人生で初めて自室に入れる男が、まさかこの人になるなんて思ってもみなかった。

「ね? 連絡先をもらっておいてよかったでしょ?」

 晴陽の顔を見るやいなや、蓮はそう言って微笑んだ。

 晴陽は今日、自分の心臓移植に関わる情報を一つでも多く知るために、ドナーだと予想される二階堂菫の兄――蓮と話をする機会を得たのだ。

「でも、話をするだけならファミレスとかでよくないですか? どうしてわざわざ私の家で……」

 蓮にコーヒーを差し出しながら、晴陽は唇を尖らせた。

 凌空への愛を証明したい晴陽は、彼に不信感を微塵も抱かせたくないから自宅は嫌だと説明したのだが、蓮は晴陽の家じゃなければ話をするつもりはないと言って譲らなかった。教えてもらう立場の晴陽としては、呑まざるを得ない条件だ。

「妹の心臓をもらった女の子の私生活って、気になるじゃん?」

 心の準備なんかとっくにできているつもりだったのに、知りたかった答えを急に口にされて晴陽は動揺してしまった。

 胸元に視線を落とす。動揺しつつも、心臓に特に乱れた様子はない。

「……そうですか。私の心臓はやっぱり、菫さんのものだったんですね」

「うん、そうだよ。っていうか、やっぱり臓器移植って生前のドナーの趣味嗜好が少しは患者に影響を与えるのかなあ? 晴陽ちゃんの本棚とか家具の配置とか、菫と似ていてビックリしてるよ」

 その指摘は晴陽の気を重くするものだった。自分の意思が菫に影響を受けていないことを証明しなければならないのに、凌空の推測の方が正しいと思わせる話だったからだ。

「中等部三年生……夏休みが間もなく始まろうとしていた七月の夜に、菫は亡くなった。びっくりするくらい静かな夜だったことを覚えてる」

 普段よりも低い声色でゆっくりと語り出した蓮の声を一音も聞き漏らさないよう、晴陽は息を潜めた。

「わき見運転に巻き込まれた交通事故でね……病院で脳死って言われたときは、意味がわからなかった。菫は十五歳になってすぐにドナー登録をしていたらしくて、脳死だって判定されてからお父さんとお母さんは医師から臓器提供の可否を問われていた。二人は、菫の意思を尊重するって言って首を縦に振っていたけど……」
 
 蓮は一度言葉を区切った。

「ねえ、知ってる? 脳死っていろいろチェックして、もう回復の見込みはないことを慎重に確かめてから判定されるみたい。……でもね、菫の体はまだ動いていたんだよ。生きる機能はあったのに、それなのに……脳死判定をされてからはあっという間に手術室に連れて行かれて、菫の体からは心臓、肺、肝臓、腎臓、膵臓、小腸、眼球……移植可能なあらゆる臓器が取り出された。菫はまだ……まだ、生きていたのに……」

 蓮の声と拳が震えていた。今もなお引きずっているであろう彼の後悔が、晴陽にまでひしひしと伝わってきて息が止まりそうになる。

「しばらくは呆然として、何も手につかなかった。一ヶ月くらいしてようやく、菫のいない現実を受け入れ始めたときに臓器提供について調べてみようって思ったんだ。そしたらさ……臓器提供って、本人が希望していても家族が一人でも反対していれば、実行されないんだって知ってさ」

「……はい。私もいろいろ調べましたから、知っていました」

「そっか。オレはね、人生で一番後悔した。無知を恥じて、辛くて苦しくて、死んでしまおうかとも思った。晴陽ちゃんや菫の臓器をもらった患者さんたちには申し訳ないけれど、オレは菫の臓器を誰にもあげたくはなかった。まだ生きていた菫を急かすように殺した連中にしか思えなかったから」

 淡々と語っているように見えて、その表情はどこまでも暗く、瞳には漆黒の闇が見えていた。

 晴陽はようやく合点がいった。可愛い顔をして、甘い声を出して接触を図ってくるこの人は、私のことが憎くて仕方がないのだと。

「……蓮さんは、私を恨んでいるんですね」

 蓮はふっと笑って、普段の彼がよく見せる柔和な笑みを浮かべた。

「まさか。オレは、菫の心臓を実感させてくれる晴陽ちゃんが大好きだよ」

 矛盾しかないその言葉から、蓮の思考を読むことは不可能だった。

「……ドナーも患者も、互いの情報を知ることはできませんよね。蓮さんはどうして、私が菫さんから心臓を移植されたと知ったのですか?」

「菫の絵と晴陽ちゃんの絵が、そっくりだったからだよ」

 デジャヴだ。凌空にも同じことを言われた晴陽は目眩を起こしそうになった。

 確かに、翔琉をはじめ昔から晴陽の絵を知っている人間からは、心臓移植後に作風が変わったとは言われている。だけどそれは、体が元気になったことによる心境の変化が大きく影響していると思っていた。

 だけど二人に同じことを指摘されるだなんて、自分の考え方が根本的に誤っていたのかもしれない。他ならぬ菫と絵が酷似するだなんて、同じ先生に教わっていたとか好きな画家が一緒だとか、そういった偶然の産物だろうか。

 ――菫さんが私の手を使って絵を描いているとか? 自分で立てた仮説に背筋が凍った。