死神皇帝は烏道士を溺愛する

◇◆
「ここの連中は、最低だな。もういっそ、後宮にいるのは、仕事の為だって暴露しちまえよ」
「それは出来ないわ。お妃様が亡くなって、印象最悪な後宮だもの。私のような者が、浄化に来たなんてことが公になれば、益々、みんな怖がるでしょ。大体、暴露したところで、嫌がらせはやまないだろうし」
「まあ。かえって酷くなる可能性もあるか」
「そうよ。今日で、折り返しまで来たんだから。嫌なことは、忘れましょう」

 晨玲には未泉と、耳が遠くなった年嵩の侍女がもう一人いる。
 その侍女に来訪者がいたかどうか尋ねてみたが、誰もいなかったらしい。
 ――ということは、窓からか?

「開けっ放しにしていたのが、不用心だったのかしらね」

 八角形の小さな小窓。
 格子もあるし、出入りはできないだろうから、窓の外から放ったのだろう。
 いずれにしても、面倒この上ないのは事実だった。
 晨玲は手袋をはめると、冷たくなった烏の骸を抱き上げ、部屋の外に出た。

「元々、死んでいたんだろうけど、それにしても、死を道具にするとは……」
「待って。それ埋葬するんだろう? 俺も一緒に」
「いいの。未泉。私が弔うわ。貴方は部屋の方を清めて頂戴」
「分かった」

 こういう時、素直なのが未泉の良いところだ。
 晨玲は、一人になりたかったのだ。
 怒っていないかと問われれば、怒っていると答えるだろう。
 それくらい、腹は立っている。

(私、最下層の妃で良かったわ)

 晨玲には、上級の妃には得られない、自由がある。
 後宮の妃の数は、三十人近く。女官はその三倍以上。皇帝は即位して間もないため、これでも少ない方だ。
 下手に宮殿なんて割り振られた日には、大変だっただろう。
 烏一匹、埋葬するにも大勢の人に断る必要も出てきたはずだ。
 とりあえず、ふらりと外に出たら、目の前に手つかずの自然が広がっているのは、ありがたかった。

(ここが良いかしら)

 晨玲は、死骸を横に置いて、目についた大木の下を、素手で掘り返し始めた。

「ああ、もう、信じられない。いくら私が烏道士だからって、烏の亡骸を置いていくなんて、酷すぎる!」

 復讐なんてするつもりもないが、怒りを口に出さずにはいられない。

(私を追い出したら、満足なの? 違うでしょう)

 最下層妃を苛めて、何の利になる?
 後宮入りしなくても、普通に仕事をしているだけで、晨玲は今まで、様々な人に見下されてきた。
 しかし、今回は死に関する仕事をしているからこそ、吐き気を覚えるのだ。

「こんな魔物の巣窟。神祇廟がなければ、とっくに出て行ってやるのに」

 硬い土を、犬が両足で掘り返すか如く、がつがつ掘り返す。
 こんな場面を、誰かに見られた日には、妃どころか、また魔物だとか言われてしまうかもしれない。

(ああ、駄目ね。落ち着け。……私)

 現実を思い出して、手を止めようとした、矢先、背後から腕を掴まれた。

「駄目だよ。そんなに、激しく素手で土を掘ったら、指が傷ついてしまう」
「えっ?」

 その声、腕の力も、子供の未泉のものではなかった。
 晨玲がハッとなって、周囲を見渡すと、すっかり日は暮れていて、自分の傍らには長身の綺麗な人がいた。

「泣いていたの?」
「違います。私は」

 戸惑っていると、更に距離を詰めてきたので、晨玲は身構えながらも、その人を凝視してしまった。
 澄んだ黒い双眸に、整った目鼻立ち。艶々の黒髪。
 まるで、女性のような柔和な顔つきをしていた。年齢は、晨玲より少し年上だと思うが、年下と言われても、納得するくらい不詳だ。
 だらりとした長衣は、後宮で一度も見たことがない寛いだ格好で、廟で焚かれていた香が、ふわりと晨玲の鼻腔を擽った。
 彼の周囲にだけ後光が差しているかのような、圧倒的な存在感があった。

(なに、この方……)

 ――まるで。

(聖雲天女様のようだわ)

「天女様」
「へっ?」
「大変、美しいご尊顔をされています」

 晨玲の暴走は、唖然とする彼を置き去りにして、止まらなかった。

「貴方は、聖雲天女様の生まれ変わり? 奇跡だわ。このような処に、天女様が降りていらっしゃるとは。眼福、垂涎ものです。有難うございます。私などのために」
「えーっと。よく分からないけれど、絶対、違うと思うな」
「違う?」

 即座に否定されると、晨玲もさすがに冷静になった。

「あっ、では、宦官の方でしょうか? ちなみに、私は下っ端妃の黎 晨玲と申します」

 名乗り忘れていたことに、今更気づいた晨玲は、丁重に拱手した。

「下っ端って」

 そうか、名乗り方を間違えたか。後宮での位は確か……。
 しかし、彼は説明を加えようとしている晨玲を遮って、笑った。

「もう、いいよ。下っ端妃さん」

 何がおかしいのか分からないが、彼にとっては面白いらしい。

「そうだね。宦官長に命じられて、君の様子を見に来たんだ。私の名は……。天清(てんせい)と呼ばれているかな?」

 まるで今、とってつけて考えたかのような間があったが、晨玲は気にならなかった。
 ――そんなことより。

「天……清様と、おっしゃるのですね」

 ――奇跡(二回目)。
 晨玲は、すっかり感激してしまった。

「天清。それは「三神の一」。太玉(たいぎょく)天尊の別名ではないですか。なんと素晴らしい御名を、お持ちなのでしょう!」
「あははっ。本当に、君は面白い人だね?」
「ええ。よく言われます。そうですね。太玉天尊ならば、金慧山の大廟に祀られている特大神像が有名……だとか。えっ?」
「……腕」
「あっ」

 晨玲は興奮のあまり、彼の腕を取って、揺すっていたらしい。

「これはまた、大変な御無礼を」

 恥ずかしい。

(普段、私だって、ここまで変な行動は取らないのだけど……)

 後宮入りする前は、師匠である叔父に話して、時に議論したりして、愉しむことが出来ていたのだが、ここに来てから、誰とも神様談義が出来ずに、相当な鬱憤が溜まっていたようだ。

「申し訳ありません。しかも、埋葬の為の穴掘りをしているところなんて、大変御見苦しいものを、お見せしてしまい……」
「いや、私の方こそ、突然すまない。ずっと君を見ていて。つい……出て来てしまったんだ。わざわざ、烏なんて埋葬しなくても良いのにって」

 彼の鋭い視線が、烏の亡骸に注がれている。
 宦官長からということは、晨玲の仕事も理解しているはずだ。

「ああ、本当に駄目ですね。私」
「何が?」
「早く弔ってあげようと思っていたのに、神様の話を聞くと、つい舞い上がってしまって」
「いや、私はそういうことを言ったのではなくて」
「いえ」

 晨玲は天清の言葉を制止して、己の頬を叩いて気合を入れた。

「私は道士です。埋葬方法を知っているのに、無視するわけにはいきません」

 罪悪感に苛まれながら、晨玲は再び穴を掘り出した。

「しかし、晨玲。苛めのやり口が酷いと思うんだ。毎日の悪口に、水を掛けられ、石も投げられ、花瓶も落とされたとか……」
「まあ、天清様は、情報収集能力が素晴らしいのですね。よくご存知で」
「基本放置だったんだけど、今回ばかりは、私にも非があるから」
「ん?」

 それは、どういうことかと問い質そうとしたら、彼は慌てて、晨玲の穴掘りを手伝い始めた。

「あっ、いや、後宮内の風紀の乱れは、私の責任だと、宦官長に叱られてね」
「そうでしたか」

 叔父の元に訪れた壮年の宦官長は、ぼうっとしていて、何を考えているのか分からないような人だったが、実はやり手だったらしい。

「だから、君にも謝らなくては……。晨玲。君は仕事で後宮まで来てくれたのに、私のせいで、こんな目に遭わせてしまった」
「いえ、そんな。確かに、烏の命を、私を脅かすための道具に使ったことは、怒っています。ですが、烏の亡骸を利用するくらい、追い込まれているのかと思うと、少し不憫でもあります」
「犯人が?」

 天清が、首を傾げている。

「変ですか?」
「いや、私が変なのかもしれないけど」

 一瞬、垣間見た彼の横顔がぞっとするほど、冷ややかだったので、やっぱり彼は天女さまとは違うのだと、ようやく晨玲も悟った。

(犯人見つけたら、この人、殺る気?)

