先輩、私と『わたし』の恋が証明できたら、側にいてもいいですか?

          ☆

「凌空先輩。寂しいとは思いますが……私はそろそろお暇させていただきます」

「駅まで送る。準備するから待ってろ」

「いえ、大丈夫です! すぐ近くまで親が迎えに来てくれるので」

「……親公認の行動なのか」

 靴を履いてから凌空に向き直った晴陽は、ポケットから一本の鍵を取り出した。

「凌空先輩、プレゼントです! 私の家の合鍵を渡すので、いつでも家に来てくださいね」

「勝手な真似したらご両親が泣くぞ」

 軽い冗談のつもりだったが物凄く冷たい口調で引かれてしまった。苦笑しながら鍵をポケットに戻し、代わりに小さな箱を差し出した。

「じゃーん! こっちが本当の誕生日プレゼントです。受け取ってもらえますか?」

 戸惑いながらも受け取ってくれた凌空に開封を促した。彼の細くて長い指がリボンを解く。箱を開けると、中からハンドクリームが取り出された。

「本当はもっと、凌空先輩の美しさに見合う高価なアクセサリーとか、自分で育てた羊の毛で紡いだ手作りのマフラーとかをあげたかったんですけど……すみません。時間も経済力も足りませんでした」

「いや、全然いらないけど。ハンドクリームの方が嬉しいけど」

 真面目な顔で即答され、羊はともかく蚕なら買えるのではないかと思って本気で調べていた自分が馬鹿らしくなって肩を落とした。それでも、ハンドクリームを嬉しいと言ってくれたことには素直に胸が弾んだ。

「凌空先輩は頭のてっぺんから足のつま先まで綺麗なのに、自分の顔にも体にも無頓着でしょう? もっと自分を労わって大切にしてほしいって思ったんです!」

 その胸元に飾られたネックレスとは比較にならないほど安価だが、凌空は晴陽の予想よりもずっと驚き、そして喜んでくれているように見えた。

「……ありがとう。でも、ごめん。俺は晴陽にプレゼントとか何も用意してない」

「いいんです! 私があげたくて勝手に用意しただけですし、そもそも強引に家に押しかけて来たわけですから」

「それじゃあ俺の気が済まない。なんでもするから、してほしいこと言って」

 凌空は晴陽から猛烈アピールされているときは氷のように冷たいが、基本的には律儀な性格をしている。そんな凌空をとても素敵だと思っているのに、彼に嫌われるような真似はしたくないのに、色欲の悪魔がここぞとばかりに桃色の展開を囁いてくる。

『夜、親のいない家、二人きり』というシチュエーションが、笑いながら晴陽に誘惑を仕掛けてくる。

「じゃ、じゃあ凌空先輩、私に……」

 普段は鉄壁のガードで固めているくせに、自分を好いている女の前で愚かな発言をしてしまった凌空の隙を突いてやろう。

「私に、凌空先輩の肖像画を描かせてください」

 そう思ったのも一瞬のことだ。今世紀最大の好機を前に下心なんて消え去って当然、凌空を一目見た瞬間から抱いてきた最大の望みに勝るわけもなかった。

「……『私を特別に想ってくれている先輩を描きたい』とかなんとか言ってなかった? 俺、晴陽を好きだって言ったつもりはないんだけど」

「だって、ずっと前から抱き続けてきた私の悲願なんですよ? ちゃんとした恋人同士になってからでも描く機会はありますしね!」

 恋人という肩書や両想いだという確信がなくても、一秒でも早く描きたいと望まずにはいられなかった。

 ――今日までずっと我慢してきたことが、どうして急に堪えられなくなったのか。

 晴陽は『誰か』に急かされているような感覚を覚えた。

「……わかった。いつ、どこで描くつもりだ?」

「やった! 一日でも早い方がいいです! 明日の冬期講習の後はどうですか⁉」

 ぽつりと、静かに許可を口にする凌空に抱きつきたい衝動を堪えて、前のめりで返答した。

 瀧岡高校では長期休みになると講習が始まり、生徒は余程の事情がない限りは強制参加を余儀なくされる。三年生は終日、一、二年生は午前中が講習の時間に当てられ、部活動がある者は午後から参加する形になっている。美術部は冬休み中は完全に休みだが、諏訪部先生に言えば美術室を使用することはできる。

「じゃあ、講習が終わったら連絡して。美術室に行けばいいのか?」

「はい! ありがとうございます! 嬉しすぎてオシッコ漏らしそうです!」

「ここで漏らしたら金輪際、俺に接触することを禁止するからな」

 冷ややかな目で威嚇された晴陽だったが、緩みっぱなしの顔を締めることができずに凌空に溜息を吐かれたのだった。
          ☆

 朝から気持ちが落ち着かなかった。

 向上心のある翔琉が自主的に絵を描きに美術室に来ることのないように、彼には念のため『今日だけは来ないで。凌空先輩と二人きりにさせて』とメッセージを送っておいた。『美術室を私物化すんな』と怒られたものの、交渉の結果、今日に限って晴陽は美術室を占領する権利を手に入れた。

