私はずっと翠君と桔梗さんに守られながら、いつでもすぐ飛び出せる距離に居た。
羅堕忌が紲さんに倒された時も。ボロボロになりながら、再び立ち上がった時も。禍々しい黒色のモヤが纏われ、他人所か羅堕忌自身も危険な状態に陥った時も。
すぐ近くで、ずっと見ていた。
だからこそ、今この時しかないと思ってパッと飛び出した。桔梗さんと翠君を振り切って、「叶架!よせ、まだだ!」と怒鳴る紲さんの制止も振り切って。
今飛び出したら、私はただじゃ済まないだろう。大怪我を負うかもしれない。
そんな考えは当然頭の中にあったし、飛び出す事の恐怖心も勿論あった。
それでも私は飛び出した。怯みそうになる心を捨てて、恐怖心に囚われた体を捨てて、私は羅堕忌の元に走った。
彼を止めようと手を伸ばしたが。黒いモヤがカマイタチの様に、ザシュザシュッと細かくて鋭い傷を次々と入れ込んで来た。まるで自分以外の全てを拒絶する様な攻撃に、私は顔を歪めてしまう。
けれど、私は進み続けた。
そして与えられる苦痛を振り切る様に手を伸ばし、禍々しい術を生み出している手に無理やり自分の手を重ね、ギュッと包み込む。
その瞬間、黒いモヤ以上の痛みが私を襲った。肌が焼けただれる程の灼熱に触れ、手が一瞬にして大火傷を負う。更に、そんな手を破る様に何かが体内に入り込み、ズキズキと内側を破壊されていく。
言葉にならない苦しみがひどく暴れ出したが。私はグッと奥歯を噛みしめ、苦痛を押し込めながら言葉を吐き出した。
「もう、止まって。そうしないと、どんどん遠のくだけだよ。羅堕忌の本当の望みが」
私は苦痛を押し込む様に唾を飲み込んでから「こんな事、本当はしたくないんでしょ」と声をかける。
「羅堕忌、貴方の望みは誰かに止めて貰う事でしょ。そしてこの憎しみから、この苦しみから解放される事。そうでしょ?」
「・・・・何を言ってやがんだ」
羅堕忌は冷淡に言葉を返すが、その語勢は酷く弱々しかった。私の中にあった疑念が「やっぱりそうだ」と、確信に変わる。
「羅堕忌、貴方は自分が見えてない」
「勝手な事を・・べらべらと」
「本当の自分が見えていたら、そんな言葉は出ないよ」
羅堕忌の言葉を遮ってズバリと指摘し、淡々と言葉を続けた。
「自分が見えなくなって、かなり長い時を過ごしてしまったんでしょ。だから無自覚に言動に矛盾が生じるし、私の言葉に戸惑いを覚えるんでしょ」
「ち、ちげぇ」
「じゃあ何故、自分以上の強さを求めていたの?最強の座に固執しているのに、どうして?最強は自分だと酔いしれる為?最強と言う冠が相応しいのは自分しか居ないと痛感する為?私にはそうは見えなかったよ」
容赦ない詰問に、羅堕忌の精神が大きく揺らぎ出す。いや、すでに崩壊している精神が別の意味で崩壊を始めたのだ。「何故」とぶつぶつと繰り返し、体が強制的に突きつけられる矛盾を拒絶する様に震える。
それでも私は口を閉ざさなかった。まだあると言う様に、ドンドンと言葉を重ねていく。
「どうして玉陽の巫女の力を持った私を手元に置こうとしているの?強い讐には必要のない力のはずなのにどうして?私達人間と違って、傷を負ってもすぐ治っていたのに。どうして玉陽の巫女の力を欲しがっているの?」
それらがどう言う意味を持った行動か、分からない?と、焦点が合わなくなった羅堕忌の真っ赤な目をまっすぐ射抜いた。
「自分を止めて欲しい、自分を楽にして欲しい。羅堕忌の行動には、ずっとその想いが根底に込められているの。無自覚に込められてしまう程、その想いは強いんだよ」
無自覚に溶け込んでしまった本心を揺さぶる様に言葉を紡ぎ、ギュッと戦い続けた拳を強く握りしめる。