 場の浄化なんて、晨玲でなくても、道士であれば、出来る仕事だ。
 わざわざ「妃」として、晨玲を入宮させた本来の目的は、後宮内の粛清だとしたら?
 けれど、そんな目的のために、晨玲を巻き込むのは勘弁して欲しかった。

(ここは、とにかく、煙に撒いて逃げるしかないわね)

 ようやく掘り進めた穴深くに、烏を埋葬して、一度手を合わせてから、晨玲は早口で言った。

「ああ、でも、天清様。私、別に後宮でなくとも、このような中傷は日常茶飯事なので、慣れているのですよ」
「そうなの?」

 今までの険しい顔から一転、天清は意外そうにこちらを見遣った。

「はい。それは、もう。女の烏道士っていうだけで、犯罪者だから、葬礼の仕事をしているのだとか。遺体から肝を取って、荒稼ぎしているとか……。もう、笑えるくらい。そりゃあ、確かに、道士の稼ぎは少ないですよ。副業に、御守り作って売り歩いたくらいですから。でも、私は望んでこの仕事に就いた訳ですから」

 晨玲は口角を上げて、ぐっと拳に力を入れる。

「死はどんなものにも、平等に訪れます。亡くなった魂を、冥府に導くことは、誰かがやらなければならないお役目です。それに、地道に仕事をしていると、皆さん、私のような小娘にも親しみを抱いてくれて、慶事に関しても依頼してくれるのですよ。だから、私は大丈夫なのです」
「……君は」

 暗がりの中、天清の瞳が大きく見開かれていた。

(ああ、また、私、引かれてしまったのね)

 今のような自分語りは、未泉ならば、三回以上舌打ちをされている。

「と、そういうことで、私、烏を葬送しますね」
「烏にも、あの世ってあるのかな?」
「……さあ」
「えっ?」

 天清が顔を引き攣らせていたが、本音なので仕方ない。

「私、死んだことがないので。あるかどうかまで、断定できません。道士とはいえ、霊が視えるわけじゃないのです」
「そう……なの」
「でも、どんな生き物にも、平等に、あの世という「救い」は、存在しているのだと、思います」

 そう言って、晨玲は懐から経を取り出し、読誦をはじめた。
 たとえ、人ではなくても、あの世に導く経典はちゃんとあるのだ。
 短い経を唱え終わって、目を開けると、傍らには呆然と晨玲を見入っている天清の姿があった。
 先程から、彼は晨玲をやけに注視している。

(何? 私、道士試験でもされているの?)

 それとも、最後まで付き合わせてしまったことを怒っているのだろうか?

「えーと。では、滞りなく、終わりましたので、解散ということで。宦官長には宜しくお伝え頂けると」
「今、君の読経が終わるのと同時に、この辺り一帯が光って視えた。……君は、とても綺麗だった」
「はっ?」

 唐突に告げられて、晨玲はたじろいだ。
 道士でもないのに、彼は一体、何を目撃したのか?

「お褒め頂き、光栄です」
「ああ、いや。また変なことを言って、申し訳ない」

 天清も自分の言動を顧みたのだろう。バツが悪そうに顎を擦っていたが、やがて意を決したように口を開いた。

「晨玲の実力、確かに見届けた。だから、君を見込んで話しておきたいことがある」
「話しておきたい……こと?」

 また、面倒なことになってしまった。
 ――結構です。……なんて、宦官の偉そうな人に、言えるはずもなく。

「何でしょう?」

 怯えているくせに、晨玲は何故か、先を促してしまうのだ。

「後宮の穢れを祓って欲しいというのは、本来の目的ではないんだ。……本当はね、晨玲。皇帝は……度々自分の首を締めにやって来る妃の霊を、君に祓って欲しいんだよ」
「ん?」

 ――それって。

(浄化ではなくて、浄霊だよね?)

 晨玲は真っ先に、素人って怖いとしか思えなくなっていた。
◇◆
――死神皇帝。
 皇子時代に、皇太子であった兄の死から始まり、即位してからも、後宮入りしたばかりの皇后候補だった妃二人を立て続けに亡くしてしまった、呪われた皇帝。
 地方領主をしていた頃に、異民族との戦いで大勢人を殺していて、皇帝に即位するにあたっては、邪魔者の実弟を半殺しにして辺境送りにしたなど、恐ろしい逸話を山程持っている。
 しかし、一方で地方領主時代から、次々と打ち出した政策は功を奏していて、外交も得意。仕事の出来る皇帝という印象も抱かれていた。

(実際、会う訳でもないし、私には無関係と思っていたのに)

 そんな謎ばかりの皇帝でも、鳳国で一番偉い方なのだから、国を代表する道士がついているはずだ。
 それなのに、天清は、国家の冠婚葬祭の取り仕切るは出来るが、霊を祓うことは門外漢だと言うのだ。

(そんな莫迦な)

 霊が視えない晨玲だが、悪いモノは感じることが出来る。
 後宮なんて、空恐ろしい場所で、あまり悪いものを感じないのは、晨玲より前に、誰かが定期的に浄化をしていたからだ。
 反論したかったが、天清が覚悟を決めて話してくれたのに、頭ごなしに否定することなんて、晨玲には出来なかった。

「そういうことで、これは重要機密だから、未泉も他言無用よ」

 部屋に戻った晨玲は、未泉には話しておこうと、掃除を終えて寝支度をしていた彼を捕まえて、今までで一番の早口で、天清から聞いたことを喋った。
 一通り話し終えて、更に自分の見解も含めて、話し出そうとしたら、未泉は「もういい」と、晨玲の話を拒否したのだった。

「つまり、こういうことだろう? 度々、皇帝の枕元に、最初に亡くなったお妃様がやって来て、首を絞めていく。……で、後宮全体を祓えば、マシになるのではないかと、宦官長が晨玲に依頼したのだ……と?」
「そうね。……そういうことになるかしら?」
「それって、依頼内容の偽り。契約不履行に当たらないか?」

(うーん。まあ、そうなるわよね)

 しかし、天清の独特の圧力に流されて、簡単に「浄霊依頼」を請け負ってしまった晨玲は強がることしか出来ない。

「確かに、突き詰めてみると、そういうことになるわ。けど、場の浄化から、妃の浄霊へと、やりがいのある仕事に進化したと思えば」
「どうせ、上手く丸め込まれたんだろう? 師匠同様、お人好しにも程がある」

 師匠というのは、晨玲の叔父のことだ。
 普段、叔父のことを、お人好しで困ると愚痴っているのは、晨玲の方なのだが、自分もそうだと指摘されると、辛かった。

「仕方ないでしょ。相手は皇帝。断れないわよ。それに、陛下のお立場は盤石ではなくて、誰かに話して、弱みを握られたくなかったらしいし。鳳国の民として、黙っていられないわ」
「あんたが、莫迦なだけだ」

 図星すぎて、心が痛い。

「晨玲……さ。陛下を救うことが目的だっていうなら、この辺一帯、いくら浄化したって意味なんてないぞ。相手は「怨霊」だ。大体、亡くなった妃の死因だって、本当に病死なのかどうか? 首を絞められるほど、恨まれるなんて、皇帝がよほど、えげつないことをしていたとしか思えないんだけど? 事と次第によっては、こちらも甚大な被害を受けることになるんだぞ」

 未泉は、真面目に怒っているようだった。
 無理もない。
 恨みを残して死んだ者を相手にするということは、その人の生涯と、道士がきちんと向き合っている必要があるのだ。
 生前の人格。死因を正確に知っておかなければ、浄霊方法の選択も間違えて、かえって大変なことになる。
 皇帝が情報を出し惜しみしていた時点で、信頼関係が破綻してしまったのなら、何か理由でもつけて、引き受けない方が良いのだ。
 しかし、晨玲は引き受けてしまった。
 成り行きで押し付けられてしまったのかもしれないけれど、道士としての血が滾ったのは、事実だ。

「でもね。私、視えないけど、お妃様の声は聞きたいのよ」
「はっ?」

 案の定、未泉の呆然とした声が響いた。

「だって、凄いと思わない? 皇帝なんて、この国で一番守護されている御方なのよ。その御方の首を、お妃様は絞めに通っている。……とんでもない執念だわ」
「分かった。うん、分かっていたよ。あんたがまともじゃないってことはな」

 はあっと、盛大な溜息を吐いてから、未泉は話を本題に戻した。

「でもな、そもそも、その天清という宦官が怪しいじゃないか? 何で急にあんたの前に沸いてきたんだ。浄霊ともなると、皇帝とも、会う必要が出て来る。宦官長の権限を使ったとしても、そう簡単に会えやしないぞ」
「ああ、それなら、大丈夫。天清様が仰っていたわ。まず、三夫人のお一人、黄貴妃様に目通りできるよう、働きかけてくれるって」
「有り得ない」

 未泉が晨玲を睨んでいた。

「あんた、その宦官に、からかわれたんだよ。三夫人だって雲上人だ。一宦官の権限の及ぶ範囲ではない」
「うん、まあ、それもそうね。確かに、そうかもしれないけど」

 否定が出来ない。未泉の言うことも、もっともなのだ。

「晨玲。今日は休め。あんた、疲れているんだよ」
「そう……ね。先走り過ぎたかしら?」

 もし、天清の話したことが本当だったとしても、さすがに明日実行することは不可能だ。

(眠って、頭を冷やそう)