 そして全く集中できずに終わった講習の後で二年生の教室まで凌空を迎えに行き、ついに彼を自分のホームグラウンドもとい、美術室に案内した。

「俺、美術室って初めて入ったかも」

 見慣れた美術室に凌空がいる。ただそれだけで、胸が詰まって昇天しそうな光景だった。西陽の差し込む窓から外を眺める凌空の横顔の美しさに、吸い込まれてしまうほどに見惚れた。

 いつ、どこにいても、凌空は美しい。そんな彼の魅力的な存在感を直に肌で浴びながら、キャンバスにその姿を残したいと常に望み続けてきた。

 晴陽の中に迸る欲望を凌空にぶつけられる日がとうとうやって来たことに、体が喜びで震えてしまう。

「じゃあ、早速描いていきたいと思いますので、そこの丸椅子に座って……先輩?」

 壁に沿って配置されているイーゼルにかけられたいくつかのキャンバスを、凌空はじっと見つめていた。

「ここにある絵って全部、晴陽が描いたのか?」

「いえ、私ともう一人の部員の久川が描いた絵が混ざっていますよ。凌空先輩が今見ていた馬の絵は、私が描いたやつですけど」

「やっぱそうか。俺は絵のことはよくわからないけど、素人目から見ても全然違うとは思った。上手い方が晴陽だろ?」

 上手い方と言われて首肯するのは気が引けたが、凌空が指を差したのが晴陽の絵だったので素直に「はい」と答えた。

 それからしばらく凌空は晴陽の絵を鑑賞していた。自分の作品を特別な好意を抱いている人に見られるというのは、嬉しい気持ちと、評価に怯える気持ちが混在して妙に落ち着かないものだと知る。

「晴陽が絵を描き始めたのっていつから?」

「小学校一年生のときに地元の絵画教室に通い始めました。教室自体は病気が原因で辞めちゃったんですけど、絵を描くことはずっと続けています」

「上手いわけだ。……なあ、晴陽って人間は描かないのか? ここにある絵はみんな、風景か動物か無機物だけど」

「凌空先輩と出会ってからは描いていないです。次に人間を描くなら、先輩って決めていたので」

「それは……光栄と言っていいのか?」

「完成後にそう思ってもらえるなら、作家冥利に尽きますね。先輩、そこの丸椅子に座ってリラックスしてください」

 準備していたイーゼルを凌空の近くに移動させ、真っ白なキャンバスを立てかけた。

 いよいよ夢が叶うのだと思うと、緊張と歓喜で手が震える。口から飛び出そうになる心臓を深呼吸でなんとか体内に留め、真っ直ぐにモデルである凌空を見据えると、彼の凛とした佇まいにつられて晴陽の背筋も伸びた。

 こんなに美しい人を描ける機会をもらったのに、持てる力のすべてを使って描き切れないなんて無礼、万死に値する。

 震えは止まった。一度だけ息を吐いてから、鉛筆でキャンバスに黒を入れた。

 一度着手し始めると脳内から今までにない量のアドレナリンがどんどん放出されて、鉛筆を走らせる手が止まらなかった。

 顔の輪郭、各パーツのバランス、髪の質感、どこを見ても、どの瞬間を切り取っても、凌空は美しく晴陽の目と心を惹きつけて離さない。凌空を自分の手で平面上に残せる喜びに、気を抜くと体細胞が爆発してしまいそうなほど興奮した。

 何も言わずに黙々とデッサンを続ける晴陽に、凌空は文句ひとつ言わずに同じ態勢を取り続けて付き合ってくれている。晴陽が望む『自分だけに見せてくれる表情』を現時点での凌空がどこまで見せているのかは、晴陽には判断がつかない。

 ただ、以前よりも確実に彼の表情は柔らかく、優しいものになっていると思った。

 永遠に続いてほしいとすら思った夢のような時間も、いつかは終焉がやってくる。晴陽の場合、それは下校時刻のチャイムという形で告げられた。

 手にしていた鉛筆をそっと置いて、放心状態でキャンバスを見つめた。

 長方形の世界に晴陽の愛する人が収められている現実に、自分で描いておきながら感動を覚えた。

「描けたのか?」

「はい、デッサンだけですが……すみません、三分だけでいいので、休憩させてください」

 凌空からもらった時間は今日、この日だけだ。制限時間内に描き終えなければならないという重圧からの解放と達成感で、全身から力が抜けて動けなくなってしまった。

 だけどアドレナリンはまだ体に残っているから、脳は活性化しているし目も冴えている。十年近く絵を描いてきたが、こんな感覚は初めてだった。体は動かないのに、心の底から楽しくて仕方がなかった。