「紲さんが止める、私が楽にする。だからもう動かないで」
私は「羅堕忌」と優しく名前を呼んでから、ゆっくり歩み寄り、ボロボロの体を優しく抱きしめた。
「止まれる時が来たんだから、今ここで止まろう。これ以上進むと、本当に戻れなくなるよ。もっと自分が見えなくなるし、もっと苦しみ続けなくちゃいけなくなる。だから止まろう、羅堕忌。もう、これ以上苦しみを抱える必要はないよ」
泣き喚いている子供を宥める様に、優しくトントンと背中を叩きながら告げる。
すると羅堕忌の体が急激に弛緩し、ガクンッと倒れかかってきた。体を操っていた糸が切れたのだろう。私はなだれかかってきた体をしっかりと抱きとめるが、支えるには重すぎてずるずるとしゃがみ込んでしまった。
膝枕に切り替え、倒れてしまった羅堕忌を窺うと。羅堕忌は正気を取り戻した瞳で私を映し、ぼんやりと「温けぇ」と呟いた。
「これが、この温かさが、俺様の求めていた事だった・・のか?」
長い事見えていなかった自分の声が、ようやく届いた瞬間だった。疑問符が付いているから、まだ完璧には聞こえていないのだろうけれど。
それでもずっと聞こえていなかった声なのだから、それが少しでも届いたと言う事は大きな進歩だ。
私はニコリと目を細めて「そうだよ」と答える。
すると羅堕忌はハッと鼻で笑い「こんな物をここで得ようとしていたのか」と唾棄した。
「っとに、馬鹿げてるぜぇ・・戦い以外に心を奪わる奴が死んでいく世界でよぉ。こんなもんがある訳ねぇのによぉ」
自嘲を浮かべながら告げられた言葉で、私はやっと分かる。
何故、羅堕忌がこうなってしまったのか。大きな齟齬に苛まれている苦しみにも気がつかなくなってしまったのは、どうしてか。
この魁魔の世界と言う過酷な世界が「戦いを辞める」と言う選択肢を排斥し、戦いを続ける生き方を強制していたからだ。そうしなければ死ぬと、常に眼前に突きつけていたからだ。
なんて苦しすぎる世界だろう。なんて残酷な世界だろう・・・。
「だから自分じゃ止まれなかったし、止まって良いって言う存在も居なかったんだ・・」
顔を苦悶に歪めながら吐き出すと、目の前の羅堕忌はハッと鼻で笑い、一蹴した。
「止まる必要なんざねぇからなぁ」
止まる必要がないから戦い続ける。そうして一人で戦い続けた結果が、これなんて・・。
私はキュッと唇を一文字に結んだ。
私が、羅堕忌の負う苦しみをもっと早くに見抜くべきだった。私が、もっと早くに羅堕忌を止めるべきだったんだ。
「・・・ごめん、羅堕忌」
目頭が熱くなり、視界がじわじわと歪んでいく。瞼の緩やかな湾曲を滑って、雫がポタッと羅堕忌の顔に滴り落ちた。一滴、また一滴と雨の様に落ちていく。
羅堕忌はその雫に弱々しく目を開けて「なんでだよ」と、呆れ混じりに訊いた。
「俺様に殺されかけたって啖呵切ってくる女が、なんでこんな所で泣いてんだよ」
意味分かんねぇと小馬鹿にされるが。私の涙は止まらず「だって、だって」としゃくり上げるばかりだった。
そこから先の言葉を紡ぎたくなかったから。
「生き直す時間が、羅堕忌にはもうなくなってしまったから」
あまりにも残酷な言葉だから、絶対に言葉にしたくなかった。
でも、そんな残酷な言葉しか、この現実には当てはまらない。
ボロボロと瓦解していく体が残された時間はもうない、と物語っているから。
あぁ、なんて残酷な世界なんだろう・・。
止めてくれる誰かもいない。痛みを訊いてくれる誰かもいなければ、痛みを分かち合ってくれる誰かもいない。
負の念だけを抱えて生きる事を強いられ、その道を一人で歩き続けた結果がこれだなんて。