 ――が、そんな暢気な考えは、見事に覆されることになる。

 ――翌日。
 普段通り、晨玲は未泉と共に、朝一番で、浄化の儀式を後宮の廟で行い、部屋に戻って来たところで……。

(こう)貴妃さまが、お待ちでございます」

 すっきりした高髻(こうけい)に華美な衣装を纏った女官が、晨玲達を待ち構えていたのだ。

「はっ?」

 さすがに、普段暢気な晨玲も動揺した。
 昨日の今日でお呼びが掛かるとは……。
 一瞬、女官は偽者かと疑ってしまったものの、鬱金色の衣は、黄貴妃の女官でなければ身に付けることが出来ないので、本物に間違いない。
 見るからに、仕事が出来そうな隙のない所作をしている女官は、愛想はなかったが、晨玲に対する態度は丁重そのものだった。
 そして、支度する間もなく、晨玲と未泉は、女官に先導されて、黄貴妃のもとに向かう羽目になったのだ。

「嘘でしょ。どうして、黄貴妃様があんな人を呼ぶのよ?」
「どんな取り入り方したの?」

 途中、四方から、殺気溢れる声がこだましていたが、その時の晨玲の気分は爽快だった。

(はははっ。ざまあ見なさい)

 意気揚々に、女官の後ろに続き、三夫人の起居している朱雀宮に足を踏み入れる。
 神様大好きな晨玲は、歴史的芸術作品も好物だ。宮殿内部に入れることを、楽しみにしていたのだが……。
 ……しかし。
 そこで、晨玲は急に怖気づいてしまった。

(どうして、私、こんな場違いな処に来てしまったのかしら)

 ……宮殿が、豪華すぎた。

 日頃、鴛鴦池から遠目に眺めてはいたものの、明らかに、今まで目にしてきた後宮の殿舎とは規模が違っている。
 豪快に金を使った光り輝く宮。
 特に、黄貴妃が暮らしている仁嘉(じんか)殿は、姓の「黄」からだろう、黄系の鮮やかな色が使われていて、目が痛くなるほど派手だった。
 皇帝が即位する前に、後宮の正一品、三夫人の住まう宮殿を、移転して建て直したのだと、小耳に挟んではいたが、まさか、これほどまでとは……。
 絶対に、庶民の晨玲が出入りしてはいけない、異世界。
 身の丈に合わない仕事だ。

(こんなに煌びやかな宮殿で、立て続けにお妃様が身罷れるなんて……)

 見た目だけでは分からない、闇があるのか……。

 ――そういえば。

(この宮殿の配置って?)

 ふと、晨玲は気付いたことがあった。

「ねえ、未泉」

 だが、それを指摘しようとした瞬間、晨玲の背筋に寒気が走った。

(何、この気配?)

 目を凝らすと、遥か前方から、濃緑の長裙を上手にさばきながら、こちらにやって来る人影を発見した。
 後ろに大勢の女官を引き連れているのは、先頭にいる女性が高位であることを示している。

(もしかして、あの人、こっちに来る?)

 やはり、正面で鉢合わせしてしまったら、叩頭しなければならないのだろうか?
 長く道士の仕事をしているせいか、晨玲は異様な空気を感じる瞬間がある。
 今回もそれだった。
 未泉も晨玲に目配せしているので、彼なりに感じるものがあるのだろう。

(まさか、あの人が黄貴妃ではないよね?)

 もし、黄貴妃だとしたら、晨玲は後ろを向いて、全速力で逃げてしまいたいのだが……。

「大丈夫ですよ」
「へっ?」

 晨玲の動揺を見抜いたのだろう。
 女官はきっぱり言った。

「あの方は、皇太后陛下です。貴妃様ではありません」
「そうなのですか」

 ――皇太后。

(確か、亡くなった先の皇太子の母君)

 現在の死神皇帝にとっては血の繋がりはないものの、義母ということになる。

「こちらにいらっしゃるのは、珍しいことですが、貴妃様に御用があったのでしょう。心配せずとも、こちらには来ません」
「そうですか」

 半信半疑で返事だけしたものの、彼女の言う通りだった。
 皇太后は晨玲と会うことはなく、廊下を曲がって横に行ってしまった。
 何処か、寄り道するところがあるというのだろうか?

「さっ、晨玲様。こちらに……」

 それから廊下を更に直進して、やっと到着したのは、ここが玉座の間だと言われても納得してしまいそうな圧倒的に広い一室だった。
 その奥の長椅子の右端で、気怠そうに座っている華美な格好の女性と、左端で腕を組んでいる男性の姿。

「ん?」

 ――男性?
 見覚えのある姿に、晨玲は目を瞬かせた。
 先日と装いが異なり、今日は真っ赤な裳裾を身に着けていて、髪も綺麗に束ねているが、しかし、晨玲が彼の顔を見間違えるはずがない。
 麗しの天女のような、容貌のその人は……。

「天清様!」
「何だって?」

 反射的に、素の声で驚いたのは、未泉だった。

「くくくっ」

 途端、遠慮のない、派手な笑声が静謐な室内に響き渡った。
 大笑いしているのは、天清ではない。女性の方だ。
 下がれと、その女性が命じるだけで、空気のように侍っていた女官達が、散っていったので、やはり、この色気溢れる女性の正体は、三夫人の一人、黄貴妃だろう。
 ――では?
 背後に悠然と佇んでいるその人は、誰なのか?
 女性は目尻に浮かんだ涙を拭いながら、言った。 

「ああ、面白いな。さっきまで、皇太后が来ていたせいで、陰鬱な気持ちになっていたが、一気に吹き飛んだよ。晨玲とその愛らしい侍女のおかげだ」
「黄貴妃……様?」
「ああ、私は黄貴妃。名は明蘭(めいらん)。……で、こっちが、私の言葉を信じず、嘘が嘘を呼んで、更に面倒なことになってしまった憐れな男。霄風(しょうふう)だ」
「霄……風様」

 ――鳳 霄風。

 その御名を知らない人間は、少なくとも、後宮内にはいないはずだ。
 晨玲の眼前まで出てきた天清は、記憶通りの優しい微笑を浮かべていたが、昨夜とは、口調が異なっていた。

「改めて、謝罪するよ。黎 晨玲。私は天清ではない。昨日は咄嗟に、君が反応しやすい偽名を騙ってしまっただけで。本当の名は霄風。世間では「死神皇帝」とか呼ばれている、憐れな皇帝だよ」
◇◆
(私ったら、何たることを)

 ――皇帝陛下に、埋葬の為の穴掘りをさせてしまったなんて……。

 謝らなければと、気は焦るのだが、晨玲が口を挟む隙は一切与えられず、それから、二人からの謝罪と説明が始まってしまった。
 思考が追いつかない頭で、やっと理解したことは、晨玲に目をつけていたのは、宦官長ではなく、明蘭だったということだ。

 ――亡くなった妃の霊を、あの世にちゃんと送って欲しい。

 そのように、晨玲に頼むつもりだったが、霄風に相談したら、却下された為、それならばと「後宮の浄化」という形で、宦官長に命じて晨玲を後宮に招いたらしい。
 しかし、早々に霄風にバレてしまい(当然だが)、能力のない道士なら追い返すと、言われて……。

「……で、貴方の実力を測るための試用期間が設けられたって訳だ。貴方のことなのに、貴方を置き去りにしてしまい、本当に申し訳ない」
「いえ、私も陛下に、土掘りを手伝って頂いてしまったので」
「それは、いいんだ。私が勝手にしたことなんだから」
「あの……もしや、後宮の廟で感じた気配って?」
「ああ、気づいていたのか。道士がどんなふうに拝むのか気になって、見学させてもらったんだ。昨日、会った時、私が取り憑かれていることに、君は気づいていなかったから、少し疑ってしまったけど、でも、あの読経は素晴らしかった。……君なら、上手く解決の糸口を探してくれると思い直したんだ」

 誉めてもらったことは嬉しいのだが、引っかかったことがあった。

(解決の糸口って、何?)

 霄風は、言葉を濁している。
 本当は晨玲のことなど、信用してないのではないか?
 妃の霊の存在が分からなかったのは、霄風が心に壁を作っているか、もしくは、そもそも霊なんて憑いていないのか……。
 いずれかの可能性が高い。

(断った方が良いよね)

 信頼関係がなければ、怨霊を冥府に導くことは無理だ。
 けれど、断るにしても、皇帝相手に、どう断れば良いのか?

「陛下、恐れ多いことかと思いますが、一つ、確認したいのです。宜しいですか?」
「何?」

 微笑しているけど、霄風の本音は分からなかった。
 だけど、こちらも死活問題だ。答えてもらわなければ困る。
 未泉も目で晨玲に同意している。彼も同じ気持ちなのだ。

「お妃様についてです。聞いた話によりますと、お二人共、死因は病死、事故死とのことですが、間違いないですよね?」
「要するに、君は私が妃を殺したのではないかと?」
「滅相もない! そういう意味ではなくて」

 しまった。訊き方を間違えたか。

(殺される?)

