「……私は、ドナーの情報を何も知りません。ただ、この心臓をくれたのが菫さんなのであれば……私の命を繋いでくれたことに、感謝以外の気持ちはありません」
美味しいごはんが食べられるのも、面倒な宿題をやることも、友達とたわいない話で笑い合えるのも、くだらないことで悩めるのも全部、『普通の生活』が成り立たなければできないことなのだ。
ドナーが誰であるか知ったところで、晴陽の人生はこれからも何も変わらない。そう思っているのに、凌空は髪の毛を掻き上げてふっと笑った。
「全部合点がいった。晴陽が俺を好きだって言っていたのは、菫の好意の名残だ。残滓だ。逢坂晴陽のものじゃなかったんだよ」
その言葉の意味がまるでわからなかった晴陽は、小首を傾げることしかできなかった。
「おかしいと思ってたんだ。面識のない後輩から執拗に好意を告げられることも、俺を描きたいなんて変わった願望を違う女から二回も口にされることも」
「凌空先輩……? 何を、言っているんですか……?」
「でも菫の心臓が移植されていたなら、少なからず影響を受けるだろうしな」
口角は上がっていても、目は笑っていない。冷たい微笑を浮かべた凌空は立ち上がって、鞄を持った。焦った晴陽は慌てて凌空の手を掴んだ。
「待ってください! 急にどうしたんですか? 菫さんの心臓を移植されたとしても、私は逢坂晴陽です! 私が凌空先輩を好きなのは全部、私自身の意思です! 菫さんは関係ないでしょう?」
「関係ないわけないだろ。晴陽は俺を好きなわけじゃないし、俺を描きたかったわけでもない。ただ、菫の意思が働いているだけ。そう考えるのが一番自然だし、納得できる」
ドナーの意思が患者に引き継がれるなんて非医学的なことを口にする凌空に対して、晴陽は意外にも至極冷静だった。
凌空は、晴陽の愛は嘘偽りだと決めつけて感情を荒らげている。それは、晴陽が自分に都合のいいように解釈せざるを得ないような状況だった。
「凌空先輩、それって、私が私の意思で先輩のことを好きかどうかわからないから、不満だってことですよね? 私、自惚れてもいいんですか?」
「……は? 違う。勘違いすんな」
晴陽は凌空の手を離さなかった。ここで彼を黙って帰してしまっては、取り返しのつかないことになると直感が告げていたのだ。
「私が自分の意思で凌空先輩のことを好きだって証明できたら、私のことを少しは気になっているって、認めてもらえますか?」
「いい加減にしろ。認めるも何も、俺は晴陽のことなんて全然好きじゃない」
何度も振られてきたけれど、傷つかない振りを決め込んでいただけでショックを受けていないわけではなかった。
ふっと力が抜けてしまった晴陽の隙を突いて手を振り払った凌空は、逃げるように美術室から走り去ってしまった。
キャンバス上の穏やかな凌空の表情と、晴陽の気持ちを全否定した感情的な凌空の表情の差が、晴陽をやるせなくさせた。
凌空はどんな表情をしていても綺麗だ。だけどやっぱり、笑顔が一番素敵だと思う。
そう思う気持ちすら自分のものではないと言われて、悲しさと悔しさが込み上げてくる。これだけ好意を伝え続けてきたのに、晴陽がどれだけ凌空のことが好きなのかまだわかってもらえないのか、と。
晴陽が最優先で取り掛からなければならない証明は、前回よりも更に難易度が上がった難問だ。
前回ですらこの先の時間を少しでも一緒にいることで将来的に証明すると猶予をもらっただけで、成し遂げたわけではないのに。自分に本当にできるのだろうか。
だが、今度こそ証明できなければ凌空が晴陽を受け入れてくれることはない。引き下がれるわけがないのだ。
晴陽は『自分』の胸に手を当てて、恩人を否定する行為を許してほしいと『彼女』に謝罪した。
美味しいごはんが食べられるのも、面倒な宿題をやることも、友達とたわいない話で笑い合えるのも、くだらないことで悩めるのも全部、『普通の生活』が成り立たなければできないことなのだ。
ドナーが誰であるか知ったところで、晴陽の人生はこれからも何も変わらない。そう思っているのに、凌空は髪の毛を掻き上げてふっと笑った。
「全部合点がいった。晴陽が俺を好きだって言っていたのは、菫の好意の名残だ。残滓だ。逢坂晴陽のものじゃなかったんだよ」
その言葉の意味がまるでわからなかった晴陽は、小首を傾げることしかできなかった。
「おかしいと思ってたんだ。面識のない後輩から執拗に好意を告げられることも、俺を描きたいなんて変わった願望を違う女から二回も口にされることも」
「凌空先輩……? 何を、言っているんですか……?」
「でも菫の心臓が移植されていたなら、少なからず影響を受けるだろうしな」
口角は上がっていても、目は笑っていない。冷たい微笑を浮かべた凌空は立ち上がって、鞄を持った。焦った晴陽は慌てて凌空の手を掴んだ。
「待ってください! 急にどうしたんですか? 菫さんの心臓を移植されたとしても、私は逢坂晴陽です! 私が凌空先輩を好きなのは全部、私自身の意思です! 菫さんは関係ないでしょう?」
「関係ないわけないだろ。晴陽は俺を好きなわけじゃないし、俺を描きたかったわけでもない。ただ、菫の意思が働いているだけ。そう考えるのが一番自然だし、納得できる」
ドナーの意思が患者に引き継がれるなんて非医学的なことを口にする凌空に対して、晴陽は意外にも至極冷静だった。
凌空は、晴陽の愛は嘘偽りだと決めつけて感情を荒らげている。それは、晴陽が自分に都合のいいように解釈せざるを得ないような状況だった。
「凌空先輩、それって、私が私の意思で先輩のことを好きかどうかわからないから、不満だってことですよね? 私、自惚れてもいいんですか?」
「……は? 違う。勘違いすんな」
晴陽は凌空の手を離さなかった。ここで彼を黙って帰してしまっては、取り返しのつかないことになると直感が告げていたのだ。
「私が自分の意思で凌空先輩のことを好きだって証明できたら、私のことを少しは気になっているって、認めてもらえますか?」
「いい加減にしろ。認めるも何も、俺は晴陽のことなんて全然好きじゃない」
何度も振られてきたけれど、傷つかない振りを決め込んでいただけでショックを受けていないわけではなかった。
ふっと力が抜けてしまった晴陽の隙を突いて手を振り払った凌空は、逃げるように美術室から走り去ってしまった。
キャンバス上の穏やかな凌空の表情と、晴陽の気持ちを全否定した感情的な凌空の表情の差が、晴陽をやるせなくさせた。
凌空はどんな表情をしていても綺麗だ。だけどやっぱり、笑顔が一番素敵だと思う。
そう思う気持ちすら自分のものではないと言われて、悲しさと悔しさが込み上げてくる。これだけ好意を伝え続けてきたのに、晴陽がどれだけ凌空のことが好きなのかまだわかってもらえないのか、と。
晴陽が最優先で取り掛からなければならない証明は、前回よりも更に難易度が上がった難問だ。
前回ですらこの先の時間を少しでも一緒にいることで将来的に証明すると猶予をもらっただけで、成し遂げたわけではないのに。自分に本当にできるのだろうか。
だが、今度こそ証明できなければ凌空が晴陽を受け入れてくれることはない。引き下がれるわけがないのだ。
晴陽は『自分』の胸に手を当てて、恩人を否定する行為を許してほしいと『彼女』に謝罪した。