最後の最後まで、この世界は残酷すぎる。
言葉が嗚咽の中に消えていくと、羅堕忌が唐突に口を開いた。
「こんな温けぇ光に包まれて逝くとはなぁ」
柔らかく言葉を紡ぐと、羅堕忌は小さく笑った。初めて見る、柔らかな微笑。ゾクリと総毛立つ様な冷笑ではない、温かな心が溢れた笑みだった。
「存外、悪くねぇ・・。最後の最後で闇以外の物を見られたし、こんな最期を迎えられる讐は他にいねぇだろうからよぉ」
「・・羅堕忌」
惜しむ様に彼の名前を呼ぶと、羅堕忌は手の形を留められなくなった手をゆっくりと上げ、私の頬に触れる。触れていない様で触れている手の感触に、私はしゃくり上げてから自分の手を彼の手に重ねた。
すると羅堕忌は口元を優しく綻ばせ「あぁ」と、しみじみと吐き出す。
「ようやく分かったぜぇ。俺様は、戦いのつまらなさに苦しんでいたんじゃねぇなぁ。ずっと解放されたかったんだなぁ・・こんな風になりたかったから、俺様は苦しんでいたんだなぁ」
弱々しくもしっかりと吐き出された言葉に、私はハッとした。
最後の最後で、ずっと見つからなかった自分を見つけられる事が出来たんだって分かったから。
緩んでいた涙が再び勢いを取り戻し、羅堕忌の顔にポタポタと雨の様に零れ落ちる。
良かった、本当に良かった・・・。
「・・なぁ、玉陽。お前、玉陽って言うんじゃねーよなぁ?」
私は空いた手で涙を乱雑に拭いながら「うん」と頷き、クリアになった視界に羅堕忌の顔をしっかりと映す。
「叶架。私の名前、神森叶架って言うの」
力強く答えると、羅堕忌は満足げに「叶架」と呟き、ニカッと口角の端を上げた。
すると急速に体の瓦解が進んでいく。胸辺りから下は一切がボロボロと塵の様に虚空に消え、頬を触れられている感覚もどんどんと無くなっていく。
私はその手を閉じ込める様にギュッと強く握りしめ「羅堕忌!」と叫んだ。
これが最期だと思うと、ぶわっと伝えたい言葉がせり上がってくる。
けれど、どれを言うべきかと取捨選択する間も無く、勝手に言葉が飛び出していた。
「憎魔に襲われそうになった時、助けてくれてありがとう!」
伝えるべきだったけれど、今までずっと伝えられなかった感謝の言葉。
私の唐突な礼に、羅堕忌は軽く呆気に取られたが。すぐに相好を崩し「ばぁか」と答える。
「お前を助けた訳じゃねぇ。あの愚図共にムカついてやっただけだぁ」
フッと鼻で笑うと、柔らかな眼差しで私をしっかりと見据えた。
ボロボロと手が消えていく。
「こんな言葉を言う日が来るなんてなぁ・・」
顔がボロボロと崩れ、消えていく。
「叶架」
真っ赤な瞳も、高い鼻も、鋭い歯が生えている口も。
「ありがとなぁ」
囁く様に告げた一言を最期に、羅堕忌と言う讐は跡形も無く消えてしまった。
赤と黒と紫色の塵となって、虚空へと消えてしまったのだった。
生きていた事も何も残らない、虚しい最期。
私の涙が荒廃した土地に降り注ぐ。
どうか、もう二度と羅堕忌が讐になりません様に。
生まれ変わる事が出来たら、沢山の幸せのなかを歩めます様に。
そんな羅堕忌と、もう一度出会えます様に・・・。
・・・
嗚咽を漏らしながら、羅堕忌の最期を悼んでいると、紲さんが私の肩をそっと抱いた。ギュッと包み込む様な優しさに、私の涙が少し緩まるが。
「叶架、悲しみは今ここで断ち切っておけ」
かけられた言葉が厳しいと言うよりも冷淡な一言で、唖然としてしまった。
紲さんは、羅堕忌と命がけの戦いをしていたからそう言うのだろうけど。でも、だからってこんな悲しい最期に対して、そんな言い方はないでしょ・・?