 晨玲は、ひやひやしながら、言葉を重ねた。

「ただ、お答え如何では、我々も浄霊方法を変えなければなりませんので……」
「くくくっ」

 ――と、突如、笑い出したのは、またしても、明蘭だった。
 皇帝の御前だというのに、彼女は長椅子の脇息に凭れて、退屈そうにしていた。

「いいね。気骨のある娘さんじゃないか。霄風。答えてやれよ。殺すも何も、妃なんて、ほとんど会ったこともないってさ」
「明蘭。……お前」

 まるで、酔っぱらいの野次のような、気安い口調に、霄風は呆れながら、口を開いた。

「分かったよ。君を信じて、正直に話す」

 そして、渋々話し始めたのだ。

「晨玲。高位の妃選びに関しては、皇太后の意向が強く働いているんだよ。皇太后と私は血縁がない。病死した最初の妃も、事故で亡くなった妃も、皇太后の縁者なんだ。確かに、皇太后には力があって、後ろ盾のいない私に拒否権もなかったけど、まあ、うっかり近寄って、寝首を掻かれたくないな……って、警戒していたね。だから、妃の顔は一回見た程度なんだ」
「つまり……。妃には情もなく、陛下には殺す動機がある……と」

(あっ)

 ――やってしまった。

 何か適当に、言い繕わないと。
 ……が、青くなる晨玲の肩を、霄風はぽんと軽く叩いた。

「言われてみれば、そうかも。君の言う通りだ。でも、私は彼女達の死因を徹底的に調べて、病死と事故死と断定したんだよ」
「二人共、知っているとは思うけど……」

 霄風の言葉を引き継ぐように、明蘭が語り出した。

「最初の妃は文 夕李(せつり)。文淑妃と呼ばれていた。流感をこじらせて、亡くなってしまった。そして次の妃は索 香雨(こうう)。索徳妃だ。彼女は朱雀宮の鴛鴦池に落ちて、水死した。他殺や自殺、様々に調べたけれど、この死因で間違いない。それでも、何事か起こっているかもしれない後宮の内情を鑑みて、大将軍の娘で、幼馴染の私が後宮の重石になるべく召集されたわけだよ」

 ――と、意気揚々に言い放つと、黄貴妃は剣で切りかかる素振りを見せて、長椅子から立ち上がった。
 そういえば、豪奢な梔子色の衣を纏ってはいるものの、髪は動きやすそうに一つに括っていて、動きも素早かった。

(武闘派のお妃様ということかしら)

「……と、そういうわけで」

 霄風は明蘭を無視して、さっさと話を進める。

「明蘭を上手く後宮入りさせて内情を探らせようと思ったんだけど……。その頃に、私の寝所に、夕李が来るようになってね。明蘭は、その手のことに関しては、てんで駄目だから。口が堅くて、皇太后の色に染まってない人を外部から招くという話になって、推挙されたのが、君だった」
「私を……黄貴妃様が?」
「ああ、私が貴方を霄風に勧めたんだ」
「そうだったのですか」

 未泉が何とも言えない表情で、晨玲を眺めている。

(分かっているわよ。私だって、そんな活躍をした記憶なんかないわよ)

 霄風も晨玲の怪訝な様子に気づいたのだろう。

「不安そうだね。晨玲?」

 心配そうに、顔色を窺っている。
 当然だ。不安しかない。

「こういった形の浄霊は、初めてなので」
「やりたくない?」
「ま、まさか。そんなことは……」
「勿論、嘘を吐いていた手前、報酬は弾むつもりだよ。私の権限で、皇城の廟の見学も許可するつもりだ。……だから」
「皇城の廟」

(それは、つまり……)

 ――皇帝権限で皇城廟を見て回ることが出来る……と。

 ごくり、晨玲は息をのんだ。

(何という、胸の熱くなる企画)

 生きていて良かった。天子様、万歳だ。

「承知しました。私如き、市井の烏道士の力が、どこまで及ぶかは分かりませんが、これも三清が導いて下さったご縁。出来る限りのことをさせて頂きます」
「やっぱり、莫迦だったな」

 隣で未泉が呟いていたが、仕方ない。
 大体、この状況で他の選択肢なんてないのだ。

(昨夜、陛下に土を掘らせた罰とかで、処刑されてもおかしくないのよ)

 今の霄風は穏やかだが、正体は「死神皇帝」だ。
 縁者が立て続けに亡くなってしまったことに対しての「死神」という意味もあるが、気に入らない者に、容赦なく死を与える冷酷さに対する畏怖も、その渾名には込められている。機嫌を損ねたら、終わりだ。

「それで、晨玲。浄霊に必要なものはある? 用意するけど」
「えー……と」

 本音を言えば、必要としているのは、霄風の心だ。

(もう少し、私達に心を開いて貰えたら)

 信頼関係が構築出来ていれば、霄風を通じて妃を呼び出すことは簡単だ。
 けれど、今のこの距離感では、その手は使えないだろう。かえって、致命傷になりかねない。

(やっぱり、お妃様から攻めた方が良いのでしょうね)

「陛下のお心遣い、感謝致します。道具は足りているのですが、重要なのは「場」でして。まずは病死した文淑妃の部屋を見せては頂けないでしょうか?」
 
 晨玲は、道士の仕事に集中するべく、頭を切り替えていた。
◇◆
 索 香雨が事故で亡くなった池は、すぐ見に行くことが出来たが、最初の妃、文 夕李の部屋に関しては、難航した。
 理由は明白だった。
 その部屋は既に、新たな文淑妃。夕李の妹である朱瑛(しゅえい)が使用していたからだ。
 先日、明蘭のもとを訪れていた皇太后は、朱瑛の体調が芳しくないという話をしていったらしい。
 ――もっとも。

(陛下は隠れていたらしいけれど……)

『どうせ、私が隠れていたことなんて、あの人にはバレているんだ。その上で、見舞いに来いと唆している。逆に、何の罠だろうって怖いよね?』

 そんなことを、おどけて話していたが、目は笑っていなかった。
 だけど、皆に恐れられている死神皇帝が、皇太后を避けているというのも、変な話だ。

「やはり、陛下の仰っているとおり、索徳妃は不慮の事故の可能性が高いみたいね」

 七日後、吉日の早朝、人払いをして、索徳妃が亡くなった鴛鴦池の辺に造られた東屋で、晨玲は慰魂の儀を行ったのだが、特に何も感じなかった。
 良からぬものの場合、多少、感じるものだが、それが一切ない。
 何も感じない場合、死者は冥府に旅立った可能性が高い……と、叔父である師匠は教えてくれた。
 未泉も分からないと話していたし、きっと、実家で懇ろに弔われて、あの世に逝ってしまったのだろう。

「索徳妃様に関しては、思ったより、早く結果が出たわね。やはり、一刻も早くこの件を解決して、廟に来いと、神様が私を呼んでいるのかしら?」
「いや……。俺は益々面倒になっていると思うんだが」

 朱雀宮では、男であることを隠すため、殊更、口数を少なくしている未泉だったが、さすがに黙っていられなかったらしい。語調が厳しかった。

「未泉は悲観主義者ね」
「現実主義者だと言ってくれ。大体、毎日のように、あんたの処に陛下が通って来るんだぞ。しかも、何か楽しそうだし」
「それは、信頼関係を築くために、私が陛下にお願いしたことで……」
「その割に、あんたもまんざらではなさそうだぞ?」

 ――確かに。

(少し、私も楽しんでいるのかもしれないけど。でも、これは仕事だし)

 霄風は激務の合間を縫って、毎日、晨玲のもとにやって来る。
 仕事の進捗状況の確認と夕李の出現状況が主な話題だが、晨玲の趣味の話にも、霄風は付き合ってくれた。
 元々、晨玲の鳳国神話好きは半端ではなく、話題の分かる人はごく少数しかいないのだが、そこはさすがこの国の皇帝。霄風は神話についても博学だし、先祖のことだからか、晨玲の知らない知識まで持っているようだった。
 これほどまでに話せる同士はいないと、晨玲は喜んでいたが、未泉は別の意図を感じているらしい。
 たとえば、晨玲を気に入っているのではないか……とか。

(……て、余計なこと考えてどうするのよ)

 晨玲は頭を横に振って、真顔を作った。

「陛下は仕事がやりやすいよう、私と信頼関係を築いて下さってるのよ。だから、いち早く、陛下の期待に応えて、私は皇城廟巡りに行かなければ」
「結局、それかよ」

 祭壇の撤収作業をしながら、未泉が欠伸をしていた。

「あんたの好奇心には、危険という概念はないのかね? ……いや、あんただけじゃないな。俺以外、皆、おかしいんだよな」 
「失礼な。私はともかく、陛下だって、明蘭様だって……」

 ――と、そこまで言いかけてから、晨玲は自分の目を擦った。
 鴛鴦池の東屋。
 少し高台に造られたその場所付近から、索徳妃は足を滑らせて、池に落下し、溺死した。
 今日は見晴らしが良かったが、この場所はよく霧が発生するそうだ。
 霧の影響で、索徳妃は誤って池に落ちたのではないか……と、耳にしていたが。

(確か、あれって文淑妃の住まいよね?)

