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「雪恵せんせー!」
 大きな通園鞄を揺らしながら、ドタドタと走るその子は、そのまま勢いに任せて私に抱きついてきた。
「おはよう、待ってたよ」
 私もぎゅうっと抱き返し、朝の挨拶をする。私が笑顔でそう言うと、満足気に口角を上げる姿が愛おしい。
「せんせー、みて!」
「きょうはいっぱいやることがあるね!」
「雪恵せんせーだいすき!」
「なんかしんどい……」
「抱っこしてー!」
「うわーん! ぼくのおもちゃとったー!」
「せんせー、やってー」
「えーん、たたかれたぁ」
「こんなのもできるんだよ!」
「もれちゃった……」
「あああー! できないー!」
「せんせい、すき……」
 荒れ狂う日々の生活。保育士がただ遊んでいるだけだと思っている人には、一日で良いから体験してみて欲しいと心底思う。
 それほどに、正直体への負担は大きい仕事だ。帰宅後は寝る力しか残っていない日がほとんど。
 ただ一日子どもたちと接しておけば良いわけではない。保護者対応、翌日の保育の準備、環境構成や日々の反省、行事の準備や会議など、子どもたちと関わること以外にも様々な役割がある。
 クレーマーや子育てに悩む保護者など、それぞれに対応していくと、体力どころか、精神までおかしくなりそうだ。
 それでも、こんなにも愛おしく、日々成長していく子どもたちの姿を見ながら、共に過ごせることが、私にとって何よりも幸せだった。
 毎日、赤の他人に『大好き』と伝えてもらえる。こんな幸せな仕事が他にあるだろうか。
「お疲れ様。どう? 最近のクラスの様子は」
 新卒の私に、そう声をかけてくれるのは、一人だけではない。数年上の先輩、学年主任、園長や理事長までもだ。
「相変わらずの大変さです……」
 苦笑いをして返す。そうすると、みんな『そうだよね』『それが当然だよね』といった労いの表情で見てくることがほとんどだった。
 そして私も安心する。この答えで正解なのだと。百パーセントの嘘でもないから、これで良いのだと。
 ここは天国かと思うほど、優しい方ばかりだ。きっと、優しさの伝統が続いてきているのだろう。他人の愚痴を一切聞かない、とまでは言わないが、場所を弁えることができる人が多いのだろう。
 おまけに、低い給料ではあるが残業代は必ず出るという福利厚生の良さに、施設の綺麗さ。
 私からすると、何の問題もない。
 子どもたちに頭を悩ますことも多いが、それも楽しい。
 毎日同じなんてつまらない。
「はぁ、今日も疲れた〜」
 帰宅してすぐ、骨が溶けたかのようにソファに倒れ込む。
 それでも次に出る言葉はいつも同じだった。
「今日も頑張った〜。しんどいけど楽しかった〜。仕事楽しいなぁ。あー仕事好き」
 溜め込んでいたものを吐き出すかのように、一人でぽつぽつと口にする。
 疲労感も、達成感に似た感覚で、最終的に私の中では『楽しかった』に変換されていた。
 こんなに仕事が楽しいものだと、正直学生の頃は思ってもみなかった。
 理由は単純。私の周りには、誰も仕事を好んで楽しみながらしている人なんて一人もいなかったからだ。
 親だって、親戚だってそう。毎日ため息をついて出社し、帰ってきたら愚痴大会。機嫌も悪くなって、当たり散らされる日々。
 世間一般的にも、仕事が原因で病気になったり、死んでしまう人だっている。
 だから私は、誰に言われなくてもわかった。
 私はおかしいと。
 “普通”ではないのだと。
 こんなに仕事を楽しんでいるのはおかしい。狂ってる。こんな人が存在するはずがない。
 いくら職場の環境が良くても、愚痴や悩みの一つは出てくる。社会人一年目なら尚更だ。
 でもそれすら、ありがたいことに私にはほとんど出てこない。
 周りの環境に感謝すると同時に、同じくらい私は自分が怖かった。
 “普通”の社会人は仕事が嫌いだ。
 “普通”の社会人は、愚痴や悩みがあるものだ。
 “普通”の社会人一年目は泣きながら出勤するものだ。
 “普通”の社会人一年目は、悩んで、苦しんで、もがきながら先輩に相談して、何とか立ち上がって耐えているものだ。
 それがきっと“普通”だ。
 では、そうでない私は一体何だ?
 狂っている私は、その名の通り“狂人”なのかもしれない。
 そんなことを悟られることが嫌だった。
 それに、こんな狂人が“普通”の中に馴染むには、“普通”の仮面を被るしかない。
『私、本当に仕事好きなんだ』
「本当、仕事って辛いよね」
 喉の奥まで出かかる心の声を、必死に置き換えて口に出す。
『この前、こんな活動したら褒めて貰えたの!』
「上の先生にわかってもらいたいよね……」
 狂人がそのまま狂人であれば、“普通”の人を傷つけかねない。
『一生働いていたい! 仕事を辞めたら生きていけない!』
「今どき、仕事って一生やるものじゃないから大丈夫だよ」
 せめて、狂人なら狂人という力を活かして、“普通”の人の苦しみを取り除かなければ。
 私は他の人より幸せなのだから、幸せをアピールすることによって、“普通”の人が自分と比較をして、心を閉ざしてしまうなんてこと、許されない。
 だから絶対に、他人に言ってはいけないのだ。『仕事が好き』だなんて。
 シャワーを浴び、ベッドに入る。布団を頭まで被った。なぜだか心に霧がかかったように、モヤモヤとして気持ち悪い。私は幸せなはずなのに。
「幸せ……幸せなんだよ。大好きなんだよ、この仕事」
 声に出すと、不思議と震えていた。生暖かい何かが頬を通って枕に流れる。
 なぜだかわからない。いや、わからない振りをした。気づかないことが正解なのだと言い聞かせた。
 重たい体と心を、ベッドに沈み込ませるように、意識を深いところへと落としていった。