信じられないと、沸き立ってきた怒りをぶつけようと口を開きかけるが。
「あんな幸せそうな最期に、悲しみの涙はいらないだろう?」
静かに告げられた言葉に、私は「え」と一言零し、何度も目を瞬かせてしまう。
紲さんはそんな私を一瞥もせずに、羅堕忌が居た場所だけに目を向け、柔らかな微笑を浮かべた。
「あんなに幸せそうな最期は初めて見たよ。普通であれば、憎しみや苦しみを吐き出しながら消えていくんだ。それなのに、アイツは一言もそんな風には言わなかった。ありがとうと感謝を述べ、幸せそうな笑顔でいっただろう?だから俺はアイツの最期を悲しいとは思えないし、嘆く事も出来ない」
これがアイツの最初で最後の幸せだったと思うからな。と、紲さんは私の頭を自分の肩に優しく引き寄せ、腕の中に包み込む。
「叶架がアイツの死に悲しさや虚しさを覚えていたら、アイツは救われたのに救われなかった事になるんじゃないのか。君に与えられた幸せが、幸せと呼べなくなってしまうんじゃないのか。アイツに幸せをあげた君自身が、アイツの幸せを否定する様な真似をして良いのか」
耳元で力強く告げられる言葉によって、堰き止められていた涙が決壊し、滝の様に流れ出す。
紲さんの言葉は羅堕忌を嫌っているが故の冷たい言葉ではなかった。
羅堕忌の気持ちを蔑ろにしない為の思いやりに溢れ、私よりもしっかりと羅堕忌の最期の気持ちが見えていたからこその言葉だった。
とんちんかんな怒りを覚えた自分が恥ずかしい。本当に大切な事が見えていなかった自分にも、忸怩を覚える。
私は目元をパッパッと拭い、鼻水をずびぃっと勢いよく啜った。
「ごめんなさい、紲さん。私、羅堕忌の思いを踏みにじる所でした。紲さんが止めてくれなかったら、私・・本当にごめんなさい・・」
紲さんは何も言わずに、私の頭を優しく撫でる。
私は手から伝わる温かな言葉を受け取ってから、最後の悲しみをパッパッと払った。
もう泣かない。彼への餞に、この涙はいらないって分かったから。
私が涙を払うのを見ると、紲さんは腕の中から私をゆっくりと離した。そして「ここを出るぞ」と立ち上がり、手を差し伸べてくれる。
「俺達はこの世界にいるべき存在じゃないからな」
「はい」
コクリと頷き、彼の手を取ろうと自分の手を伸ばすが。
突然ぐらりと大きく視界が傾いた。
あれ?と怪訝に思った時には、体の感覚がフッと消えてしまっていた。
そうしてやって来たのは、純白の世界。
え?どうして?これ、どうなっているの?私、どうしちゃったの・・?