 ――暁和(ぎょうわ)殿。
 おぼろげに見えている豪奢な殿舎。
 期待されて後宮入りをした文淑妃は、鴛鴦池の南西の畔に、広大な暁和殿を用意された。

(生前、文淑妃と索徳妃は交流があったらしいし。妹の朱瑛様が入宮したのは、索徳妃が亡くなった後だったわね)

 視力が抜群に良かったら、もう少し何かを感じることも出来るのかもしれないが……。

「うーん。もしかしたら、索徳妃は、視てしまったのかもしれないわね?」
「文淑妃を……か? それで驚いて、足を踏み外して、池に落下。そんなこと……」

 即座に否定しようとしてから、未泉は頭を横に振った。

「いや、有り得ないわけでもないか」

 理不尽な死は、間々あることだ。
 けれど、索淑妃は、今生に恨みなく、あの世に逝くことが出来た。
 それが、せめてもの救いだった。
 陰鬱な空気が立ち込める中、背後から肩を叩かれて……。

「うわ!?」

 晨玲は、腹の底から叫んでしまった。
 怯えきっている晨玲を前に、すっかり青ざめてしまったのは、霄風の方だった。

「あっ、いや……。今のは、私が悪かった。驚かせたね」
「幽霊は怖くないですが、背後に立たれるのは怖いです」
「嫌だな。いくら何でも、突然、殺しになんて来ないよ」

 満面の笑みで言い返されたが、逆に問いたかった。
 ――突然でなければ、良いのか?

「朝早くから、二人共、ありがとう。……で、何か感じるものはあったかな?」

 後ろで控えている大勢の宦官に、下がるよう顎で命じながら、霄風が問いかけてきた。

「特に何も起こらず、感じないので、冥府に逝かれたのだと」
「そうか」
「陛下のところは、大丈夫でしたか?」
「ああ、君の持たせてくれた御守りのおかげで、夕李も落ち着いてくれているみたいだよ」

 効果があったみたいで、良かった。
 晨玲が身に着けている道士専用の万能御守りを、霄風には手渡していたのだ。

「ですが、陛下。一時的に凌いでいるだけなので、文淑妃様の件は、必ず、どうにかしないといけません」
「そうだね。その件に関してだけど、これから、文淑妃の部屋に行くことが出来そうだよ。それをすぐに、私の口から晨玲に伝えたくてね」
「急転直下ですね」

 驚いたのだろう。珍しく、霄風の御前で未泉が喋った。

「ああ、君達のおかげだ」
「はっ?」

 どうして、そうなるのか?
 しかし、霄風は平然と、恐ろしいことを口走ったのだ。

「先日、君たちの部屋に烏の死骸を置いた女官を捕まえてね。誰の指示でこんなことをしているのかと、問い質してみたんだ。ほら、彼女達は君たちが朱雀宮で明蘭に会った後も、嫌がらせをやめなかったでしょう」

 ――まあ、それは霄風が来訪した時に、話の延長でさらっと触れたことはあったけれど。
 別に、復讐してくれと頼んだわけではない。

「さすがに、やりすぎかな。黒幕がいるって、確信していたんだよ」

 結果的に話して良かったのか否か、分からないまま、しかし、晨玲は訊かずにはいられなかった。

「黒幕って、まさか?」
「そうだ、朱瑛。今の文淑妃。彼女がやらせていたんだ」
「なぜ、またそんなことを?」
「彼女、道士が嫌いみたいでね。夕李の葬礼をした道士がいけすかない輩だったらしい。……彼女は誰に吹き込まれたのか、夕李が死んだのは、私が殺したんだと思いこんでいる。姉のことが好きだったんだろうね。……酷く、錯乱していた」
「陛下自ら取り調べられたのですね?」

 疲労感たっぷりに、霄風が語ったので、同情よりも、恐怖の方が勝ってしまった。

 ――一体、どんな尋問をしたのだろう?

「全部私が招いたことだから、責任は取ろうと思ったんだ。朱瑛に関しては私が考えなければならないことだけど、女官に関しては君に一任しても良い。生かしてはいるけれど、君達が望むのなら……」
「いやいや。望みませんよ。何も」
「そう? それなら良いけれど。正直、そういうことだから、夕李が化けて出て来るのは、朱瑛が仕掛けた可能性が高い。彼女から聞き出せば、浄霊も必要ないのかなって思ったのだけど」
「うーん。否定も出来ませんが、肯定もできませんね」

 姉の復讐のため、朱瑛が霄風に呪いを掛けた?
 辻褄は合っている。
 けれど、素人が容易に呪術など出来ない。それこそ、背後に呪術師がいるはずだ。

(道士が嫌いなのに、呪術師に頼るものなのかしら?)

 しかも、皇帝の命を脅かすような呪術を、皇城で行ったのなら、霄風や後宮内に、何らかの痕跡が残るはずだ。
 ――けれど、その気配を、晨玲も未泉も、一切感じない。

『はい、仕事終了。お疲れ様』という顔を、未泉がしている。
 まだ未解決だと分かっているのに、彼が撤収しようとしているのは、この仕事が自分達には荷が重いと考えているからだ。
 適当に言い訳を作って逃げて、皇帝から再度お呼びがかかったら、呪術に特化した道士を紹介すれば良い。

(でも、それだと……)

 晨玲は、夕李を見捨てることになる。
 皇城霊廟巡りは、どうするのか?
 悶々としている晨玲焚き付けるように、霄風が魔性の笑みを浮かべていた。

「ああ、でも、晨玲は文淑妃の部屋を見に行った方が良いかもしれないな」
「何かあるのですか?」
「ああ。生前、夕李が拝んでいた、神画があった。君はそういうの好きなんじゃないかな?」
「神画……ですって?」
「あれは、創生神話に出て来る気性の荒い女神で……」
「旭日三宝神女!」
「ああ、そう。それ」

 古い女神で、最近はあまり信仰されていない。滅多にお目に掛かれない、お宝ではないか?

 ――これは、是か非でも行かなければならなくなってしまった。

「ああ、何たること。神様が、私をお呼びだわ」
「鳳国の神画が好きなだけだろう。誤解を招く言い方をするな」

(ふふふっ。未泉め、好きなだけ暴言を吐きなさいな)

 この際、どんな罵詈雑言を浴びようと、晨玲は構わなかった。
 小走りで、暁和殿に向かう。
 忙しい霄風は、きっと誰かに後事を任せて、政務に戻るだろうと思っていたのだが……。
 霄風は、さも当然のように、晨玲たちの後について来た。

「あの、陛下。この手の物を鑑賞したら、私、正気を保てるか分かりません。また醜態を晒す前に、どうか、政務に戻って……」
「なぜ? 君が熱狂している姿は、とても可愛いじゃないか」

 ――今、この方は、とんでもないことを口走らなかったか?

「可愛い? 私が?」
「陛下、ちゃんとお休みになられた方が宜しいかと思います」

 すかさず、未泉が的確に突っ込んだ。

「いや、嘘じゃないんだけど?」

 霄風は真顔で答えながら、池に面した文姉妹の居室に、自ら案内してくれた。
 取り調べ中で、朱瑛は別の場所にいるため、部屋の中は無人だ。

(神様は何処?)

 ご神物は、南の方角に向けて、静謐な場所に祀るという決まりがある。
 豪華な調度品にも目をくれず、寝室の最奥に飾られた神画を目にして、晨玲は小踊りしそうになった。

「わあ、素晴らしい! さすが、文淑妃様。後宮に相応しい、逞しい女神の御姿です」

 蒼天を示唆している真っ青な背景に、格調高い丹色。中央の蓮台に坐している八臂の女神。この女神が拝まれた時代は、戦国の世だった。だから、八臂にそれぞれ古代の武器を持っている。当時は、戦に勝てるような激しい気性の神が好まれたのだ。
 ――しかし。

「これは……」

 暫くして、晨玲は目頭を揉みながら、下を向いた。

「陛下。この神画は、夕李様がお持ちしたものということで、宜しいですか?」
「えっ?」

 突然の質問に当惑しながら、霄風は真摯に答えた。

「ああ。それは分からないけど。彼女の存命時から、ここにあったことは確認しているよ」
「あまり、長時間ここにいない方が良いです」
「どうして?」

 霄風が、小首を傾げている。

「何だ、珍しいな。あんたがそんなことを言うなんて?」

 未泉も怪訝そうだが、心配している様子だった。
 ――話すと長くなる。
 晨玲は、両手で顔を覆いながら、ゆるゆると振り返った。

「陛下。私は、どうしても陛下のご寝所に行かなければならないようです」
「はっ?」

 その一言には、語弊があったらしい。
 霄風の耳朶が、微かに赤くなっていた。
◇◆
 本来、内廷の深奥にある皇帝の寝宮は、立ち入り禁止だ。
 後継を生み出す為の後宮とは違う。
 神にも等しい皇帝の聖なる寝所に、余人が入ることは出来ないのが掟だった。
 本来であれば、晨玲も掟を遵守する立場だ。
 理由があるから、そういう規則が出来たのだ。それを覆して、強行すれば、歪が生じてしまう。
 ……けれど。
 皇帝の寝所が立ち入り禁止になった理由は分かっている。
 過去の皇帝が至る場所に、女性を連れ込み、淫蕩に溺れて、政務を怠った為だ。