「なあ、見てもいいか?」

 ずっと同じ姿勢をしていた凌空は立ち上がり、気持ち良さそうに背伸びをしてから近づきキャンバスを覗き込んだ。

 不安と期待の混ざった気持ちで凌空がどんな反応をしてくれるのか待っていたが、彼はキャンバスの前で微動だにとも動かなかった。

「……晴陽。二階堂菫って名前、覚えてるか?」

 凌空の顔はいつにも増して白く、血の気が引いているようにすら見えた。

「え? えっと……この間水族館で会った男の人の、妹さんですよね? 凌空先輩のことが好きで中等部のときに何度も告白してきた、私のライバルだっていう……」

 どうして今、その人の名前が出てくるのだろう。

 胸がざわついたけれど、それは嫉妬というよりも恐怖心の方が強かったように思う。

 ――まるで晴陽の本能が、これから先の展開に警鐘を鳴らしているかのように。

「菫も美術部で絵が上手かった。学校に展示されていた何かの賞を取った絵が男の肖像画だったんだが……その絵と、晴陽が描いた俺が……似てるんだ」

 晴陽の心臓が大きな音を出して、跳ねた。

 動揺しているのだろうか。でも、どうして? まるで嘘が露呈してしまったときのような、この焦りは一体どこから生じているのだろう。

「晴陽は心臓移植手術を受けたって言ったよな? ドナーが誰なのか知っているのか?」

「いえ、知りません……原則的に、ドナーの情報は患者には知らされませんから」

 晴陽の理解が追いつかないまま、凌空は真っ青な顔でその場に座り込んでしまった。

「二階堂菫は……二年前に交通事故で亡くなった。俺を含めて、同級生はみんな彼女の葬式に参列した」

 不思議だ。凌空がこの先言わんとしていることが、手に取るようにわかる。

 心臓の音は晴陽の確信に同意するかのように、どんどん大きく、どんどん速くなっていく。

「葬式で、菫の父親が言っていた話を思い出した。……脳死だった菫の摘出可能な臓器はすべて、全国で移植を待っている患者に提供をしたって。菫もきっと喜んでくれるって」

 呼吸が苦しくなってきた。唇は渇き、頭も痛くなってきた気がする。

 それなのに、愛しい人が辿り着いた答えを、晴陽の心臓は期待をしながら待っているように感じた。

「晴陽。君の心臓はきっと……菫のものだ」

 震える声で指摘されたそれは、まだ凌空の憶測に過ぎないというのに、証拠なんて何一つありはしないのに、晴陽の体中の全細胞が肯定していた。
「……私は、ドナーの情報を何も知りません。ただ、この心臓をくれたのが菫さんなのであれば……私の命を繋いでくれたことに、感謝以外の気持ちはありません」

 美味しいごはんが食べられるのも、面倒な宿題をやることも、友達とたわいない話で笑い合えるのも、くだらないことで悩めるのも全部、『普通の生活』が成り立たなければできないことなのだ。

 ドナーが誰であるか知ったところで、晴陽の人生はこれからも何も変わらない。そう思っているのに、凌空は髪の毛を掻き上げてふっと笑った。

「全部合点がいった。晴陽が俺を好きだって言っていたのは、菫の好意の名残だ。残滓だ。逢坂晴陽のものじゃなかったんだよ」

 その言葉の意味がまるでわからなかった晴陽は、小首を傾げることしかできなかった。

「おかしいと思ってたんだ。面識のない後輩から執拗に好意を告げられることも、俺を描きたいなんて変わった願望を違う女から二回も口にされることも」

「凌空先輩……? 何を、言っているんですか……?」

「でも菫の心臓が移植されていたなら、少なからず影響を受けるだろうしな」

 口角は上がっていても、目は笑っていない。冷たい微笑を浮かべた凌空は立ち上がって、鞄を持った。焦った晴陽は慌てて凌空の手を掴んだ。

「待ってください! 急にどうしたんですか? 菫さんの心臓を移植されたとしても、私は逢坂晴陽です! 私が凌空先輩を好きなのは全部、私自身の意思です! 菫さんは関係ないでしょう?」

「関係ないわけないだろ。晴陽は俺を好きなわけじゃないし、俺を描きたかったわけでもない。ただ、菫の意思が働いているだけ。そう考えるのが一番自然だし、納得できる」

 ドナーの意思が患者に引き継がれるなんて非医学的なことを口にする凌空に対して、晴陽は意外にも至極冷静だった。

 凌空は、晴陽の愛は嘘偽りだと決めつけて感情を荒らげている。それは、晴陽が自分に都合のいいように解釈せざるを得ないような状況だった。

「凌空先輩、それって、私が私の意思で先輩のことを好きかどうかわからないから、不満だってことですよね? 私、自惚れてもいいんですか?」

「……は? 違う。勘違いすんな」

 晴陽は凌空の手を離さなかった。ここで彼を黙って帰してしまっては、取り返しのつかないことになると直感が告げていたのだ。

「私が自分の意思で凌空先輩のことを好きだって証明できたら、私のことを少しは気になっているって、認めてもらえますか?」

「いい加減にしろ。認めるも何も、俺は晴陽のことなんて全然好きじゃない」

 何度も振られてきたけれど、傷つかない振りを決め込んでいただけでショックを受けていないわけではなかった。

 ふっと力が抜けてしまった晴陽の隙を突いて手を振り払った凌空は、逃げるように美術室から走り去ってしまった。

 キャンバス上の穏やかな凌空の表情と、晴陽の気持ちを全否定した感情的な凌空の表情の差が、晴陽をやるせなくさせた。

 凌空はどんな表情をしていても綺麗だ。だけどやっぱり、笑顔が一番素敵だと思う。

 そう思う気持ちすら自分のものではないと言われて、悲しさと悔しさが込み上げてくる。これだけ好意を伝え続けてきたのに、晴陽がどれだけ凌空のことが好きなのかまだわかってもらえないのか、と。