訥々と自分の中で言葉を並べたが、自分の状況を理解する事は出来なかった。勿論、そんな自分を何とか回復させようと言う事も。
ただ、自分の全てが白色に奪われていく。
「叶架!叶架!桔梗、翠!来い!手を貸せ!」
紲さんの切羽詰まった声を最後に、私は完璧に白色に塗りつぶされた。
でも、不思議と嫌な感じは全くしなかった。
羅堕忌が紲さんに倒された時も。ボロボロになりながら、再び立ち上がった時も。禍々しい黒色のモヤが纏われ、他人所か羅堕忌自身も危険な状態に陥った時も。
すぐ近くで、ずっと見ていた。
だからこそ、今この時しかないと思ってパッと飛び出した。桔梗さんと翠君を振り切って、「叶架!よせ、まだだ!」と怒鳴る紲さんの制止も振り切って。
今飛び出したら、私はただじゃ済まないだろう。大怪我を負うかもしれない。
そんな考えは当然頭の中にあったし、飛び出す事の恐怖心も勿論あった。
それでも私は飛び出した。怯みそうになる心を捨てて、恐怖心に囚われた体を捨てて、私は羅堕忌の元に走った。
彼を止めようと手を伸ばしたが。黒いモヤがカマイタチの様に、ザシュザシュッと細かくて鋭い傷を次々と入れ込んで来た。まるで自分以外の全てを拒絶する様な攻撃に、私は顔を歪めてしまう。
けれど、私は進み続けた。
そして与えられる苦痛を振り切る様に手を伸ばし、禍々しい術を生み出している手に無理やり自分の手を重ね、ギュッと包み込む。
その瞬間、黒いモヤ以上の痛みが私を襲った。肌が焼けただれる程の灼熱に触れ、手が一瞬にして大火傷を負う。更に、そんな手を破る様に何かが体内に入り込み、ズキズキと内側を破壊されていく。
言葉にならない苦しみがひどく暴れ出したが。私はグッと奥歯を噛みしめ、苦痛を押し込めながら言葉を吐き出した。
「もう、止まって。そうしないと、どんどん遠のくだけだよ。羅堕忌の本当の望みが」
私は苦痛を押し込む様に唾を飲み込んでから「こんな事、本当はしたくないんでしょ」と声をかける。
「羅堕忌、貴方の望みは誰かに止めて貰う事でしょ。そしてこの憎しみから、この苦しみから解放される事。そうでしょ?」
「・・・・何を言ってやがんだ」
羅堕忌は冷淡に言葉を返すが、その語勢は酷く弱々しかった。私の中にあった疑念が「やっぱりそうだ」と、確信に変わる。
「羅堕忌、貴方は自分が見えてない」
「勝手な事を・・べらべらと」
「本当の自分が見えていたら、そんな言葉は出ないよ」
羅堕忌の言葉を遮ってズバリと指摘し、淡々と言葉を続けた。
「自分が見えなくなって、かなり長い時を過ごしてしまったんでしょ。だから無自覚に言動に矛盾が生じるし、私の言葉に戸惑いを覚えるんでしょ」
「ち、ちげぇ」
「じゃあ何故、自分以上の強さを求めていたの?最強の座に固執しているのに、どうして?最強は自分だと酔いしれる為?最強と言う冠が相応しいのは自分しか居ないと痛感する為?私にはそうは見えなかったよ」
容赦ない詰問に、羅堕忌の精神が大きく揺らぎ出す。いや、すでに崩壊している精神が別の意味で崩壊を始めたのだ。「何故」とぶつぶつと繰り返し、体が強制的に突きつけられる矛盾を拒絶する様に震える。
それでも私は口を閉ざさなかった。まだあると言う様に、ドンドンと言葉を重ねていく。
「どうして玉陽の巫女の力を持った私を手元に置こうとしているの?強い讐には必要のない力のはずなのにどうして?私達人間と違って、傷を負ってもすぐ治っていたのに。どうして玉陽の巫女の力を欲しがっているの?」
それらがどう言う意味を持った行動か、分からない?と、焦点が合わなくなった羅堕忌の真っ赤な目をまっすぐ射抜いた。
