◇◆
「ここの連中は、最低だな。もういっそ、後宮にいるのは、仕事の為だって暴露しちまえよ」
「それは出来ないわ。お妃様が亡くなって、印象最悪な後宮だもの。私のような者が、浄化に来たなんてことが公になれば、益々、みんな怖がるでしょ。大体、暴露したところで、嫌がらせはやまないだろうし」
「まあ。かえって酷くなる可能性もあるか」
「そうよ。今日で、折り返しまで来たんだから。嫌なことは、忘れましょう」

 晨玲には未泉と、耳が遠くなった年嵩の侍女がもう一人いる。
 その侍女に来訪者がいたかどうか尋ねてみたが、誰もいなかったらしい。
 ――ということは、窓からか?

「開けっ放しにしていたのが、不用心だったのかしらね」

 八角形の小さな小窓。
 格子もあるし、出入りはできないだろうから、窓の外から放ったのだろう。
 いずれにしても、面倒この上ないのは事実だった。
 晨玲は手袋をはめると、冷たくなった烏の骸を抱き上げ、部屋の外に出た。

「元々、死んでいたんだろうけど、それにしても、死を道具にするとは……」
「待って。それ埋葬するんだろう? 俺も一緒に」
「いいの。未泉。私が弔うわ。貴方は部屋の方を清めて頂戴」
「分かった」

 こういう時、素直なのが未泉の良いところだ。
 晨玲は、一人になりたかったのだ。
 怒っていないかと問われれば、怒っていると答えるだろう。
 それくらい、腹は立っている。

(私、最下層の妃で良かったわ)

 晨玲には、上級の妃には得られない、自由がある。
 後宮の妃の数は、三十人近く。女官はその三倍以上。皇帝は即位して間もないため、これでも少ない方だ。
 下手に宮殿なんて割り振られた日には、大変だっただろう。
 烏一匹、埋葬するにも大勢の人に断る必要も出てきたはずだ。
 とりあえず、ふらりと外に出たら、目の前に手つかずの自然が広がっているのは、ありがたかった。

(ここが良いかしら)

 晨玲は、死骸を横に置いて、目についた大木の下を、素手で掘り返し始めた。

「ああ、もう、信じられない。いくら私が烏道士だからって、烏の亡骸を置いていくなんて、酷すぎる!」

 復讐なんてするつもりもないが、怒りを口に出さずにはいられない。

(私を追い出したら、満足なの? 違うでしょう)

 最下層妃を苛めて、何の利になる?
 後宮入りしなくても、普通に仕事をしているだけで、晨玲は今まで、様々な人に見下されてきた。
 しかし、今回は死に関する仕事をしているからこそ、吐き気を覚えるのだ。

「こんな魔物の巣窟。神祇廟がなければ、とっくに出て行ってやるのに」

 硬い土を、犬が両足で掘り返すか如く、がつがつ掘り返す。
 こんな場面を、誰かに見られた日には、妃どころか、また魔物だとか言われてしまうかもしれない。

(ああ、駄目ね。落ち着け。……私)

 現実を思い出して、手を止めようとした、矢先、背後から腕を掴まれた。

「駄目だよ。そんなに、激しく素手で土を掘ったら、指が傷ついてしまう」
「えっ?」

 その声、腕の力も、子供の未泉のものではなかった。
 晨玲がハッとなって、周囲を見渡すと、すっかり日は暮れていて、自分の傍らには長身の綺麗な人がいた。

「泣いていたの?」
「違います。私は」

 戸惑っていると、更に距離を詰めてきたので、晨玲は身構えながらも、その人を凝視してしまった。
 澄んだ黒い双眸に、整った目鼻立ち。艶々の黒髪。
 まるで、女性のような柔和な顔つきをしていた。年齢は、晨玲より少し年上だと思うが、年下と言われても、納得するくらい不詳だ。
 だらりとした長衣は、後宮で一度も見たことがない寛いだ格好で、廟で焚かれていた香が、ふわりと晨玲の鼻腔を擽った。
 彼の周囲にだけ後光が差しているかのような、圧倒的な存在感があった。

(なに、この方……)

 ――まるで。

(聖雲天女様のようだわ)