 晴陽が最優先で取り掛からなければならない証明は、前回よりも更に難易度が上がった難問だ。

 前回ですらこの先の時間を少しでも一緒にいることで将来的に証明すると猶予をもらっただけで、成し遂げたわけではないのに。自分に本当にできるのだろうか。

 だが、今度こそ証明できなければ凌空が晴陽を受け入れてくれることはない。引き下がれるわけがないのだ。

 晴陽は『自分』の胸に手を当てて、恩人を否定する行為を許してほしいと『彼女』に謝罪した。
 自分が『そうなる』だなんて、想像もしていなかった。

 高校生になってもバスケットボールを続けて、都内の大学を受験して、目一杯大学生活を楽しんで、卒業したら一般企業に就職をして、満員電車と残業に苦しみながらも少しずつ成果を出す喜びを知っていく。

 そして学生時代から付き合ってきた彼氏と結婚して、二人の可愛い子どもに恵まれて、できればマイホームを建てて、おばあちゃんになったら健康のために毎朝ウォーキングなんかしつつ、孫に甘すぎるって子どもに怒られて。

 それで家族に見守られながら、穏やかに最期のときを迎える。

 中学校一年生の秋まで、晴陽は平凡だけど幸せな人生の予想図をなんとなく思い描いていた。子どもにしては地に足がついているというか、現実味を帯びているその夢を実現するのはそれほど困難ではないだろうと信じて疑っていなかった。

 十三歳の九月。晴陽はなかなか治らない風邪に悩んでいたが、次第によくなるだろうと楽観的に構えていた。だが、日ごとに少し体を動かすだけで息が切れ、強い疲労感が全身を襲うようになった。

 バスケ部では練習どころではなくなり、コーチから病院を変えてもう一度診てもらった方がいいと勧められたことが、病気発覚のきっかけとなった。

 拡張型心筋症だと診断され、心臓移植手術を受けなければ余命は短いと医師から告げられたとき、両親は泣いていた。晴陽は茫然として、真っ白になった頭で手の震えを眺めていたことを覚えている。

 それからは心臓移植を待つための長い闘病生活が始まった。

 成人と比較すると子どもは進行が早いらしく、普通の学校生活を送ることは不可能となった。植込み型人工心臓の手術で少しだけ症状を抑えることができたが、完全治癒するためにはやはりドナーからの心臓提供を待つしかなかった。

 合併症である心不全や不整脈を抑えるための薬を投与されることで生じる、吐き気などの副作用に苦しみながらも、晴陽はベッドの上でよく絵を描いていた。六歳の頃から絵画教室に通ってはいたけれど、晴陽の画力が劇的に上がったのは入院生活での絵に充てた膨大な時間だと思っている。

 季節は巡り、病室から見える中庭の青々とした草木が太陽に映える七月の夜のことだった。

 両親と医師が数人、それからスーツを着た初めて見る女性が慌ただしく病室の中に入ってきた。何事かと不安になる晴陽に、初対面の女性は凛とした声で告げた。

「初めまして。私は移植コーディネーターの新井といいます。逢坂晴陽さん。今から心臓移植を受ける意思と覚悟はありますか?」



 それから一年かけて術後の回復に努めた晴陽は、入院中から絵と並行して頑張っていた勉強の成果もあって、無事に高校に進学することができた。

 食事や運動に制限はあるものの、家や学校で過ごす何気ない日常をとても愛おしく思った。

 こんな生活を取り戻させてくれた新しい心臓に、そしてかけがえのない心臓を提供してくれたドナーとその家族に、感謝しかなかった。
 人生で初めて自室に入れる男が、まさかこの人になるなんて思ってもみなかった。

「ね? 連絡先をもらっておいてよかったでしょ?」

 晴陽の顔を見るやいなや、蓮はそう言って微笑んだ。

 晴陽は今日、自分の心臓移植に関わる情報を一つでも多く知るために、ドナーだと予想される二階堂菫の兄――蓮と話をする機会を得たのだ。

「でも、話をするだけならファミレスとかでよくないですか? どうしてわざわざ私の家で……」

 蓮にコーヒーを差し出しながら、晴陽は唇を尖らせた。

 凌空への愛を証明したい晴陽は、彼に不信感を微塵も抱かせたくないから自宅は嫌だと説明したのだが、蓮は晴陽の家じゃなければ話をするつもりはないと言って譲らなかった。教えてもらう立場の晴陽としては、呑まざるを得ない条件だ。

「妹の心臓をもらった女の子の私生活って、気になるじゃん?」

 心の準備なんかとっくにできているつもりだったのに、知りたかった答えを急に口にされて晴陽は動揺してしまった。

 胸元に視線を落とす。動揺しつつも、心臓に特に乱れた様子はない。

「……そうですか。私の心臓はやっぱり、菫さんのものだったんですね」

「うん、そうだよ。っていうか、やっぱり臓器移植って生前のドナーの趣味嗜好が少しは患者に影響を与えるのかなあ? 晴陽ちゃんの本棚とか家具の配置とか、菫と似ていてビックリしてるよ」

