凌空は足早に去って行ってしまった。
ついて来るなと言われても、不審者情報も出ているのにあんなイケメンを一人で帰すのは心配で仕方がない。しかし凌空を追いかければ、晴陽自身が通報されてしまう。
悩んだ晴陽は、凌空にバレないように細心の注意を払って後をつけることにした。
一秒でも早く帰りたいのか、凌空は普段の通学路を使わずに大通りから一本外れた小道、駅までの最短ルートを選択して歩いている。
彼と行き交う人々に晴陽は目を光らせる。普通に歩いているだけの人たちには本当に申し訳ないが、老若男女問わず皆凌空を狙っている怪しい奴に見えて仕方がなかった。
目と胃を痛めつつ早く凌空が家に帰る姿を見届けて安心したいと思っていると、目深に帽子を被ったマスク男という、見た目だけで判断すると不審者の筆頭候補者が現れた。
晴陽の直感というのも案外当てになる。男は凌空とすれ違った際に何やら声をかけていた。
隠れて後をつけている手前、飛び出したい衝動を堪えて二人の様子を観察する。凌空は無視を決め込んで歩を止めなかったが、まるで視界に入っていない塵のごとく扱われているのにもかかわらず、男は凌空を追いかけながら報われないアピールを続けていた。
凌空に好意を伝え続ける晴陽も、第三者から見たらあんな感じなのだろうか。通報される未来に現実味を感じていると、男の手が凌空の手首を掴んだ。
凌空の危機を察知した晴陽は、後先考えるより先に体が動いていた。
無謀なアピールを試みる点においては、晴陽とあの男は同じに見えるのかもしれない。だけど晴陽は、嫌がる凌空に乱暴しようとしたことなんか一度もないし、誓ってこれからもするつもりはない。
「やめなさいよ! 嫌がってるでしょうが!」
声を荒らげて二人に近づいていっても、男は晴陽を見て舐めてかかっているのか、凌空の手首を離そうとはしなかった。
晴陽は男を捕まえるために体当たりをかまそうとしたが、情けないことに片手一本で地面に叩きつけられてしまった。コンクリートの上に胸部から落ちると息ができなくなると知った。
男の気が晴陽に逸れた瞬間を見逃さなかった凌空は、男のマスクの上から頬に華麗なストレートを叩き込んだ。男の「いってえなクソが!」という罵声で、ようやく数人の野次馬を召喚できた。
喧噪の中で晴陽はポケットからスマホを取り出し、
「そ……それ以上彼に何かしてみろ。すぐに警察を呼んでやる!」
そう言って110番を押して、発信直前の画面を見せつけた。
男は面倒臭そうに舌打ちをして逃走していった。野次馬の何人かが体を案じる声をかけてくれたが、大丈夫だということを丁寧に伝えて礼を述べると、やがて彼らも解散し、街は普段通りの夜の様相を取り戻していった。
大失態だ。凌空に不快な思いをさせた奴を取り逃がした挙句、やられっぱなしで虫のように地面に転がるだけだった。好きな人に見られる姿にしては、格好悪すぎる。
「大丈夫か?」
蹲りながら凌空の方を直視できずにいた晴陽は、かけられた声に驚いて顔を上げた。禁止されていたのに後をつけ、さらに男を取り逃がすという失態をしてしまったというのに、怒らないどころか心配してくれるなんて。
「だ、大丈夫です! 凌空先輩に怪我はないですか?」
「ない。ほら、立てるか?」
ほっと胸を撫で下ろした。何もできなかった罪悪感からか、差し出された手を取るのはおこがましい気がした晴陽は自力で体を起こして頭を下げた。
「ごめんなさい。ダメだと言われていたのに、後をつけてしまいました。今日、学校周辺で不審者が出るという情報を聞いていたので、心配で……」
「それで俺を? ……普通、女である自分の方を心配しないか?」
「でもでも、先輩みたいな美少年がどストライクの変質者っていっぱいいると思うんです! 現に声をかけられていたじゃないですかあ!」
「俺はあの男に力で組み伏せられることはない。一撃で倒された晴陽の方がよっぽど被害に遭いやすいだる。もっと考えて行動しろ」
先輩が好きすぎて周りが見えなくなって、空回りして迷惑をかけてしまった。しょんぼりと肩を落としていると、凌空はしゃがみ込んで小さく呟いた。
「……でも、ありがとう」
「え? 私、何もしてません。犯人にも逃げられてしまったし……」
「勇気を出して声を出してくれただろ?」
「あんなのは助けたうちに入りませんよ。すみません……」
「待て。なんでさっきから謝る? ……まさか俺が怒ってると思ってるのか?」
悄然と頷く晴陽を見て、凌空は大きな溜息を吐いた。
「俺が怒るとしたら、今の発言になんだけど。晴陽は俺が助けてくれた後輩に『この役立たず!』って怒る男だと思っているのか?」
「いや、そういうわけじゃ……」
顔を上げると、至近距離に凌空の顔があった。怒った顔も本当に綺麗だなと、こんな状況下でも見惚れていた晴陽の頬を両手で挟んだ凌空は、大きな猫のような瞳を向けた。
「俺は君をこれっぽっちも女として見ていない。だけど、単純に後輩としてだけなら、その……可愛いとは思っている。だからもっと自分を大切にしてくれ。いいな?」
こんなに近くで、こんなに嬉しいことを言われた晴陽が、高揚しないはずがなかった。
もし人の心に幸せ通帳なるものがあったなら、今この瞬間に貯め込んできた残高がゼロになってしまう勢いだ。この喜びをちゃんと言葉にして伝えなければと思い、胸中で様々な単語を並べて凌空への好意を並べ立てたが、完全にキャパオーバーした頭で弾き出した返事は、頬を挟まれていることもあって「ふぁい」だった。
なんたる不覚、と悔いる晴陽のふざけた返事を聞いた凌空は、ようやく手を離して立ち上がり「帰るぞ」と口にした。
「え……? 凌空先輩、今、なんて……?」
己の不甲斐なさを嘆く隙を与えないくらい、威力のある言葉。
いつもだったら「帰る」なのに「帰ろうか」だなんて。
それは、つまり――。
「嫌なのか?」
一緒に帰ることを、正式に許可されたのだ。
「いいえ! 喜んで家までお送りします!」
「バカ。俺が送るんだよ」
駅に向かって歩き出した凌空の後を、慌てて追いかける。その凛とした後ろ姿を見ながら、改めて思った。
晴陽は、凌空のことを運命の相手だと信じて疑っていない。
初めて会った瞬間から目を奪われ、体が好意を伝えようと藻掻き、細胞のすべてが彼を求めている様子を感じ取ったからだ。
ただ、もし直感とか抜きにして、言葉にして凌空の好きなところを挙げてみてと言われたら「こういうところ」だと答えようと思う。
自分の単純なところは嫌いではない。凌空から与えられた優しさのおかげで、蹴られた腹の痛みが吹き飛んでしまっているからだ。
――まあ、同時にこっぴどく振られてしまったわけだけど。
「これっぽっちも女として見ていない」と真正面から告げられた晴陽は、少しでも早く凌空の恋愛対象になれるよう日々の努力を胸に誓った。