「天女様」
「へっ?」
「大変、美しいご尊顔をされています」

 晨玲の暴走は、唖然とする彼を置き去りにして、止まらなかった。

「貴方は、聖雲天女様の生まれ変わり? 奇跡だわ。このような処に、天女様が降りていらっしゃるとは。眼福、垂涎ものです。有難うございます。私などのために」
「えーっと。よく分からないけれど、絶対、違うと思うな」
「違う?」

 即座に否定されると、晨玲もさすがに冷静になった。

「あっ、では、宦官の方でしょうか? ちなみに、私は下っ端妃の黎 晨玲と申します」

 名乗り忘れていたことに、今更気づいた晨玲は、丁重に拱手した。

「下っ端って」

 そうか、名乗り方を間違えたか。後宮での位は確か……。
 しかし、彼は説明を加えようとしている晨玲を遮って、笑った。

「もう、いいよ。下っ端妃さん」

 何がおかしいのか分からないが、彼にとっては面白いらしい。

「そうだね。宦官長に命じられて、君の様子を見に来たんだ。私の名は……。天清(てんせい)と呼ばれているかな?」

 まるで今、とってつけて考えたかのような間があったが、晨玲は気にならなかった。
 ――そんなことより。

「天……清様と、おっしゃるのですね」

 ――奇跡(二回目)。
 晨玲は、すっかり感激してしまった。

「天清。それは「三神の一」。太玉(たいぎょく)天尊の別名ではないですか。なんと素晴らしい御名を、お持ちなのでしょう!」
「あははっ。本当に、君は面白い人だね?」
「ええ。よく言われます。そうですね。太玉天尊ならば、金慧山の大廟に祀られている特大神像が有名……だとか。えっ?」
「……腕」
「あっ」

 晨玲は興奮のあまり、彼の腕を取って、揺すっていたらしい。

「これはまた、大変な御無礼を」

 恥ずかしい。

(普段、私だって、ここまで変な行動は取らないのだけど……)

 後宮入りする前は、師匠である叔父に話して、時に議論したりして、愉しむことが出来ていたのだが、ここに来てから、誰とも神様談義が出来ずに、相当な鬱憤が溜まっていたようだ。

「申し訳ありません。しかも、埋葬の為の穴掘りをしているところなんて、大変御見苦しいものを、お見せしてしまい……」
「いや、私の方こそ、突然すまない。ずっと君を見ていて。つい……出て来てしまったんだ。わざわざ、烏なんて埋葬しなくても良いのにって」

 彼の鋭い視線が、烏の亡骸に注がれている。
 宦官長からということは、晨玲の仕事も理解しているはずだ。

「ああ、本当に駄目ですね。私」
「何が?」
「早く弔ってあげようと思っていたのに、神様の話を聞くと、つい舞い上がってしまって」
「いや、私はそういうことを言ったのではなくて」
「いえ」

 晨玲は天清の言葉を制止して、己の頬を叩いて気合を入れた。

「私は道士です。埋葬方法を知っているのに、無視するわけにはいきません」

 罪悪感に苛まれながら、晨玲は再び穴を掘り出した。

「しかし、晨玲。苛めのやり口が酷いと思うんだ。毎日の悪口に、水を掛けられ、石も投げられ、花瓶も落とされたとか……」
「まあ、天清様は、情報収集能力が素晴らしいのですね。よくご存知で」
「基本放置だったんだけど、今回ばかりは、私にも非があるから」
「ん?」

 それは、どういうことかと問い質そうとしたら、彼は慌てて、晨玲の穴掘りを手伝い始めた。

「あっ、いや、後宮内の風紀の乱れは、私の責任だと、宦官長に叱られてね」
「そうでしたか」

 叔父の元に訪れた壮年の宦官長は、ぼうっとしていて、何を考えているのか分からないような人だったが、実はやり手だったらしい。

「だから、君にも謝らなくては……。晨玲。君は仕事で後宮まで来てくれたのに、私のせいで、こんな目に遭わせてしまった」
「いえ、そんな。確かに、烏の命を、私を脅かすための道具に使ったことは、怒っています。ですが、烏の亡骸を利用するくらい、追い込まれているのかと思うと、少し不憫でもあります」
「犯人が?」

 天清が、首を傾げている。

「変ですか?」
「いや、私が変なのかもしれないけど」

 一瞬、垣間見た彼の横顔がぞっとするほど、冷ややかだったので、やっぱり彼は天女さまとは違うのだと、ようやく晨玲も悟った。

(犯人見つけたら、この人、殺る気?)

