ある日のことだった。
昨夜もナースコールでさんざん看護師さんを呼んで困らせた僕は、午後からの問診で、少しは外の空気を吸った方がいいと医者に言われた。
なかば無理矢理、樫の木の生い茂る中庭に連れて行かれることになる。
外は嫌いだ。空が、光が眩しくて、頭がくらくらする。
すがるように、手にした本を眺めていた。いつも入り浸っている、入院棟の図書室から持ち出したものだ。
『後拾遺和歌集』――和歌を見るのは好きだった。
昔の人も、今の自分たちと同じように、悩んだり苦しんだりしているのが面白かった。
これを詠んだ彼らの存在はとっくに消えてるけど、想いだけが、こうして何年ものときを経て残っている。不思議な感じがした。
僕もいつかは消えるのだろうと、いつも思っていた。
手術が成功したとはいえ、この身体が持つ保証はない。
“普通”じゃない僕は、周りの人を不幸にしている。早く消えた方がいい。
霧や煙が、あとかたもなく消滅するように。
ページを、ゆっくりとめくる。
君がため 惜しからざりし 命さへ ながくもがなと 思ひけるかな
どういうわけか、繰り返し見てしまう和歌だった。
“君に会うためなら死んでも構わないと思っていた。だけど今は君に会うためにいつまでも生きていたいって思う”
この歌を詠んだ藤原義孝は、数年後に若くして亡くなった。
それを思うと、とても悲しい和歌のように感じる。なのに、不思議とあたたかい。
「何を読んでるの?」
ふいに耳元で声が聞こえて、僕は飛び跳ねそうになった。
振り返ると、女の子が、ひょっこりと本を覗き込んでいる。
茶色い肩までの髪の、目の大きな女の子だった。
上目遣いで首を傾げられて、僕は慄いた。
子供は苦手だ。僕だってまだ子供ではあるけど……。
「……本」
そっけなく答えると、「和歌でしょ? 百人一首、したことあるよ」と女の子が無邪気に答えた。知ってるなら聞くなよ、と僕はますますムッとした。
「私、水田真菜っていうの。お父さんが検査に行っちゃったから、今暇してるの」
女の子は、どこまでも無邪気で屈託のない笑みを浮かべる。
どうやら父親が入院しているらしいことに、少し同情を感じた。
「お兄さんも暇してるの?」
「……暇といえば暇だけど……」
「百人一首って、暗号みたいだよね。前から思ってたんだけど、“君がため”ってなにかの技? “卍がため”みたいな」
女の子が、“君がため”を指差しながら言う。
僕は、久しぶりに吹き出した。
「なんで“卍がため”なんか知ってるんだよ」
「お父さんがプロレス好きなの」
うれしそうに、女の子が笑う。少し気持ちの綻んだ僕は、『後拾遺和歌集』に目を落とした。
「“君がため”っていうのは、“君のために”って意味だよ」
「ふうん」
女の子はふと静かになり、和歌を黙って見ている。
柔らかな風がそっと彼女のサラサラの髪を撫でる。呼応するように、頭上高くにそびえる樫の葉が、サワサワと優しい音をたてた。
――君がため。
幼い彼女なりに、その和歌に込められた強い想いを、感じ取っていたのかもしれない。
すると女の子は、突然パッと顔を上げて、「そうだ、“君がためゲーム”をしよう!」と言った。
「君がためゲーム? なんだそれ」
「古今東西みたいなかんじで、相手のためにできること、順番に言い合いっこするの」
「……ふーん」
暇だし、まあいいか。
僕らは、相手のためにできることを想像して、ひたすら言い合った。
君のために、歌を歌う。
君のために、空を飛ぶ。
君のために、夢を見る。
そのうち、それはとてもいい言葉のように思えてきた。
誰かのためになにかをするなんて、考えたこともない。
自分は、自分のためにしか生きれないと思っていた。
ああそうか、と納得する。
だから、藤原義孝の和歌は、悲愴感のなかに、あたたかみを感じるんだ。
誰かのために生きたいと思った彼は、短い生涯ながらも、きっと幸福だったから。
「真菜―っ!」
遠くで声がした。多分、母親が女の子を探しているのだろう。
はーいと返事をして、彼女が立ち上がる。
「さようなら、行くね」
初めは鬱陶しいと感じていたのに、小さな彼女が離れてしまうのを、そのとき無性に寂しく思った。
最後に女の子は、世界が霞んで見えるほどの、まばゆい笑顔を僕に向けた。
「お兄さんの言葉、私好きだよ。また聞かせてね」
小さな彼女のその言葉は、樫の木の葉音とともに、いつまでも僕の心に残っていた。