(それ以前は、大丈夫だったんだから、今回のことは、大目に見て貰えるはず)

 他でもない、霄風が「晨玲が寝所に侍ること」を許可したのだ。

「あの……陛下。私、説明不足だった感が否めないのですが、先程の説明で、お分かり頂けましたか?」

 ようやく寝所で落ち着いたところで、晨玲は恐る恐る尋ねてみた。
 だが、心配するまでもなく、霄風は普通で……。むしろ、はしゃいでいるようにも見えた。

「勿論だよ。晨玲、君は凄いな。神画の鑑定まで出来るんだね。あの神画が盛んに描かれた時代、使用している絵の具が、今では余り使用しない、此丹(したん)石を砕いたもので、有毒な成分が含まれているんでしょう?」
「ええ。そうなんです。当時は騒ぎになったらしく、多くの神画家が命を落としたと聞きました。あの神画は、祀る場所に要注意なんです」

 神画鑑賞をしていると、画材や歴史に詳しくなる。
 此丹石は、神画好きにとっては有名な鉱石だった。

「君は夕李の死因は、病ではないと?」
「今となっては分かりません。ですが、徐々に御身体が弱っていったのは、事実。此丹石の粉末は、精神にも影響を与えるというので、朱瑛様もおそらく……」
「成程。それで、君は裏があると思って、直接、夕李と対峙するべく、私の寝所に来たんだね?」
「ええ。夕李様の御魂は、陛下が眠る時でないと出て来ないようなので。それに、お妃様の性格も何となく分かりましたし、今の私と陛下の関係なら、或いは……と思い」
「それ、どういう意味?」
「つまり……」

 言えない。
 「浄霊するにしても、今までは互いに信頼関係がなさすぎた」なんて。
 晨玲は逡巡の挙句、すべてをすっ飛ばして結論だけ述べた。

「私には、疾しい気持ちは一切なく、陛下にも、きっと信じて頂けているということです」
「はっ?」
「断じて、陛下の御寝所を、見学したいという下心など、ないのです」
「正直だよね、君」

 霄風が寝台の上で胡坐を掻いたまま、屈託なく笑った。

(気まずい)

 下ろし髪に、寝間着姿の皇帝という、多分、残りの生涯かけても、お目に掛かれないだろう、寛いだ御姿を前に、晨玲の緊張感は膨れ上がっていた。

(私、早まった?)

 また勢いで、事を進めてしまった。
 晨玲は霄風から離れた場所で、小さく正座をしていた。
 未泉は廊下で待機をしているが、今、この空間は完全に二人きりなのだ。

(何だか陛下の寝所、狭いし)

 もう少し、広かったら、こんなに意識せずに済んだだろうに……。
 霄風の寝室は、明蘭の仁霞殿の一室より狭かった。
 多分、皇帝の寝牀が巨大すぎるからだろう。
 外国から伝わったとされる天蓋付きの寝台。
 柱の龍の意匠と、枕辺の聖地な鳳凰の彫刻は見るからに、芸術的価値が高そうだった。
 仄暗い、燭台の灯の下ではなく、出来ることなら、昼間見たかった。
 ……いやいや。
 下心はないと、霄風に宣言したばかりではないか……。

「そういうことなので、普段の怨霊除けとは逆に、夕李様の御魂が来訪しやすい、場を作りました。霊は常の条件を好むということなので、陛下には、是非お休みになって頂きたく……」
「しかし、寝ろと言われて、眠れるほど、私も寝つきは良くないしね」
「では、眠ったふりで、構いませんので。ひとまず……」
「君との貴重な時間を寝て過ごすのは、勿体ないよ」
「まったく、勿体なくないです」

 困った。霄風が、駄々を捏ねているようにしか思えなくなってしまった。

「陛下。私、とても気になっていたのですが、この機に訊いても宜しいですか?」
「どうぞ」
「陛下は、あまり浄霊に積極的ではないですよね?」

(ああ、訊いてしまった)

 けれど、晨玲は霄風の真意を、明らかにしておきたかったのだ。
 予想通り、霄風はあっさり首肯した。

「そうだね。別に、祓うまでもないかなって」
「どうしてですか?」
「私は死神皇帝の異名通り、今まで、大勢の人を手に掛けてきた。それなのに、殺した相手は化けて来ないで、一回会った程度の妃が私の首を絞めにやって来る。……なかなか、面白いじゃないか」
「それは、おそらく、お妃様が特別で、何らかの要因が発動しているせいか……と」
「まあ、仮に呪いというものがあって、夕李の霊が利用されているとしても、それに殺されるとしたら、私の悪運もそこまでということではないか……とか」

(何。それ?)

 どこまで、悲観的なのだろう。
 未泉と良い勝負ではないか?

「駄目ですよ。そんなこと仰ったら、明蘭様が悲しみます」
「君はアレを見て、分からない? 彼女と私は、兄弟みたいなもの。私がヘマをしたら、嘲笑されるだけさ」
「そうでしょうか?」

 とても、仲良さそうに見えたのだが……。
 けれど、霄風は眉間に皺を寄せて頭を横に振り続けている。心底嫌そうだった。

「君に誤解されたくないから、言っておくけど、明蘭の想い人は、私の弟なんだよ」
「えっ? 今、地方にいらっしゃる……弟君?」
「巷では、私が半殺しにしたとか、言われているらしいけど」

 死神陛下の逆鱗に触れて、地方に左遷されたと言われている皇子。
 殺されなかっただけマシだと、皆が噂していた。

(真実は、違っていたのね)

「便宜上は、弟を左遷したということにしている。何より、皇太后が死んだ兄と瓜二つの弟を溺愛していてね。このまま私の傍に居続けたら、おかしな勢力に担ぎ出されるだろうって心配して、地方に飛ばしたんだ。もう少し都が落ち着いたら、呼び戻すつもりでいる」
「……私、思ったのですけど」
「何?」
「もしや、陛下は、いずれ皇位を弟君に譲ろうとお考えになっている……とかじゃないですよね? だから、後宮にも、無関心で?」
「………」
「あっ」

 瞬間、霄風の眉が吊りあがったので、晨玲は人生の終わりを感じ取っていた。

(ああ、さっき大丈夫だったから、今度もイケるだろうって、甘い考えだった)

 ――殺られる。

 自分に対する葬礼のつもりで、両手を合わせたら、怪訝な表情の霄風に見咎められた。

「晨玲。間違っても、私は君を処刑なんてしないからね」
「失礼しました。私、調子に乗って踏込みすぎました」
「いいよ。まだ、どうなるか分からないし、それが事実でも、君は言い触らさないだろうから」
「当然ですよ」

 晨玲が断言すると、霄風はまた声を上げて笑った。

(ああ、どうして)

 この人が笑ってくれると、晨玲は嬉しいのだ。
 それは、皇帝だからという訳ではなくて……。
 やはり、天女様のような御顔をしているからなのだろうか?

「陛下。先日、私が話したこと覚えていますか?」
「えっ?」
「たとえ、他人から罵られたり、殺されそうになって、呪われたりしても、自分なりに、こつこつやっていれば、必ず道は開ける。私も未熟ですが、長くやっていけば、大勢の人に認めてもらえる日が来ると……信じて……信じたいです。だって、それしかないんですから」
「晨玲?」
「万民が陛下の治世で良かったと、心の底からひれ伏す日が訪れるはずですよ」
「何? 私、君に励まされているのかな?」
「いや、そこまで、私は何も考えていませんけど」
「だろうね。実に君らしい。でも、私は励まされたよ。有難う、晨玲。悔しいけど、明蘭が君を推挙してくれて良かったと思う」

 そう言って、霄風は懐から、ぼろぼろの四角い小さな巾着を取り出した。

「えっ? 嘘!?」

 思いがけない事態に、晨玲は不敬と知りつつ、寝台にいる霄風のもとに、走り寄ってしまった。

「私が作った……御守り」

 奇跡? 因縁? こんな現実があって良いのか?
 廃棄寸前の古布を繋ぎ合わせて、家計のために大量生産した「それ」を、この国で一番偉い人が持っている。
 神降ろしの儀もしたし、御守りとしての体裁は為しているが、だからといって、皇帝に渡るように作ったものではなかった。

