◇◆
「ほら、またケガレが歩いているわよ」
「何であんな身分の人が、後宮入り出来たのかしら?」

(皆さん、今日も元気なこと)

 もう何回、聞いただろう。
 まだ今日は石を投げられたり、物を上から落とされたり、水を掛けられないだけ、マシだ。
 明け透けな後宮の女官達の陰口を背に受けつつ、そのケガレた妃、() 晨玲(しんれい)は、今日も最下層妃が身に着ける浅黄色の長裙に四苦八苦しながら、神祇廟に挨拶に向かっていた。
 自分の悪口を聞くのが好きな人間はいない。
 けれど、廟に挨拶に向かわないのは、道士として失格だ。

 ――烏道士(からすどうし)

 それが、晨玲の仕事である。
 両親を喪った晨玲が頼った叔父は、代々道士を継いでいて、その手助けをしているうちに、晨玲もそれを生業にするようになった。
 この国の道士は、大きく二種類に分類される。
 正道士(せいどうし)は、救生儀礼、吉日の儀式を中心に活動していて、烏道士は、主に葬礼儀式、悪鬼追放を行っている。
 烏道士は、正道士の行っている「祝いの儀」も執り行うことが出来るが、大抵、依頼者が拒否するので、積極的には行っていない。
 死は「穢れ」。
 そのケガレに関しての仕事に従事している者は、過去、法を犯した罪人くらいだと差別されていた。
 そんな身の上の晨玲が、ハレの象徴でもある皇帝の妃として、たとえ末端だったとしても、入宮すること自体、嫌悪感を抱かれても仕方ないのかもしれない。
 もっとも、晨玲とて自分が「烏道士」であることは、隠し通すつもりだったし、一応、宦官長の勧める人物を後見として、正式な手続きを踏んだ上で、後宮入りしたわけだが。

(市井で、手広く葬礼をやっていたから、早々にバレちゃったのよね)

 覚悟をしていたとはいえ、肩身が狭かった。

(けど、まあ期間限定だから)

 別に蔑まれようが、嫌がらせされようが、もう暫くの辛抱だ。
 本当は短期間だって、女の負の感情が渦巻く後宮なんかに、入宮するつもりはなかったのだが……。
 渋々でも、晨玲が入宮する決意をしたのは、他ならぬこの国……。(ほう)の後宮の廟に出入りできるという、特権の為だった。

 ――神祇(しんぎ)廟。
 後宮の象徴ともいえる広大な鴛鴦(えんおう)池の真北に、鮮やかな朱と金の装飾で建てられた凰国古代の神を祀る廟は、晨玲が知っている、どんな廟よりも豪奢で、歴史的価値の高いものだ。
 晨玲は慇懃に大きな門の前で一礼すると、踊りだしたい衝動を抑え、内部に入っていった。
 真紅の祭壇は、女神を祀っているだけあって、美しく、華やかだ。長い年月、様々な念も溜まって、だいぶ陰の気が濃くなっているような気もするが、丹念に清めていけば、問題ないはずだ。
 無人なのを確認してから、晨玲は目を潤ませ、喋り倒した。

「ああ。なんと猛々しく、優美な三神の画。そして、聖雲(せいうん)天女様の麗しき像。つくづく後宮ってとんでもない場所だわ」

 薄暗い祭壇の背後に、この国の守護神たる古の偉大なる皇帝、三柱の神画。
 そして、中央には初代皇帝の妃であったとされる聖雲天女様の、翡翠で造られた神像。
 金色の香炉から広がる馥郁たる香りと、揺らめく蝋燭の灯。

「生きてて良かった。これで、朝餉を三度はお代わりできる」
「気色悪っ」
「嫌だ。居たの? 未泉(みせん)
「一応、あんたの侍女という設定だからな」

 未泉の毒のこもった突っ込みで、晨玲も我に返った。
 晨玲の腰くらいの身長しかない未泉は、十三歳。まだ成長途中で声変わりもしていない子供だが、晨玲の仕事の立派な助手だ。
 叔父が心配してつけてくれた道士見習いの子なのだが、道士の成り手は男が多く、未泉も少年だったりする。
 皇帝と宦官以外、男子禁制の後宮で、これが露見したら、死罪かもしれないが……。