昨夜もナースコールでさんざん看護師さんを呼んで困らせた僕は、午後からの問診で、少しは外の空気を吸った方がいいと医者に言われた。
なかば無理矢理、樫の木の生い茂る中庭に連れて行かれることになる。
外は嫌いだ。空が、光が眩しくて、頭がくらくらする。
すがるように、手にした本を眺めていた。いつも入り浸っている、入院棟の図書室から持ち出したものだ。
『後拾遺和歌集』――和歌を見るのは好きだった。
昔の人も、今の自分たちと同じように、悩んだり苦しんだりしているのが面白かった。
これを詠んだ彼らの存在はとっくに消えてるけど、想いだけが、こうして何年ものときを経て残っている。不思議な感じがした。
僕もいつかは消えるのだろうと、いつも思っていた。
手術が成功したとはいえ、この身体が持つ保証はない。
“普通”じゃない僕は、周りの人を不幸にしている。早く消えた方がいい。
霧や煙が、あとかたもなく消滅するように。
ページを、ゆっくりとめくる。
君がため 惜しからざりし 命さへ ながくもがなと 思ひけるかな
どういうわけか、繰り返し見てしまう和歌だった。
“君に会うためなら死んでも構わないと思っていた。だけど今は君に会うためにいつまでも生きていたいって思う”
この歌を詠んだ藤原義孝は、数年後に若くして亡くなった。
それを思うと、とても悲しい和歌のように感じる。なのに、不思議とあたたかい。
「何を読んでるの?」
ふいに耳元で声が聞こえて、僕は飛び跳ねそうになった。
振り返ると、女の子が、ひょっこりと本を覗き込んでいる。
茶色い肩までの髪の、目の大きな女の子だった。
上目遣いで首を傾げられて、僕は慄いた。
子供は苦手だ。僕だってまだ子供ではあるけど……。
「……本」
そっけなく答えると、「和歌でしょ? 百人一首、したことあるよ」と女の子が無邪気に答えた。知ってるなら聞くなよ、と僕はますますムッとした。
「私、水田真菜っていうの。お父さんが検査に行っちゃったから、今暇してるの」
女の子は、どこまでも無邪気で屈託のない笑みを浮かべる。
どうやら父親が入院しているらしいことに、少し同情を感じた。
「お兄さんも暇してるの?」
「……暇といえば暇だけど……」
「百人一首って、暗号みたいだよね。前から思ってたんだけど、“君がため”ってなにかの技? “卍がため”みたいな」
女の子が、“君がため”を指差しながら言う。
僕は、久しぶりに吹き出した。
「なんで“卍がため”なんか知ってるんだよ」
「お父さんがプロレス好きなの」
うれしそうに、女の子が笑う。少し気持ちの綻んだ僕は、『後拾遺和歌集』に目を落とした。
「“君がため”っていうのは、“君のために”って意味だよ」
「ふうん」
女の子はふと静かになり、和歌を黙って見ている。
柔らかな風がそっと彼女のサラサラの髪を撫でる。呼応するように、頭上高くにそびえる樫の葉が、サワサワと優しい音をたてた。
――君がため。
幼い彼女なりに、その和歌に込められた強い想いを、感じ取っていたのかもしれない。
すると女の子は、突然パッと顔を上げて、「そうだ、“君がためゲーム”をしよう!」と言った。
「君がためゲーム? なんだそれ」
「古今東西みたいなかんじで、相手のためにできること、順番に言い合いっこするの」
「……ふーん」
暇だし、まあいいか。
僕らは、相手のためにできることを想像して、ひたすら言い合った。
君のために、歌を歌う。
君のために、空を飛ぶ。
君のために、夢を見る。
そのうち、それはとてもいい言葉のように思えてきた。
誰かのためになにかをするなんて、考えたこともない。
自分は、自分のためにしか生きれないと思っていた。
ああそうか、と納得する。
だから、藤原義孝の和歌は、悲愴感のなかに、あたたかみを感じるんだ。
誰かのために生きたいと思った彼は、短い生涯ながらも、きっと幸福だったから。
「真菜―っ!」
遠くで声がした。多分、母親が女の子を探しているのだろう。
はーいと返事をして、彼女が立ち上がる。
「さようなら、行くね」
初めは鬱陶しいと感じていたのに、小さな彼女が離れてしまうのを、そのとき無性に寂しく思った。
最後に女の子は、世界が霞んで見えるほどの、まばゆい笑顔を僕に向けた。
「お兄さんの言葉、私好きだよ。また聞かせてね」
小さな彼女のその言葉は、樫の木の葉音とともに、いつまでも僕の心に残っていた。