「晨玲はずっと疑問だったでしょう。何で自分が今回の件で推挙されたのかって。理由はこれ。私が地方にいた頃、争いがあってね、私を庇って死んだ者が首からぶら下げていたんだよ。これを……」
「それって「御守り」になっていませんよね?」

 守るためのものなのに、持ち主が死んでしまっては意味がない。
 だが、霄風は御守りの中身に入っていた神体を取り出して、晨玲に披露した。

「良縁成就」

 蚯蚓が走る様な頼りない字で書かれている。
 文字を覚えたばかりの晨玲が書いたもので、相違なかった。

「良縁守りだからね。身体を守るのに特化していなかったのかもしれないし、あの者も、長く持ち歩いていたらしいから。御守りの有効期間が過ぎていたのかもしれない」
「一応、効果は一年を謳っていますし、その字からして、私が子供の頃、作った物でしょうから、効力も消えていたかもしれませんが、何か複雑な心境です」
「まあ、でも、結果的に私は救われたんだ。これを作った君を、明蘭が後宮に招きたいと言い出した時、私は抵抗したけれど、でも、君は初めて話した時、どんな存在にもあの世という「救い」はあるのだと言った。私はその言葉にも、救われたんだ」
「陛下」

 じんと、心の奥が震えた。
 救われたと、感謝してくれているということは、刹那的な考えを改めてくれるということか?
 それなら、良かった。本当に……。
 ――だから。

「有難うございます。でも、陛下。近過ぎます」
「バレたか」

 霄風が舌打ちしたのは、晨玲をからかっているからだ。

(こういうところ、陛下は悪趣味なのよね)

 もう少しで、顔と顔がくっつきそうだった。

「話し過ぎてしまいました。こんな状態では、夕李様が出て来られません。どうか、陛下は私に構わず、早くお休みに……」
「いっそのこと、二人で寝る? そしたら、夕李も驚いて出て来るかもしれない……なんて」

 霄風は、ぽつり呟いてから、直ぐ様、自分で言葉を打ち消した。

「いや、そんなはずないよね。妃にも君にも失礼な物言いだった。申し訳ない」

 爽やかな謝罪をして、綺麗に流そうとしている。……けど。

(そうよね)

 その一言が、晨玲に火をつけた。

(夕李様を誘き寄せるには、むしろ、刺激があった方が良いかも?)

 晨玲という異物に、夕李が警戒しているのなら、いっそ、非日常的な光景を盛り立てた方が、姿も現しやすいかもしれない。
 ――夕李を煽るのだ。

「陛下。それ、良いかもしれません。是非、御一緒させて下さい」
「はっ?」

 目を白黒させながら、石のように硬直してしまった霄風を置き去りにして、晨玲は「失礼します」と、寝台に乗った。

「あれ? ご就寝なさらないのですか?」
「目が冴えすぎて、どうしようと思っているところだよ」
「それは、困りましたね」

 ――刺激。
 駄目だ。この程度では。
 晨玲が何をしたら、夕李の霊が出てきてくれるだろう?

「……でしたら、ご無礼かとは思いますが、暫し我慢を」

 晨玲は中腰になると、突如、霄風に飛びかかった。

「うわっ」
「さあ、文淑妃……夕李様! 早く現れて下さい。さもないと、陛下が私に、とんでもないことをされてしまいますよ!」

 霄風から漂う、ふわりと良い香りに、酩酊しそうになってしまったが、変に意識をしてはいけない。これは仕事なのだ。

「ここまでしても、駄目……か」

 晨玲は周囲の様子を慎重に窺うが、一切変化がなかった。

「手強いですね」
「ねえ、晨玲、とんでもないことって?」
「そうですね。陛下からも、私を抱きしめて下さい。こう、ぎゅっーと……です」
「ぎゅっー……と?」
「ぐわっ」

 突然、力強く抱きしめられて、晨玲は目を回した。
 男性の力を侮っていた。これでは痛いくらいだ。

「ま、待って下さい。苦し……。もう少しお手柔らかに」
「酷いな。煽るだけ煽って、それはないよね?」

 一体、霄風は何を言っているのだろう。
 意味が分からないまま、晨玲は霄風から首筋から耳を撫でられ、流れるように、寝台へと押し倒されてしまった。

「何をされているのです? 陛下」
「君が私と、とんでもないことをするって、宣言したんじゃないか?」

 晨玲の髪を一房取って、霄風が艶っぽく微笑む。
 とんでもない色気だ。
 だけど、違う。
 今、そんなものに見惚れている暇はないのだ。

「それどころじゃないんです。陛下。感じませんか? 多分、後ろです」
「後ろ?」
「晨玲、来たぞ!」
「なっ?」

 霄風が振り返るのと、未泉が衛兵と共に、飛び込んできたのは、ほぼ同時だった。

「……夕李」

 霄風が目を剥いている。
 夕李の姿が、しっかり霄風には視えているのだ。
 やはり、神の血を引く皇帝。元々、霊感が強いのだ。

「夕李様。どうか、話して下さい。今、この瞬間に陛下を盗られたと、私を恨んだのなら、それても良いのです。貴方の気持ちを、私にぶつけて下さい!」

 晨玲は懐から数珠を取り出して、彼女のいる方向に突き出した。

『……るしい。ここから……出して!』

 晨玲がその姿を視ることは出来なかったが、確かに、若い女性の啜り泣く声と、そんな言葉が聞こえたような気がした。
◇◆
 今まで、無言で首を絞めるだけだった夕李が、初めて喋ったのだと、霄風は話していた。
 晨玲の策が、夕李を奮い立たせたのだと、自慢げに語ったら、関係ないと、未泉に一蹴されてしまったが……。
 霄風が聞いた言葉と、晨玲が嗅いだ湿った土の臭い。そして、未泉が感じた息苦しさ。
 今までの経験と知識を活かして、晨玲が導き出した答えは、夕李の埋葬状況に、障りがあるのではないか……ということだった。
 直ぐ様、霄風に、文家に人を遣って調べてもらったところ、葬礼の作法からして、間違っていたようだ。
 三清の神画と、あの世の司神を祀った祭壇側に、死者は頭を向けて安置するのが作法なのだが、よりにもよって、祭壇側に夕李の足を向けさせた。
 文夫妻は信頼できる道士が葬礼を執り行っているからと、疑ってもいなかったようだが、家人はその時から、嫌な予感を覚えていたらしい。
 そして、極めつけは、埋葬方法。
 なぜか死者が安寧できない方角の湿った土地に、夕李を埋めたのだ。
 掘り返してみたら、棺の中から、霄風に対する呪詛物も出てきて、文家全体が大騒ぎになってしまったらしい。
 彼女の意思でもないのに、どうにも出来ず、繋がっている空間は、霄風のもとしかないので、行くしかない。
 夕李は霄風を恨んでいた訳ではなく、晨玲に嫉妬した訳でもなかった。
 他に、自分の苦しさを訴える方法がなかっただけ。

 ……葬礼を行った道士に操られていたのだ。

「腹立つな。それだけのことをやらかしているのに、主犯の皇太后を咎めることが出来ないなんて」
「皇太后様と繋がっていた道士は、自死したそうよ。それに、「旭日三宝神女」の神画も、皇太后様は確かに夕李様に譲ったけれど、此丹石の効果なんて知らなかったって、言い逃れされたみたい。大方、夕李様が陛下に殺されたって、朱瑛様に吹きこんだのも、皇太后様なのでしょうけど、その証拠は何も残っていないって、明蘭様が……。こうなって来ると、索徳妃様の件も、分からないわね」
「……だな。呪術で陛下のもとにしか行けない文淑妃が暁和殿に現れるはずがない。事故なのか、事故に見せかけて殺されたのか。まったく、自分の遠縁の娘を後宮入りさせたのに、死に誘うような真似をして、何がしたいんだ?」

 生前の夕李と香雨は、気の合う友人だった。

 ――皇后の手足になって働くことを、二人して拒否したのではないか?