「自分を止めて欲しい、自分を楽にして欲しい。羅堕忌の行動には、ずっとその想いが根底に込められているの。無自覚に込められてしまう程、その想いは強いんだよ」
無自覚に溶け込んでしまった本心を揺さぶる様に言葉を紡ぎ、ギュッと戦い続けた拳を強く握りしめる。
「紲さんが止める、私が楽にする。だからもう動かないで」
私は「羅堕忌」と優しく名前を呼んでから、ゆっくり歩み寄り、ボロボロの体を優しく抱きしめた。
「止まれる時が来たんだから、今ここで止まろう。これ以上進むと、本当に戻れなくなるよ。もっと自分が見えなくなるし、もっと苦しみ続けなくちゃいけなくなる。だから止まろう、羅堕忌。もう、これ以上苦しみを抱える必要はないよ」
泣き喚いている子供を宥める様に、優しくトントンと背中を叩きながら告げる。
すると羅堕忌の体が急激に弛緩し、ガクンッと倒れかかってきた。体を操っていた糸が切れたのだろう。私はなだれかかってきた体をしっかりと抱きとめるが、支えるには重すぎてずるずるとしゃがみ込んでしまった。
膝枕に切り替え、倒れてしまった羅堕忌を窺うと。羅堕忌は正気を取り戻した瞳で私を映し、ぼんやりと「温けぇ」と呟いた。
「これが、この温かさが、俺様の求めていた事だった・・のか?」
長い事見えていなかった自分の声が、ようやく届いた瞬間だった。疑問符が付いているから、まだ完璧には聞こえていないのだろうけれど。
それでもずっと聞こえていなかった声なのだから、それが少しでも届いたと言う事は大きな進歩だ。
私はニコリと目を細めて「そうだよ」と答える。
すると羅堕忌はハッと鼻で笑い「こんな物をここで得ようとしていたのか」と唾棄した。
「っとに、馬鹿げてるぜぇ・・戦い以外に心を奪わる奴が死んでいく世界でよぉ。こんなもんがある訳ねぇのによぉ」
自嘲を浮かべながら告げられた言葉で、私はやっと分かる。
何故、羅堕忌がこうなってしまったのか。大きな齟齬に苛まれている苦しみにも気がつかなくなってしまったのは、どうしてか。
この魁魔の世界と言う過酷な世界が「戦いを辞める」と言う選択肢を排斥し、戦いを続ける生き方を強制していたからだ。そうしなければ死ぬと、常に眼前に突きつけていたからだ。
なんて苦しすぎる世界だろう。なんて残酷な世界だろう・・・。
「だから自分じゃ止まれなかったし、止まって良いって言う存在も居なかったんだ・・」
顔を苦悶に歪めながら吐き出すと、目の前の羅堕忌はハッと鼻で笑い、一蹴した。
「止まる必要なんざねぇからなぁ」
止まる必要がないから戦い続ける。そうして一人で戦い続けた結果が、これなんて・・。
私はキュッと唇を一文字に結んだ。
私が、羅堕忌の負う苦しみをもっと早くに見抜くべきだった。私が、もっと早くに羅堕忌を止めるべきだったんだ。
「・・・ごめん、羅堕忌」
目頭が熱くなり、視界がじわじわと歪んでいく。瞼の緩やかな湾曲を滑って、雫がポタッと羅堕忌の顔に滴り落ちた。一滴、また一滴と雨の様に落ちていく。
羅堕忌はその雫に弱々しく目を開けて「なんでだよ」と、呆れ混じりに訊いた。
「俺様に殺されかけたって啖呵切ってくる女が、なんでこんな所で泣いてんだよ」
意味分かんねぇと小馬鹿にされるが。私の涙は止まらず「だって、だって」としゃくり上げるばかりだった。
そこから先の言葉を紡ぎたくなかったから。
「生き直す時間が、羅堕忌にはもうなくなってしまったから」
あまりにも残酷な言葉だから、絶対に言葉にしたくなかった。
でも、そんな残酷な言葉しか、この現実には当てはまらない。
ボロボロと瓦解していく体が残された時間はもうない、と物語っているから。
あぁ、なんて残酷な世界なんだろう・・。
止めてくれる誰かもいない。痛みを訊いてくれる誰かもいなければ、痛みを分かち合ってくれる誰かもいない。