 その指摘は晴陽の気を重くするものだった。自分の意思が菫に影響を受けていないことを証明しなければならないのに、凌空の推測の方が正しいと思わせる話だったからだ。

「中等部三年生……夏休みが間もなく始まろうとしていた七月の夜に、菫は亡くなった。びっくりするくらい静かな夜だったことを覚えてる」

 普段よりも低い声色でゆっくりと語り出した蓮の声を一音も聞き漏らさないよう、晴陽は息を潜めた。

「わき見運転に巻き込まれた交通事故でね……病院で脳死って言われたときは、意味がわからなかった。菫は十五歳になってすぐにドナー登録をしていたらしくて、脳死だって判定されてからお父さんとお母さんは医師から臓器提供の可否を問われていた。二人は、菫の意思を尊重するって言って首を縦に振っていたけど……」
 
 蓮は一度言葉を区切った。

「ねえ、知ってる? 脳死っていろいろチェックして、もう回復の見込みはないことを慎重に確かめてから判定されるみたい。……でもね、菫の体はまだ動いていたんだよ。生きる機能はあったのに、それなのに……脳死判定をされてからはあっという間に手術室に連れて行かれて、菫の体からは心臓、肺、肝臓、腎臓、膵臓、小腸、眼球……移植可能なあらゆる臓器が取り出された。菫はまだ……まだ、生きていたのに……」

 蓮の声と拳が震えていた。今もなお引きずっているであろう彼の後悔が、晴陽にまでひしひしと伝わってきて息が止まりそうになる。

「しばらくは呆然として、何も手につかなかった。一ヶ月くらいしてようやく、菫のいない現実を受け入れ始めたときに臓器提供について調べてみようって思ったんだ。そしたらさ……臓器提供って、本人が希望していても家族が一人でも反対していれば、実行されないんだって知ってさ」

「……はい。私もいろいろ調べましたから、知っていました」

「そっか。オレはね、人生で一番後悔した。無知を恥じて、辛くて苦しくて、死んでしまおうかとも思った。晴陽ちゃんや菫の臓器をもらった患者さんたちには申し訳ないけれど、オレは菫の臓器を誰にもあげたくはなかった。まだ生きていた菫を急かすように殺した連中にしか思えなかったから」

 淡々と語っているように見えて、その表情はどこまでも暗く、瞳には漆黒の闇が見えていた。

 晴陽はようやく合点がいった。可愛い顔をして、甘い声を出して接触を図ってくるこの人は、私のことが憎くて仕方がないのだと。

「……蓮さんは、私を恨んでいるんですね」

 蓮はふっと笑って、普段の彼がよく見せる柔和な笑みを浮かべた。

「まさか。オレは、菫の心臓を実感させてくれる晴陽ちゃんが大好きだよ」

 矛盾しかないその言葉から、蓮の思考を読むことは不可能だった。

「……ドナーも患者も、互いの情報を知ることはできませんよね。蓮さんはどうして、私が菫さんから心臓を移植されたと知ったのですか?」

「菫の絵と晴陽ちゃんの絵が、そっくりだったからだよ」

 デジャヴだ。凌空にも同じことを言われた晴陽は目眩を起こしそうになった。

 確かに、翔琉をはじめ昔から晴陽の絵を知っている人間からは、心臓移植後に作風が変わったとは言われている。だけどそれは、体が元気になったことによる心境の変化が大きく影響していると思っていた。

 だけど二人に同じことを指摘されるだなんて、自分の考え方が根本的に誤っていたのかもしれない。他ならぬ菫と絵が酷似するだなんて、同じ先生に教わっていたとか好きな画家が一緒だとか、そういった偶然の産物だろうか。

 ――菫さんが私の手を使って絵を描いているとか? 自分で立てた仮説に背筋が凍った。
「晴陽ちゃんはサンクスレターを書いてくれたでしょ? それに同封されていた風景画の色使いとかタッチがね、菫が描いたとしか思えないものだったんだ。菫を感じたオレは本当に嬉しかった。一度はそこで満足したんだよ」

 サンクスレターとは、臓器移植で命を繋げてもらった患者が臓器を提供してくれたドナーの家族に書く、お礼の手紙のことだ。晴陽は文章で感謝を綴った後、色鉛筆で描いた風景画を添えたのだった。

「お互いの個人情報が伝わらないように、日本臓器移植ネットワークを通してやりとりされるはずですが……?」

「うん、サンクスレターはあくまできっかけ。晴陽ちゃんが菫の臓器を移植されたってオレが確信したのは、菫が毎年参加していたあるコンテストの結果だよ。発表をホームページで見ていたオレは、菫とよく似た絵で受賞していた君の絵を発見して……『ああ、この子だ』って。君のことはすぐに調べ尽くしたよ」

「え? ……わ、私のこと、どのくらい知ってるんですか?」

「秘密。元気そうに生活している君の姿は、オレを救った。菫の臓器はまだ生きているんだから、菫は死んでなんかないって」

 口元に笑みを浮かべる蓮の瞳は今も、晴陽の中にいる菫しか見ていない。

「それは……違うと思います。菫さんは亡くなり、彼女の心臓をもらって私は生きています。キツい言い方になるかもしれませんが、現実を受け入れてほしいです。そうじゃないと、蓮さんは前に進めないんじゃないかって……心配になります」