(でも、これも一時的なこと。見た目は女官にしか見えないし、誰にもバレなければ大丈夫よね)
 ――ただ。

「まったく、寝ても覚めても、神像やら、神図やら、祭壇の配置にドキドキするとか。馬鹿げている」

 とてつもなく未泉は、口が悪いのだ。
 それが後々、足を引っ張らなければ良いのだが……。

「あら、私は別に熱心な神様信者というわけではないのよ。学術的に貴重な神様達の御姿を愛でて、喜んでいるの。勿体ないわね。未泉は道士になろうっていうのに、この荘厳な雰囲気の良さが分からないなんて」
「さっぱり分からんね。俺は自立したくて、道士を目指しているだけだから。そんなことより、この廟にいるだけで、ここが呪われるとか、陰口叩かれるんだから、とっとと仕事して、出たほうが良いぞ」

 ――後宮の穢れを祓って欲しい。

 それが、晨玲の仕事内容だった。
 半月前、後宮の宦官長が、叔父を通して、晨玲を名指しで依頼してきたのだ。
 庶民の晨玲でも、依頼の切実さは察知することが出来た。
 新皇帝が即位して、後宮に妃を迎えてから三カ月。
 この短い間に、二人の妃が立て続けに亡くなっている。
 それでなくても、この皇帝は、皇子の時代から、身近な人物が続けて亡くなったりするので、あらゆる人から畏れられていた。
 大方、風評被害一掃のために、形だけでも「浄化」をして欲しいとのことだろう。
 場所が場所だし、妃たちは皆、敏感になっているので、女道士の晨玲が指名されたというわけだ。
 ただ、晨玲にも解せなかったのは、ひとまず「後宮の妃」として入宮してからという条件だった。

(毎日、後宮に通って、浄化するだけでは駄目なの?)

 しかも、仕事ということも、他の妃嬪には伏せるよう、強く言われたのだ。
 叔父は断固反対し、晨玲も迷ったが、結局、莫大な報酬と、この機会に貴重な神様を拝めるという欲に駆られ、つい、引き受けてしまった。
 色々、不審な点はあるが、一カ月乗り切れば、報酬だけで三年は暮らせるはずだ。晨玲念願の「鳳国ぶらり神像巡り旅」も捗るだろう。

「はいはい。お仕事、頑張りますよ」

 我欲に蓋をして、晨玲は数珠を擦って、懐から取り出した経典を開いた。
 暗記はしているが、正確さを求めるのなら、きちんと活字を見て読誦した方が良い。
 いつもだったら、長い漆黒の羽織を引っ掛けた道士服を着用するのだが、ここは後宮。黒衣は良い印象を持たれないのだ。
 ひらひらした衣裳は拝みにくいが、仕方なかった。
 晨玲は朗々たる声で、三神と天女を言祝ぎ、この地の平穏を祈念した。

(このくらいの救生儀礼なら、正道士でも出来るだろうけど)

 終了直後、ぼうっと蝋燭の灯りが大きくなったような気がしたから、多少、効果はあったようだが、晨玲は、霊感は低いので、余程の怪異でないと捉えることが出来ない。

「えっ?」
「どうした?」

 ふと廟の奥で、何かが動いたような感じがしたのだが……。

「ううん。気のせいみたい」

 にこりと笑って、晨玲は、深々と祭壇に一礼した。

「さて、この調子で残り二か所、行くわよ」

 後宮の神祇廟は、全部で三か所。
 それぞれの廟の神々に頼み、場の浄化をお願いする。 
 後宮は広く、所々で邪魔も入ったりするので、休憩を挟んで、これを繰り返していると、あっという間に陽が暮れてしまう。

「とりあえず、一カ月っていう話だから、あと十五日、続けてみて、改善してもしなくても、お仕事終了よ。美味しい仕事じゃない?」
「じゃあ、あと十五日間も俺……いや、私は我慢しなきゃならんのか」

(……あらあら)

 むしろ、悪い方に思考が向いてしまったらしい。 
 未泉が仄暗い溜息を吐いている。
 彼には散々な目に遭わせてしまっているが、給料を上乗せするから、もう少しだけ付き合ってもらいたかった。

 ……でも、本当は。

(後宮の廟だけではなくて、皇城の廟とか、皇族の先祖を祀っている太廟にも入ってみたいのよね。現状、絶対無理だろうけど。……でも、二カ月くらいここにいたら?)

 ……なんて考えていたりするのだが、それを告白したら、未泉に何をされるか分からない。

 だが……。
 そんな淡い期待や甘えが通用する世界ではないことを、晨玲は殿舎に戻ったところで、思い知ったのだった。

 ――部屋の中に、烏の死骸が置いてあったのだ。