負の念だけを抱えて生きる事を強いられ、その道を一人で歩き続けた結果がこれだなんて。
最後の最後まで、この世界は残酷すぎる。
言葉が嗚咽の中に消えていくと、羅堕忌が唐突に口を開いた。
「こんな温けぇ光に包まれて逝くとはなぁ」
柔らかく言葉を紡ぐと、羅堕忌は小さく笑った。初めて見る、柔らかな微笑。ゾクリと総毛立つ様な冷笑ではない、温かな心が溢れた笑みだった。
「存外、悪くねぇ・・。最後の最後で闇以外の物を見られたし、こんな最期を迎えられる讐は他にいねぇだろうからよぉ」
「・・羅堕忌」
惜しむ様に彼の名前を呼ぶと、羅堕忌は手の形を留められなくなった手をゆっくりと上げ、私の頬に触れる。触れていない様で触れている手の感触に、私はしゃくり上げてから自分の手を彼の手に重ねた。
すると羅堕忌は口元を優しく綻ばせ「あぁ」と、しみじみと吐き出す。
「ようやく分かったぜぇ。俺様は、戦いのつまらなさに苦しんでいたんじゃねぇなぁ。ずっと解放されたかったんだなぁ・・こんな風になりたかったから、俺様は苦しんでいたんだなぁ」
弱々しくもしっかりと吐き出された言葉に、私はハッとした。
最後の最後で、ずっと見つからなかった自分を見つけられる事が出来たんだって分かったから。
緩んでいた涙が再び勢いを取り戻し、羅堕忌の顔にポタポタと雨の様に零れ落ちる。
良かった、本当に良かった・・・。
「・・なぁ、玉陽。お前、玉陽って言うんじゃねーよなぁ?」
私は空いた手で涙を乱雑に拭いながら「うん」と頷き、クリアになった視界に羅堕忌の顔をしっかりと映す。
「叶架。私の名前、神森叶架って言うの」
力強く答えると、羅堕忌は満足げに「叶架」と呟き、ニカッと口角の端を上げた。
すると急速に体の瓦解が進んでいく。胸辺りから下は一切がボロボロと塵の様に虚空に消え、頬を触れられている感覚もどんどんと無くなっていく。
私はその手を閉じ込める様にギュッと強く握りしめ「羅堕忌!」と叫んだ。
これが最期だと思うと、ぶわっと伝えたい言葉がせり上がってくる。
けれど、どれを言うべきかと取捨選択する間も無く、勝手に言葉が飛び出していた。
「憎魔に襲われそうになった時、助けてくれてありがとう!」
伝えるべきだったけれど、今までずっと伝えられなかった感謝の言葉。
私の唐突な礼に、羅堕忌は軽く呆気に取られたが。すぐに相好を崩し「ばぁか」と答える。
「お前を助けた訳じゃねぇ。あの愚図共にムカついてやっただけだぁ」
フッと鼻で笑うと、柔らかな眼差しで私をしっかりと見据えた。
ボロボロと手が消えていく。
「こんな言葉を言う日が来るなんてなぁ・・」
顔がボロボロと崩れ、消えていく。
「叶架」
真っ赤な瞳も、高い鼻も、鋭い歯が生えている口も。
「ありがとなぁ」
囁く様に告げた一言を最期に、羅堕忌と言う讐は跡形も無く消えてしまった。
赤と黒と紫色の塵となって、虚空へと消えてしまったのだった。
生きていた事も何も残らない、虚しい最期。
私の涙が荒廃した土地に降り注ぐ。
どうか、もう二度と羅堕忌が讐になりません様に。
生まれ変わる事が出来たら、沢山の幸せのなかを歩めます様に。
そんな羅堕忌と、もう一度出会えます様に・・・。
・・・
嗚咽を漏らしながら、羅堕忌の最期を悼んでいると、紲さんが私の肩をそっと抱いた。ギュッと包み込む様な優しさに、私の涙が少し緩まるが。
「叶架、悲しみは今ここで断ち切っておけ」
かけられた言葉が厳しいと言うよりも冷淡な一言で、唖然としてしまった。
紲さんは、羅堕忌と命がけの戦いをしていたからそう言うのだろうけど。でも、だからってこんな悲しい最期に対して、そんな言い方はないでしょ・・?