 最後の言葉は、自分の口から出たものとは思えなかった。それはまるで、兄を心配する(すみれ)からの言葉のようだった。

「そうやってオレを甘やかさないところも、菫に似てるんだよね」

 目と目が合った。視線を逸らさないまま顔を近づけてくる蓮の手が伸び、晴陽の頬に優しく触れ、切なげに瞳を揺らしながらゆっくりと離した。

「ねえ。晴陽ちゃんはいつ、自分の心臓が菫のものだって知ったの?」

「知ったというか……昨日、凌空先輩に指摘されました。……蓮さんと同じく、私と菫さんの絵が似てるっていう理由で悟ったみたいです」

「へえ、凌空くんも気がついているんだ……それなのに何もアクションを起こそうとしないなんて、菫からの告白もあの子のことをろくに知ろうともしないで拒絶したみたいだし、相変わらず嫌なことから目を背けたがるみたいだね」

 目の前で好きな人の悪口を言われて、黙っていられるような女ではない。

「凌空先輩のことを悪く言うのはやめてください。確かに告白は断ったみたいですけど、菫さんのことを拒絶している感じではありませんでしたよ? 勝手な決めつけで話さないでください」

「……声は決して荒らげずに、冷静に相手を詰める怒り方も、菫にそっくりだ……ううん、『似てる』んじゃなくて、『同じ』だから当然か」

 よくわからないことをぼそぼそと呟いて口角を上げた蓮は、晴陽の心臓を指差した。

「晴陽ちゃんはオレを避けないで。オレから二度も菫を奪わないで」

 それは晴陽を拘束するかのような、お願いやおねだりの域を超えた、脅迫だった。

「それは……無理です。私は逢坂晴陽です。あなたの妹の菫さんではないです。私は――」

「凌空くんとのことは邪魔しない! たまに会ってくれるだけでいいから! ……頼む……」

 生前の菫の記憶が影響しているのか、菫から心臓をもらったという感謝の念が強いのか。
 断るべきだと脳では判断しているのに、悲痛な顔をする蓮の要求にかぶりを振ることは、晴陽にはとても難しいことだった。

「……わかりました……私にできる範囲で、蓮さんの要望に応えたいと思います」

 それに、自分の存在が妹を失った蓮の寂しさを埋められるなら、生き残った自分の責務だとも思ったのだ。

 この判断が凌空との関係に与える影響を、自身と菫との境界線を曖昧にしてしまう危険性を、今の晴陽には知る由もなかった。
          ☆

 冬休みをこれほど苦痛に感じたことはなかった。

 あの日以来、冬期講習に参加することのなかった凌空と接触する機会はなかった。メッセージを送ってみても既読は一向につかず、電話なんて出てもらえるはずもない。

 家まで行ってみたものの凌空は事前にマンションのコンシェルジュに何かを伝えていたのか、晴陽がインターホンを鳴らすより先に「次に敷地内で見かけたら警察に通報します」と警告をされてしまった。

 想いは募るばかり。顔を見て、話がしたくて仕方がなかった。

 一月八日。待ちに待った始業式当日、誰よりも先に登校して昇降口で凌空を待っていた晴陽は、登校時間ギリギリにやって来た凌空に声をかけた。

「凌空先輩! おはようございます!」

「もう俺に付きまとうのはやめろ。迷惑だ。二度と近寄るな」

 今までで一番冷たい声色と冷然な目つきで睨みつけられたことで、自己防衛機能が働いて体が一瞬だけ停止した。その隙に靴を履き替え歩き出す凌空を周りの生徒たちは日常の光景だと思っているだろうけれど、二人の心境は今までとは全く違う。

 凌空は晴陽を拒否ではなく拒絶するために、晴陽は凌空に好意を押しつけるためではなく、自分の気持ちの在り処を主張するために必死なのだ。

「私は逢坂晴陽です。二階堂菫さんじゃありませんよ」

 背中越しに声をかけられた凌空の肩が、強張ったように見えた。

「……そんなの、わかってる。だけど……もう俺には、菫にしか見えないんだよ」

「私は凌空先輩のことが好きです。超好きです。めちゃくちゃ好きです。死ぬほど好きです。この気持ちが、菫さんから引き継いだものだとは思えません」

 歩を止めないまま教室へ向かう凌空の後ろを追いかけながら、必死に愛を伝えた。

「具体性がないっていうのなら、好きなところをたくさん言います。大きな瞳が好きです。笑った顔が好きです。細い指が好きで、す。……は……話すときに目を逸らさない、ところが、好きです。呆れたときの、た、溜息の吐き方が好きです。……ゲホッ、これだけじゃないです……ゴホッ、まだまだ言えます。菫さんが好きになった凌空先輩と、わ……私がこの目で見て好きになった先輩は、違うはずで、す……!」

 普段、運動に制限をかけられている晴陽が小走りに近い早歩きで長時間話し続けるのは、体力的に厳しかった。ところどころで息が切れてしまい、心配なんてさせたくないのに、意図しない理由で凌空の足を止めてしまった。