 場の浄化なんて、晨玲でなくても、道士であれば、出来る仕事だ。
 わざわざ「妃」として、晨玲を入宮させた本来の目的は、後宮内の粛清だとしたら?
 けれど、そんな目的のために、晨玲を巻き込むのは勘弁して欲しかった。

(ここは、とにかく、煙に撒いて逃げるしかないわね)

 ようやく掘り進めた穴深くに、烏を埋葬して、一度手を合わせてから、晨玲は早口で言った。

「ああ、でも、天清様。私、別に後宮でなくとも、このような中傷は日常茶飯事なので、慣れているのですよ」
「そうなの?」

 今までの険しい顔から一転、天清は意外そうにこちらを見遣った。

「はい。それは、もう。女の烏道士っていうだけで、犯罪者だから、葬礼の仕事をしているのだとか。遺体から肝を取って、荒稼ぎしているとか……。もう、笑えるくらい。そりゃあ、確かに、道士の稼ぎは少ないですよ。副業に、御守り作って売り歩いたくらいですから。でも、私は望んでこの仕事に就いた訳ですから」

 晨玲は口角を上げて、ぐっと拳に力を入れる。

「死はどんなものにも、平等に訪れます。亡くなった魂を、冥府に導くことは、誰かがやらなければならないお役目です。それに、地道に仕事をしていると、皆さん、私のような小娘にも親しみを抱いてくれて、慶事に関しても依頼してくれるのですよ。だから、私は大丈夫なのです」
「……君は」

 暗がりの中、天清の瞳が大きく見開かれていた。

(ああ、また、私、引かれてしまったのね)

 今のような自分語りは、未泉ならば、三回以上舌打ちをされている。

「と、そういうことで、私、烏を葬送しますね」
「烏にも、あの世ってあるのかな?」
「……さあ」
「えっ?」

 天清が顔を引き攣らせていたが、本音なので仕方ない。

「私、死んだことがないので。あるかどうかまで、断定できません。道士とはいえ、霊が視えるわけじゃないのです」
「そう……なの」
「でも、どんな生き物にも、平等に、あの世という「救い」は、存在しているのだと、思います」

 そう言って、晨玲は懐から経を取り出し、読誦をはじめた。
 たとえ、人ではなくても、あの世に導く経典はちゃんとあるのだ。
 短い経を唱え終わって、目を開けると、傍らには呆然と晨玲を見入っている天清の姿があった。
 先程から、彼は晨玲をやけに注視している。

(何? 私、道士試験でもされているの?)

 それとも、最後まで付き合わせてしまったことを怒っているのだろうか?

「えーと。では、滞りなく、終わりましたので、解散ということで。宦官長には宜しくお伝え頂けると」
「今、君の読経が終わるのと同時に、この辺り一帯が光って視えた。……君は、とても綺麗だった」
「はっ?」

 唐突に告げられて、晨玲はたじろいだ。
 道士でもないのに、彼は一体、何を目撃したのか?

「お褒め頂き、光栄です」
「ああ、いや。また変なことを言って、申し訳ない」

 天清も自分の言動を顧みたのだろう。バツが悪そうに顎を擦っていたが、やがて意を決したように口を開いた。

「晨玲の実力、確かに見届けた。だから、君を見込んで話しておきたいことがある」
「話しておきたい……こと?」

 また、面倒なことになってしまった。
 ――結構です。……なんて、宦官の偉そうな人に、言えるはずもなく。

「何でしょう?」

 怯えているくせに、晨玲は何故か、先を促してしまうのだ。

「後宮の穢れを祓って欲しいというのは、本来の目的ではないんだ。……本当はね、晨玲。皇帝は……度々自分の首を締めにやって来る妃の霊を、君に祓って欲しいんだよ」
「ん?」

 ――それって。

(浄化ではなくて、浄霊だよね?)

 晨玲は真っ先に、素人って怖いとしか思えなくなっていた。