信じられないと、沸き立ってきた怒りをぶつけようと口を開きかけるが。
「あんな幸せそうな最期に、悲しみの涙はいらないだろう?」
静かに告げられた言葉に、私は「え」と一言零し、何度も目を瞬かせてしまう。
紲さんはそんな私を一瞥もせずに、羅堕忌が居た場所だけに目を向け、柔らかな微笑を浮かべた。
「あんなに幸せそうな最期は初めて見たよ。普通であれば、憎しみや苦しみを吐き出しながら消えていくんだ。それなのに、アイツは一言もそんな風には言わなかった。ありがとうと感謝を述べ、幸せそうな笑顔でいっただろう?だから俺はアイツの最期を悲しいとは思えないし、嘆く事も出来ない」
これがアイツの最初で最後の幸せだったと思うからな。と、紲さんは私の頭を自分の肩に優しく引き寄せ、腕の中に包み込む。
「叶架がアイツの死に悲しさや虚しさを覚えていたら、アイツは救われたのに救われなかった事になるんじゃないのか。君に与えられた幸せが、幸せと呼べなくなってしまうんじゃないのか。アイツに幸せをあげた君自身が、アイツの幸せを否定する様な真似をして良いのか」
耳元で力強く告げられる言葉によって、堰き止められていた涙が決壊し、滝の様に流れ出す。
紲さんの言葉は羅堕忌を嫌っているが故の冷たい言葉ではなかった。
羅堕忌の気持ちを蔑ろにしない為の思いやりに溢れ、私よりもしっかりと羅堕忌の最期の気持ちが見えていたからこその言葉だった。
とんちんかんな怒りを覚えた自分が恥ずかしい。本当に大切な事が見えていなかった自分にも、忸怩を覚える。
私は目元をパッパッと拭い、鼻水をずびぃっと勢いよく啜った。
「ごめんなさい、紲さん。私、羅堕忌の思いを踏みにじる所でした。紲さんが止めてくれなかったら、私・・本当にごめんなさい・・」
紲さんは何も言わずに、私の頭を優しく撫でる。
私は手から伝わる温かな言葉を受け取ってから、最後の悲しみをパッパッと払った。
もう泣かない。彼への餞に、この涙はいらないって分かったから。
私が涙を払うのを見ると、紲さんは腕の中から私をゆっくりと離した。そして「ここを出るぞ」と立ち上がり、手を差し伸べてくれる。
「俺達はこの世界にいるべき存在じゃないからな」
「はい」
コクリと頷き、彼の手を取ろうと自分の手を伸ばすが。
突然ぐらりと大きく視界が傾いた。
あれ?と怪訝に思った時には、体の感覚がフッと消えてしまっていた。
そうしてやって来たのは、純白の世界。
え?どうして?これ、どうなっているの?私、どうしちゃったの・・?
訥々と自分の中で言葉を並べたが、自分の状況を理解する事は出来なかった。勿論、そんな自分を何とか回復させようと言う事も。
ただ、自分の全てが白色に奪われていく。
「叶架!叶架!桔梗、翠!来い!手を貸せ!」
紲さんの切羽詰まった声を最後に、私は完璧に白色に塗りつぶされた。
でも、不思議と嫌な感じは全くしなかった。