 呼吸が整うのを待ってくれる彼の優しさに甘える自分を情けなく思いながらも、愚直に伝えることしか晴陽には術がないのだ。

「……凌空先輩は私に、菫さんとして振る舞ってほしいんですか? そうじゃないなら、私が諦める理由にはなりません」

「違う。でも、晴陽と菫を切り離して接するなんて、もう俺にはできない。晴陽と話していても菫の顔が頭にちらついてしまう。……これから先、晴陽と純粋な気持ちで会話するなんて無理なんだよ」

 そう言って、凌空は予鈴が鳴ったと同時に走り去ってしまった。帰宅部なのに足が速く、インドア派なのに運動神経抜群なところも大好きだ。

 だが――晴陽は凌空のことがこんなにも好きだというのに、彼はもう、菫というフィルターを通さなければ晴陽を見てくれることはないようだ。

 全身が急に重くなったように感じて、晴陽はその場を動くことができなかった。

 ここまで徹底的に拒絶されたのは、初めてだった。
 母親の愛と苦労が感じられる、三段の弁当箱にぎっちりと詰められたすべて手作りだというおかずを早くも平らげた明美は、残る白米を飲み込んでからイヤホンを取り出した。

「まあそう落ち込むなって。あっくんのアルバム曲に超イイ失恋ソングがあんの。聴かせてあげるから耳貸して」

「まだ失恋してないっつの」

 昼休みになってすぐに凌空のクラスへ参じたものの追い返されてしまった晴陽は、泣く泣く教室に戻って明美と弁当をつついていた。

 振られ慣れているとはいえ、今回ばかりは晴陽の努力だけではどうしようもできないのかもしれない。そう考えてしまうと、焦燥感と絶望感が襲ってくる。

「いや、でも諦める理由にはならない! ちゃんとごはん食べて、また放課後凌空先輩のところに行ってくるわ!」

 自分に言い聞かせるように好物の唐揚げを頬張っていると、背後から肩を叩かれた。

「なんか暗い顔してるな。幸せが逃げるぞ?」

 ダメージの蓄積で油断したら涙が零れそうな晴陽とは対照的に、翔琉はやけに機嫌がよさそうだった。

 制服の着崩し方はチャラいが笑顔や雰囲気は爽やかで、手に持った紙パックのオレンジジュースのイメージキャラクターにすら見えてくる。

「よ、明ちゃん元気? 相変わらずフッサフサの睫毛してんね!」

「距離感を考えて! オタクはすぐに惚れるんだからね⁉」

 明美はオタクを公言しているくせに、なぜか男子の前では声優好きだということは隠して、漫画・アニメオタクとして通している。晴陽からしてみればどちらも変わらないと思うのだが、明美にとっては譲れないラインなのだそうだ。

 明美の好きなあっくんと翔琉は真逆のタイプだが、明美は惚れっぽいところがあるのでそう遠くない未来に恋愛相談でも受けるのかもしれない。そうなったら、友人としてしっかり諦めるよう諭してやるつもりだ。