 後宮は皇太后が本懐を遂げるための道具だ。
 最終的に、壊すために創っている。
 新しく移転したという、朱雀宮の配置は、南西の鬼が出入りする方角のど真ん中だった。
 皇太后はどうしても、霄風を皇帝に留めておきたくないらしい。

(陛下の、胸の内も知らずに)

 ……愚かだ。けど、生者を裁く力は、道士にはないのだ。

「幽霊なんかより、恐ろしい魔物が潜んでいる場所だよな。後宮って」
「ええ。だけど、私達は今日でお別れ。これからは、陛下と明蘭様が良い方向に導いてくれるわよ」
「他人事」
「あら、道士として出来る限りのことはするわよ。盛大に追悼と浄化の儀式をするんだから」

 今日は、後宮生活最終日。約束の一カ月目だ。
 丁度吉日だったこともあって、最後の仕上げに、二人の妃の追悼と、後宮全体の浄化の儀式を執り行うつもりだった。
 霄風には伝えてあるし、祭壇の準備も整っている。
 晨玲は浅黄色の長裙の上に、烏色の羽織を引っ掛けて、後宮を闊歩した。
 烏道士の正装だ。
 見習いの未泉は灰色だが、襆頭まで被っていて、晨玲以上にやる気のようだった。
 穢れを意味する黒色は、後宮内では好まれない。……でも。

(仕事着を羽織って、何が悪いのよ)

 これで最後だ。
 何を言われたところで、構わない。
 今回の儀式には、文淑妃……処分保留中の朱瑛と、皇太后も招いていた。

(お二人の妃の想い、皇太后にも伝わるようにしてみせる)

 背筋を伸ばして、自信を持って歩けば、未だに陰口をたたいている、女官達も呆気にとられて、晨玲達に道を譲った。
 前回、索徳妃を弔った同じ場所に設置した祭壇を目指していると……。

「ん?」

 鴛鴦池の東屋近くで、晨玲は華やかな衣を重そうに纏った、百合髻の少女の姿を見つけた。
 彼女が朱瑛と分かったのは、仮釈放中で大勢の宦官に囲まれていたことと、特徴的な朱色の帯を確認したからだ。
 真紅は皇帝のみが身につけることの出来る禁色だが、朱色は文家の象徴のような色であった。
 少女の稚さが色濃く、本音を隠すことを知らない彼女は、晨玲に気づいて、あからさまに顔を背けた。

「文淑妃様でございますね」
「……」

 大嫌いな道士と、口も利きたくないらしい。
 朱瑛はむっつり黙り込んでいたが、周囲の視線に促されて、嫌々口を開いた。

「お前が、陛下を謀った烏道士。稀代の悪女ね?」
「えっ、ああ、悪女。今までにない罵られ方で新鮮です」
「は?」

 朱瑛の大きな目が見開かれている間に、晨玲は自分の用件を滑り込ませた。

「私は、これから夕李様の為の儀式を執り行います。お辛いでしょうが、私は夕李様を苦しめた道士とは違う。必ず、想いを汲んで送らせて頂きますから」
「何……を?」
「お姉様のこと、見届けて下さいね」
「おい、晨玲」

 未泉に捕まった晨玲は、慌てて拱手をして、朱瑛のもとを去った。

「見てみろ」

 促されるまま、池の向かい側を眺める。
 暁和殿に、人だかりが出来ていた。

「成程」

 あそこに皇太后がいる。
 ――晨玲を、試しているのだ。

「やってやろうじゃない」

 正直、ここまで大勢の人を集めて、儀式を行うつもりなんてなかった。
 鬱憤晴らしと言わんばかりに、飛び交う野次と罵倒の声。
 怪しい。そうだろう。晨玲だって、分かっている。
 けれど、日取りも時間も今が吉なのだ。
 これを逃したら、当分できやしないし、皇城の廟にいつまでも、辿り着けない。

「さあ、始めるわよ」

 晨玲の大好きな神話の神々の御名を唱えるところから、儀式が始まった。
 分厚い経文を滞りなく、唱えるには、どんなに省略しても昼過ぎまでは掛かる。
 晨玲は丁寧に読経するので、特に時間が掛かるのだ。

(亡くなった二人のお妃様を慰め、冥府に導き、神を降ろしてから、場を綺麗にして頂く。私に出来るのは、祈ることだけ)

 霊験あらたかな経は、万人に癒しをもたらす。
 長い儀式中、集中しきっている晨玲を見て、誰もがその神秘性に息をのんだ。

 ――晨玲には、神が降りている。

 そう評したのは、晨玲の叔父だった。
 
「……敵わないな」

 晨玲の補助をしていた未泉が、小声で呟いた。
 長丁場の儀式を終えた晨玲が、経典を閉じた途端、鴛鴦池には特大の虹が架かった。
 この感じなら、ちゃんと送り出すことが出来たのだろう。

「精一杯、祈らせて頂きましたよ。夕李様、香雨様」

 晨玲は祭壇に一礼して、気持ちを切り替えてから、後ろを振り返った。
 静まり返る妃嬪、女官、宦官。何とも言えない表情で、皆、晨玲を凝視している。
 この隙に、さよならと手を振って、颯爽と後宮を去るところまでが、晨玲の脳内の台本だった。

 ――しかし。

「見事だった。晨玲」

 何処からともなく、登場したのは、本日も天女の如く美しい霄風だった。

(何で、陛下がここにいるの?)

 一瞬、宦官としてお忍びで見学に来ていたのではないかと、淡い期待もしたが、絶対にそうではない。
 本日の霄風は、頼んでもいないのに皇帝の正装をしていた。

「どうされましたか? へい……。うっ」

 拱手か叩頭か迷っているうちに、晨玲は突如、霄風に抱き締められてしまった。

「な、何?」
「私には、夕李と香雨が確と視えた。感動したよ。我が妃」
「……妃?」

 なぜ、その肩書きを、注目を浴びる場で、わざわざ言うのか?
 大体、晨玲の妃生活は、今日で終了のはずなのだが……。
 即座に振り払おうとしたものの、相手は皇帝だ。抵抗するだけ無駄だと諦めるしかなかった。
 それを良いことに、霄風は色惚け気味に熱く語ってみせたのだった。

「褒美として、正一品。三夫人の位を、黎 晨玲に与える。今の儀式を見た者であれば、異論はないだろう。烏道士如きなど、誰にも言わせやしない」
「はっ?」

 ――三夫人?
 莫迦な。晨玲には異論しかないのだが……。

「ああ、私は賛成だよ」

 またしても、何処からやって来たのか、ふらりと明蘭が現れて、挙手した。

「貴方であれば、皇帝が死にかかっても、冥府から奪い返してくれそうだ。妃として後宮入りして貰って良かった」

 まるで、二人が打ち合わせしたかのような会話。
 もしかして、いや、もしかしなくても……。

(嵌められた? 私)

 ここで、晨玲を妃として迎えたことを喧伝してしまえば、後日、誰かに反対されても、既成事実で逃げ切ることができる。

(いや、待って)

 そもそも、最初から妃として後宮に入れと言われた時点で、おかしかったではないか?

「やっぱり、そうじゃないかって気がしていたんだよな」

 未泉が両手を合わせて、晨玲を拝んでいた。

(嫌だ。まだ死んでないわよ。私)

 だけど、このまま流されたら、今後の生存率は著しく下がってしまいそうだ。

「陛下。私には烏道士の御役目と、皇城の廟巡りが待っているのです」
「本当に君はぶれないよね。そういうところ好きなんだけど」

 断ったつもりが、かえって愛の告白をされている。
 そうして、霄風は晨玲の耳朶に耳を寄せて、囁いたのだった。

「私は君が気に入った。今まで妃なんて娶るつもりはなかったけど、君となら、どんなことがあっても、一緒に生きていけそうだから。……本音だからね」
「陛下」

 かあっと頬が熱くなる。
 だけど、きっと、これは霄風の天女効果に違いない。
 
「じゃあ、晨玲。一つ賭けをしようか。今から三カ月。この間に君が私を好いてくれたら、ちゃんと夫婦になる。でも、無理だと思ったら、君を手放してあげる。君についている健気な従者君も、今回は特別に後宮滞在を認めよう。どう?」

(……健気な従者君って)

 完全に霄風は、未泉が男であることに気づいている。
 晨玲は、脅されているのか?

「手放すって、この世から手放すとかですかね?」
「君だけは、殺さないって誓ったじゃないか」
「出来れば、その誓いをもっと大人数にして下さいね。恨みは買わないことが一番。浄霊する方の身にもなって下さい」
「何だ、浄霊を頑張るくらい、私の傍にいてくれるのか」
「その発想自体が、危険でして」

 いまだに混乱状態で目を回している晨玲を、霄風は強く抱擁した。
 悲鳴と歓声が轟いているが、さすが皇帝。黙殺するのが上手い。

「知ってる? 君が私の寵妃となれば、鳳王族の太廟への出入りは自由だ。正一品の妃でいる間は、好きなだけ入り浸ることができる。皇城の廟と合わせて、どうかな?」
「……皇城の廟と太廟」

 ごくりと、晨玲の喉が鳴った。
 鳳国の皇帝一族の廟。
 素晴らしい神像と神図、圧巻の祭壇が待っている。

(絶対に太廟だけは無理だって、諦めていたのよ。これを逃したら、私、一生後悔するかも)

 晨玲の現実的思考は、「太廟」の一言で、見事に霧散してしまった。

「三カ月……ですよね?」
「ああ、三カ月。少し延長する程度だと思えばいい」
「そうですよね。たかだか、三カ月だもの」
「うん。でも、逃す気はないけどね」
「えっ?」

 何だか、良く聞こえなかった。
 未泉が特大の溜息を吐いて、明蘭は、暁和殿の方を一瞥してから、密やかに微笑した。
 二人の現実を知らない者達は、その日「ケガレ」と忌み嫌われていた烏道士の娘が、正一品の三夫人の位に昇格したという、有り得ない夢物語を目の当たりにして、大いに盛り上がったのだった。

【完】

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