「久川はやけに元気じゃん。なんかあった?」

「美術室に新しいイーゼルが増えていたから、見ちゃったんだよね。この間、おれが気を遣ってやった成果が出てるじゃん! 都築先輩の絵、いつ頃完成しそう?」

 屈託のない笑顔が今の晴陽には眩しすぎて直視できなかった。だが協力してもらった手前、嘘を吐いたり適当な言葉で逃げを打ったりしてはいけないと思った。

「……うーん……しばらくは無理かも」

「なんで?」

 今までとは全く質の違う理由で避けられ、話しかけることすら許されないほど拒絶されていることを伝えると、翔琉は難しい顔をしていた。

「……おれ的にはさ、逢坂にはどうしてもあの絵を完成させてほしいんだよ。だからそういう意味では、お前の恋路を応援してやりたいと思ってる」

 翔琉の表情は真剣そのものだった。

「おれに何かできることがあったら言って。できる限りのことはするから」

 明美が小首を傾げていたが、どうして翔琉がここまで言ってくれるのかは晴陽にもわかっていなかった。
          ☆

 結局、放課後も昼休みの焼き増しになった。

 凌空に一言も口をきいてもらえなかった晴陽が肩を落として教室に戻ると、明美に肩を叩かれた。

「よし、行くよ。かわいそうな晴陽を慰めてやろう」

「……その台詞、凌空先輩に照れた顔で言ってもらいたい」

 こうなることを予想していたのか、明美は晴陽が戻ってくるのをわざわざ待っていたらしい。友人の優しさに落ち込んでいた気持ちが少しだけ救われた気がした。

 駅までの道を歩いている最中、スカイブルーの軽自動車が晴陽たちにゆっくりと近づいてきた。怪しいと思いながら横目で様子を窺っていると、助手席側の車窓が開いた。

「こんにちは晴陽ちゃん。今帰り?」

 ひらひらと手を振る男性を視認して、不審者に絡まれると思って身構えていた晴陽は胸を撫で下ろした。

「こんにちは蓮さん。奇遇ですねと言いたいところですが……もしかして、私を待ち伏せしてました?」

 蓮は笑って、後部座席を指差した。

「せいかーい! ねえ、今から遊びに行かない? もちろんお友達も一緒に!」

「いえ、せっかくですけど今日はこの子と二人でカラオケに行こうって言ってて――」

「行きます! 三人で楽しく遊びましょう!」

 晴陽の言葉を遮るように、前のめりに返事をしたのは明美だった。

「私を慰めてくれるって話はどこ行った?」と視線で訴えてみても、イケメンを前にした明美が気づく気配はなかった。


 車中、明美は誰が見てもわかるくらいに浮かれていた。年上のお兄さんに車を出してもらって遊びに行くだなんて、女子高生にはとても魅力的なシチュエーションである。

 加えて明美の興奮に拍車をかけているのは、蓮の容貌が大きく影響しているだろう。

 可愛らしい顔に、ふんわりとした優しい雰囲気。そして鼻にかかる甘い声と柔らかい笑みに、明美は完全に心を奪われているようだ。

「二人はいつから友達なの?」

「高校に入ってからなので、まだ九ヶ月くらいですね。でも晴陽とはマジで仲いいです! ソウルメイトです!」

 ソウルメイトだなんて言葉を明美の口から聞くのは初めてなんだけど。

「晴陽ちゃんって、学校ではどんな感じなの?」

「もうこのまんまですね! いつもうるさくて、クラスメイトにも先生にも笑われたりウザがられたりしています!」

「いつも明るいとか友達が多いとかさー、友人を紹介するときはもっといい印象を与えるような発言をするのがソウルメイトなんじゃないの?」

 蓮は楽しそうに笑った後、「あー、よかった。オレが思った通りの晴陽ちゃんだ」と呟いて、満足そうに口角を上げた。

「あの、あたしからも聞いていいですか? 蓮さんと晴陽ってその、どういう関係なんですか?」

 蓮は晴陽を溺愛していた妹と重ねて接しているが、明美の目には晴陽をとても可愛がっているイケメンとしか映っていないだろう。いろいろ聞きたくなるのかもしれない。

 どう説明するのかとバックミラーで運転席の蓮をちらりと一瞥すると、

「まあ、明美ちゃんのご想像にお任せします」

 語尾にハートマークをつける得意の口調で、ミラー越しに晴陽にウインクをしてきた。

 視線を向けてくる明美を見ないようにした。好んで意味深な発言をしたがる蓮に釘を刺しておきたいけれど、明美に一から十まで説明するのは今このタイミングではないし、蓮がおかしなことを言い出したら止めるだけにしておこう。

 そうこうしているうちに到着したカラオケボックスは、いつも晴陽たちが利用している店よりも少しだけ利用料金が高く、フードメニューが豪華なところだった。

「好きなもの食べていいからね? オレの奢り!」

 部屋に入るなり電気を暗くして自然に晴陽の隣に座った蓮は、鼻歌を歌いながら電子リモコンを操作し始めた。

 パーソナルスペースが平均よりも狭いのだろうか。彼と接しているとこの距離感に慣れてしまいそうになるのが怖い。意図しないところで他人に誤解をされたくないけど、だからといって塩対応するのは気が引ける。

 こういう甘さに付け込まれているとわかっているのに、情けない。溜息を吐いて、少しでも胸の中の勝手な罪悪感と忸怩たる思いを掻き消すために、愛しい彼に想いを馳せようと集中した。

 凌空はカラオケに来たら何を歌うのだろうか。いや、マイクを向けられても一曲も歌わない姿が想像できる。いつかはデートでも訪れたい。無理して歌わなくてもいいし、たとえ音痴でも可愛いに違いない。

 好きな人の力は偉大だ。妄想するだけで、この上ない元気がもらえるのだから。

「晴陽ちゃん今、凌空くんのこと考えてたでしょ?」

 気持ちを現実に引き戻す甘ったるい声に反応して隣を見ると、蓮がわかりやすい膨れっ面をしていた。

「すみません。お詫びに、私の十八番を披露しますね! 聞いてください。『未練坂』」

 知名度が低いうえに男ウケは絶対にしない曲なのに、蓮は手を叩いて楽しそうに聴いて、歌い終えると「上手だったね」「よかったよ」と何度も褒めてくれた。

 ドリンクがなくなりそうになれば飲みたいものを聞いて注文し、食べ物は笑顔で食べさせようとしてくる。凌空からの徹底的な拒絶とはまさに対照的、何をやっても甘やかされる状態に、正直心地良さを覚えてしまった。

 胸の中に芽生えたプラス寄りの感情に抗おうとする晴陽とは異なり、明美は素直に蓮に夢中になっていた。

 普段はあたかも男心を熟知しているかのごとく偉そうな説教をかましてくるくせに、見事に蓮の手のひらの上で転がされていた。

「晴陽、知ってた? 蓮さん、この間カラオケに来たときに金の卵を発掘するためにうろついていたプロデューサーの目に留まって、デビューを持ち掛けられたんだってさ!」

「へえー、凄いですね! そんな漫画みたいな話、本当にあるんですね」

「嘘みたいでしょ? だって嘘だしね」

「……え⁉ 嘘なんですか⁉ どこからどこまでが⁉」

 二人して完全に蓮にからかわれたりして、気がつけば笑いが止まらなくなっていた。

 今日、明美がいてくれてよかったと心から思った。